朝日文庫 20080321
.□転向論
父は大正時代の自由主義者で、軍の横暴に批判的で、張作霖爆殺には反対していた。だが、満州事変のころから変節し国策を支持するようになる。捕虜を死刑にせよ、という。一高英法科の首席だった人が大政翼賛になってしまった。アメリカから帰国したら、大正時代の平和主義の指導者が、そのまま軍国時代の言論の指導者になっていた。かつて愛読していた倉田百三や武者小路実篤までが口をそろえて「蒋介石はけしからん」「神風が吹く」と言っていた。
どう自分の思想が変化してきたのかを、意識して考えようとしない父親をはじめとする知識人のありかたを追い、ドイツやイタリアにまで広げたのが転向論だった。
「どう自分の思想が変化してきたのかを、意識して考えようとしない」というのは、私自身にもつながる。今はプラグマティズム的な考えに惹かれているが、学生時代は読んでもいないのになんとなく、マルクス主義的なものに魅力を感じていた。なぜ革命が必要だと思ったんだろう? それがなぜ漸進的ないわば改良主義的なものにかわってきて、さらにはタテマエが大事だなどとじじむさいことを言うようになったのか。考えが深化したからそうなったのか、それとも世の中に流されて「転向」しただけなのか。そのへんはきっちりおさえておかないと、本当に危ない時代になったときに、危ない方向に「転向」しかねない、かもしれない。
鶴見は、転向した人を必ずしも批判しているわけではない。転向しなかった共産党の闘士を諸手をあげて評価しているわけでもない。
硬質にがんこに主張を押し通そうとした人よりも、のらりくらりと世の中の流れをさけて、流れを加速する側になることを避けたリベラリストを、たとえその人が保守であっても評価する。吉田首相を評価していたからこそ真正面から批判できなかった、というのは興味深い。のらりくらりの代表が、戦前だと柳宗悦であり、里見淳であり、戦後の漫画ならば「ガキデカ」であるという。
メディアが転向する原理を、「新しいもの好き」にもとめている。
新聞、雑誌にとって価値あるものはつねに新しいことであり、古いけど真理というのは尊重されない。……昭和10年代のジャーナリズムも新しい何かを求めたから、昔と同じ「帝国主義戦争はいけない」という意見はだんだん退いていく。軍部とむすびついた官僚が「革新」ともてはやされるようになる。そんな時代に戸坂潤が「ひと吾れを公式主義者と言う」を書いた。守旧派宣言だった。西部邁や田原総一郎や猪瀬直樹は「なにか新しいもの」をだしてくる。それはジャーナリズムの約束である、という。(230)
「人間の思想の根本問題は、重大なことをいいつづけることです」
.□伝記
鶴見は、レッドフィールドの「ザ・リトル・コミュニティ」という本に影響を受けた。「当時の見方と、それを振り返る現在の見方とをまぜこぜにしないで、一つを歴史の期待の次元、もう一つを歴史の回想の次元として区別する」という態度から伝記の書き方をまなんだという。(p359)
伝記を書くとき、「今」から過去をふりかえる「回想」的な手法と、その当時の視点からとらえる「期待」的な手法がある。後者は系譜学的な視点ともいえる。
えてして有名人の伝記は、えらくなった「今」を起点として彼らの子供時代を回想して「こういう体験をしたからこんなにえらくなった」と書きがちだ。ワシントンの桜の木の話、野口英世の指の話、織田信長のウツケの話……。でも桜の木を伐ったことを素直に謝った人はほかにもたくさんいるし、ウツケなどは世にゴマンといる。
「期待」の視点とは、大人になってからの信長の偉業(蛮行)を捨象し、不良行為を繰り返していた子ども時代の信長の心情によりそい、そのときの不安や悩み、怒り、もやもやをえがく。「回想」すれば一直線にみえる歩みも、「そのとき」は霧のなかを歩むようなものだったはずだ。そんな暗中模索ぶりを再現できたら、「今・ここ」で悩む私たちが生きていくうえで役立つ伝記になることだろう。
そういう意味では今まで私が書いた文章は「回想」の域をでていなかった。「今」のすごさや変人ぶりをもとに過去を見ていた。
でもいったいどうやったら、「そのとき」からの視点で伝記を書けるのだろう。赤ん坊にさえもなりきってしまうサルトルの小説は、その嚆矢なのかもしれない。鶴見の著作を読んでみなければなるまい。
(〓ジャン・ゲーノの書いた「ジャン・ジャック・ルソー伝」も、あるときのルソーを考えるのに、そのときまでを見て記述していく。その後のルソーを意識の中から捨てる。 〓なだいなだの「TN君の伝記」〓似た方法。中江兆民のことを書いているが、匿名にすることで、光のあたりかたがちがう)
マルクス主義は、神の立場に立って同時代を論じている。サルトルがマルクス主義から離れていくのは、そこに根拠がある。実存主義という立場に立てば、期待の次元には当然、不安が入りくんだかたちである(363)--という指摘もおもしろい。
マルクス主義はプロテスタントだからユーモアがない、という。なるほど、プロテスタントかどうかは知らないが、マルクス主義を信奉する人たちの生硬さはプロテスタントにつうじるものがある。
.□言葉のお守り的使用法について
正当と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたりする。「八紘一宇」とか「皇道」とか。戦後直後の時期には「民主主義的」とか「自由」とかの言葉がお守り言葉として使われていた。ソ連系のお守り言葉にも触れている。細川政権時代ならば「政治改革」であり、小泉時代なら「規制緩和」や「改革」だったりするのだろう。
.□信仰
タヌキを信仰する、と鶴見は言う。日本には明治20年代以降にできた教育体系、知識人養成ルートとはちがう大衆の知的伝統がある(246)。それがタヌキの民話や鳥獣戯画などのユーモアのある宗教だ。いわば民衆の伝統的な知恵である。
カトリックにはある種のユーモアがあるけど、プロテスタントはルター以来、ユーモアがない。マルクス主義の運動も「ユーモアがない」という性格をプロテスタントから受けついだ。天皇制の教えにはユーモアはない。教育勅語もそう。ところが天理教、大本教など、幕末から明治にかけての宗教にはユーモアがある。だから私は「タヌキを信仰している」……と。「ユーモア」は民衆の知恵を代表し、プロテスタントや教育勅語、マルクス主義の生硬さへの対抗軸(アナキズムの軸)になっている、ということなのだろうか。
「タヌキ」信仰が政治の分野におよぶから、「政治思想に対しても哲学に対しても、私が望んでいるのはアホ度なんです。いまの人でいうと辻元清美が好きなんだ。30年前は小田実がアホ度が非常に高かった。アホだから、いっぱい力をもってる。アホの政治思想というのは骨格がはっきりしてるでしょ」(266)となるようだ。
.□編集(476)
編集とは あいまいさの重視。ふわっとした仮説があり、そこから仮説演繹法がはじまる。ニュートンだってたいへんな迷信家で、科学的でもなんでもない。ルネサンスの自然科学の発生そのものが迷信と錬金術で渦巻いている。はじまりの方向性は真理から出てきたものではない。記号論と編集の関係は、ぼんやりしている領域が重大ということです--。
科学的なきっちりとしたもの(生硬なもの)だけでなく、ぼんやりしたものを大切にしたほうが独創性が生まれやすい。
今西錦司は大学の専任としての給料をもらっていないにもかかわらず、サークルの中心としてありつづけた。京都の土地柄〓がその基盤になったという。身近に知識を得る場があり、集まる場があり、終電を気にせず、深夜まで語り合えるという京都は「知の編集」の場でありつづけた。
そういう民間からの編集の場を各地にもうけようとしたのが、サークル運動であり、丸山真男の助言で発足させた「思想の科学」の読書会だった。週刊金曜日の「読書会」という発想もこのへんからでてきたのだろう。
「〓これだけ寿命がのびたのだから、40歳以後は、だれかの話を聴きに行くということじゃなくて、自分の動きを含めたサークルをつくれる可能性は誰にでもあると思う」という指摘は、なるほど、と思う。個々がバラバラで先行きが見えなくなっている現代ほど、サークルが大切な時代はないかもしれない。
.□その他
・プラグマティズムって、現実主義とか妥協主義くらいにしか理解していなかったから、もっともっと深い部分をちらりちらりと見せられて、唖然とした。
・自分の著作はすべて母への回答である、というマザコン告白もおもしろい。子供にとって母親は、絶対権力としてたちあらわれる。デカルトは「我思う故に我あり」と、まず最初に「自我」をおくが、鶴見はそれはちがうという。まず「母」ありきだと。その考え方は、「自分」よりも先に「絶対的な他者」をおくレヴィナスに近いような気がする。マザコンから「他者」を導きだす発想がおもしろい。近代西欧の哲学と東洋思想のちがいがこんなところにあらわれるのだ。
・桑原武男は、国立大学などからは独創的研究がでるわけがない、と思っていた。が、日本は民間の力がきわめて弱い。だから国にたよらざるをえない。国と対立するところからは大きなものは生まれない。でも、国べったりになってしまってはもっといけない。……そんなどっちつかずの絶望感をもっていた。だから「国」の力を軽視せず、市井の研究者の存在に目をかけたのだろう。という。
左翼の人々はかつて、中曽根の協力で日文研をつくった桑原に「保守派」というレッテルをはっていた。桑原独特のプラグマティックなバランス感覚と日本の現状への絶望感を理解していなかった。
---------抜粋----------
▽43 運動論でも、体系としてかっちり立てるのがいやなんだ。人が生きているのは全部あいまいだ。だから私は総括とか除名を好まない。
▽54 親父は大正時代の自由主義で、張作霖爆殺には反対していた。それが満州事変のころから変わってくる。……都留さんは戦争にならないといった。私は戦争になるといった。政治家同士の会話がどの程度のものか、見当がつく。政治家は頭のいい人と思えない。親父は一高英法科の首席だったけど大政翼賛になっちゃうし。……倉田百三や武者小路実篤まで口をそろえて「蒋介石はけしからん」といいはじめ、「神風が吹く」という。「万歳万歳」と書いてないのは、広津和郎、宮本百合子、柳宗悦、里見惇くらい。
▽62 デューイは、日本の民主主義は天皇制とたたかい、天皇制を乗り越えることなしには成長しないという結論をもっていた。首を切っちゃえというのではないんです。摩擦して対抗しながら封建的な性格や専制権力をゆっくりそいでゆく。そういうデモクラシーを支持した。当時の日本の潮流でいえば、吉野作造、石橋湛山。湛山はシベリア出兵にも反対。中国を侵略して張作霖を殺すのにも反対。終わりまで反対するのは湛山ただ一人。その基礎になっているのがプラグマティズム。
湛山が立てた「小日本」の構想は、おそらく明治末年に実現可能だったほとんど唯一の軍国主義以外のコースだったと思います。……合法のギリギリ限界で当時の政府に反対する。
▽70 プラグマティズム 桑原武夫さんはデューイを読んだ。自分の体験からプラグマティズムに行ったのは、西堀栄三郎、梅棹忠夫、川喜多二郎……。
▽93 独在論の成立する前がある。寝ころんでいる赤ん坊から見たら、人類の代表は母親であって、人類は母親。まず母親があり、それと対抗するものとして自分がある。自分が出るところから書いたのは基本的にまちがっている。……私が書いている著作も、今ここで話していることも、究極的には全部、おふくろに対する答えなんだ。(レヴィナスのいう「他者」と似ている?)
▽102 29歳のとき2度目の鬱病に。液体みたいになる。それを何とか固体にもどそうというんで「朝8時におきる」というような無意味な形式を自分に課す。意味は問わない。形式として反復する。意味を閉めださないと自分が立つことができない。朝8時に起きようということ以外に考えない。意味の洪水に耐えられない。
(〓気づきの思想)
▽106 べ兵連 同志社大学の年収の半分以上つかった。悪人なのに正義のふりをしないといけない。正義の仮面をかぶるのはものすごい苦痛。
▽143 武谷さんは敗戦前から「プラグマティズムくらいは理解して取り組まなきゃマルクス主義は成り立たない」という考え方。共産党のフラクションに動かされた民科の創立者でもあるんだけど、彼の考え方は共産党のテーゼとはちがっていた。
当時のソヴィエトの公式哲学は、「弁証法論理学が高次の論理学で、形式論理学は初歩の論理学、記号論理学は観念論の一形態にすぎない」というもので、民科はそれを受け継いで「思想の科学」のグループを目の敵にした。
その後、スターリン批判がでて、いまは共産党の哲学者も「そんなこといったっけ」というような顔をしてますよ。いやらしいね。終いには、もっとも独創的な古在由重も除名してしまう。その具合の悪さを歴史にとどめないといけない。
▽153 「言葉のお守り的使用法について」 正当と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたりする。「八紘一宇」とか「皇道」とか。戦後直後の時期には「民主主義的」とか「自由」とかの言葉がお守り言葉として使われていた。ソ連系のお守り言葉にも触れている。
意味をよく考えないで聞ける言葉。
▽168 ウソの効用 「コミュニケーションをよくしたらすべてがよくなる」という思想への疑問
▽170 資料に現れてこない部分をきちんと測定して、それをおりこんで論文を書く学者が少なくなっている。
▽171 捕虜虐待に直接手を下すのは朝鮮人。捕虜の直接のうらみを買うのは朝鮮人。戦後処刑者の数も朝鮮人に多い。
▽181 〓バーリンの「人間マルクス」(サイエンス社) 分析哲学を通った言葉でマルクスの良い点を賞揚している。
▽185 プラグマティズムは南北戦争から。対立して殺し合いをするのはやめよう、という妥協の方法として生まれた。フーコーもロラン・バルトも抵抗の哲学ではあるけれど、プラグマティズムの妥協と抵抗の哲学とはちょっとちがうんじゃないですか。哲学としてのタイプが。
.■転向について
▽197 葦津珍彦 「敗戦のときこれからは天皇の弁護人になろうと思った。弁護人は被告のいいところばかりではなく、悪いところもちゃんと知っている。しかし表だって活動するときには悪いところはいわない。そのことを理解してくれ」。……戦争中、東条内閣を批判して牢屋に入っている。戦後は「神社新報」で占領批判をやった。筋が通っている。
▽198 林達夫 戦争中も立派だったが、戦後「共産主義的人間」を書いて、ソビエト・ロシアの国家としての行き方を完全に否定した。
▽203 丸山真男 「共産党には戦争を防げなかったことに対する政治的自覚がない」と正面から批判した。
▽208 〓加藤典洋「アメリカの影」 「原爆を持った者が問答無用と迫った、そのことが無条件降伏の背後にある」と論じる。そんな世界でいいのか、という問題。
いま世界にある空腹に対して痛覚をもっているか。核で人を脅すという問題に対してずるずると権力のいいなりになっていいのか。この二つの感覚をもっている人間は新しい仕方で転向論が展開できると思う。二つを落として、共産党は正しいとか、レーニンまでもどればいいとか、そんなことは根本の問題じゃない。空腹と核の脅威、この二つから目を離さずに書く人は転向論を新しい形で展開できるでしょう。
社会主義の崩壊による思想の変化。これは「権力の強制によって起こった思想の変化」という転向の定義に入らない。従来の理論の枠組みから大きく外れてしまったときに起こる転向問題。そのさい自分の理論をいかに修正していくか。曲がるときはシグナルを出さなければいけない。うやむやにしてしまうのは具合が悪い。
▽216 転向より重要な問題 転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしている。「生きてていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題がもっとも重要。
▽227 占領を「見事な占領」と書いた。 ……あの占領は悪かったといいだす動きがつよくなると思った。自分たちがなしえた占領と比較をするという観点がスポッと落ちちゃうだろう、と。日本がやっていた占領を目の前に据えて、アメリカがやったことが比較的に高いものだったかを計量できなければウソでしょ。米軍の占領中、日本には伝染病が起こらなかった。アメリカの厚生局が努力したんです。
.■アナキズム
▽285 アナキストの運動としては抵抗以外は具合が悪い。スペインでも、アナキズム系の人が権力をとって大きな働きをしたとはいえないんだけど、フランコが共和国を潰した後、スペイン人の「反射」の中にあるアナーキーなものに宿って生きのびていく。日本の場合は、文体として大杉栄。アナキズムは反射として文体に宿っている。
戦争中にマルクス主義からアナキズムに転じた太宰治も、大政翼賛時代にみごとな作品を書きつづける。〓戦後直後に書いた「パンドラの筺」なんかまさにアナキズム。
(アナキズム ユートピアの運動がテロとリンチに終わる)
好みとして思想を純化する、純粋化していくことに反対。
▽292 もともとあった村の中の秩序はそういうアナキズム感覚。その訓練を受けていなければ人間は一挙に国家によってつくりかえられてしまう。「忘れられた日本人」に出てくるが、村の中で迷子が出たとき、自然に分担を決めてさがす。そのとき役に立たなかったのは知識人だけだった。無政府主義の秩序感覚。
▽309 無所有 網野善彦 縁切寺、アジールというものが、中世のヨーロッパと同様日本にもあった。無所有の空き地、河、海……。無所有のところは国家が細目を決定するのではないが、公(パブリック)。「公」というのは、国家だという考え方が明治以後に深く植えつけられた。そうじゃなくて、私、公、国家と区別する政治学がなきゃいけない。天皇の国家、官僚の国家。それを無所有の観点からもう少し広げて、別の公をつくっていかなきゃいけない。
▽311 ニュルンベルク裁判では「個人はそれぞれの国家が課する国内的な服従義務を超越した国際的義務をもっている」とした。国際法で犯罪とされた政府の政策に協力することを拒否する権利と義務を市民がもっている、という見解。
▽319 アメリカ人は、友人が落ちぶれて質素なところに住んでいてもかならずつきあう。日本人は、悪い、と思ってつきあいがとぎれてしまう。
▽349 その人が出している最後の本までを愛読するのが読書家としての私の流儀。1つの作品を10回くらい平気で読む。〓
.■伝記のもつ意味
▽357 吉田満 「日米戦争のときに成人に達していた者は、一人残らず自分が何をしたのか、どう思ってやっていたのか。それをカードに書いて出す義務がある」
〓「戦艦大和ノ最期」 おれたちのやっていることはダメであるということを臼淵大尉が教え、一同を黙らせる。
▽369 1942年にアメリカから帰ってきたら、親父は「神風が吹く」といっていた。議会へいくと「アメリカの飛行士を死刑にしろ」とか演説する。
▽古事記はエロス的文明。〓「アメノウズメ伝」は私なりに書いた一条さゆりの伝記なんです。
▽402 柳宗悦という人物はおだやかさを支える勇気。日本のインテリは、過激で100%めいっぱいというところまで書ききるが、柳はそうはしなかった。戦争時代もきちんと生き抜いている。朝鮮に対する残虐性も見抜いている。が、おれは、そのことに腹を立てているとは書かない。そう書くことなく穏やかさを支える勇気をもっていた。
▽404 息子は岡真史に対して身内みだいな感じをもっていた。父さん、自殺してもいいのかい、という。私の答えは「いい」なんだ。自分が人を殺しそうになったとき、先に自分を殺す。そういう権利をもっている、と答えた。
.■外からのまなざし
▽偽善とあいまいさを恐れるな お茶会が財界の情報交換の場に。そういうものを「偽善」と切り捨てるのはうまくない。体制もまたあいまいさのなかにある。(〓ゲーム理論)
偽善といわれようが、北から南に近づくさまざまな道が試みられなければならない。
▽417 メキシコのヤキ族は最後まで闘って負けなかったから領土を確保した。その入口には陸軍兵士が歩哨に立っている。……中央政府があるとき、「これだけの補償金をだすから」といったら、ヤキ族は土地を守りきれるかどうか。(〓土地の知恵=アナキズムの知恵が通じるか。通じなかった伊方) ヤキ族は長老たちの政治によっていまも守られている。問題が起こると長老7、8人の話し合いで決められる。そういう一体感があるから領土を守りきっている。ヤキ族のなかで金に対する抵抗力がいったいどういうふうに守られるか。なかなかむずかしいと思う。(〓プロテスタントとマヤの関係はそれを壊した?)
「グアダルーペの聖母」〓
〓石田英一郎「桃太郎の母」講談社学術文庫
「マヤ文明」のなかで、マヤ族が毒矢を使うのをやめたりしていることで、その優しさを高く評価する。=北から南に近づく道を示唆。
▽425 ソロー メキシコ戦争にものすごく怒って、抗議として税金をはらわないといいだして牢獄に入れられる。先生のエマーソンが「牢獄なんかに入って恥ずかしくないのかね」というと「牢獄に入ってないで恥ずかしくないかね」とソローが言い返す。
ガンジーがソローの本を読んで、自分の伝統であるバガヴァドギターに同じような平和思想があることに目覚めていく。アメリカにおける非暴力思想はインドにもどりガンジーに影響を与える。ガンジーをインド経典に目覚めさせたのはソローなんです。
▽459 和歌は海外に対する影響力がない。が、俳句は国際的。
俳句は、シュルレアリズムが開発したオートマティズムとも結びつく。オクタヴィオ・パスは、「奥の細道」をスペイン語訳している。
短歌は日本の伝統につよく縛られているが、俳句には自由な羽ばたきがある。俳句はリズム以上にイメージをもっているから。
〓連歌も海外に影響力をもっている。隣の人は別なことを考えてつなげていく。(〓〓携帯小説と似ている?)
.■編集の役割
▽476 編集とは あいまいさの重視。ふわっとした仮説があり、そこから仮説演繹法がはじまr。ニュートンだってたいへんな迷信家で、科学的でもなんでもない。そして統合失調症。ルネサンスの自然科学の発生そのものが迷信と錬金術で渦巻いている。はじまりの方向性は真理から出てきたものではない。記号論と編集の関係は、ぼんやりしている領域が重大ということです。
▽480 スピノザの考え「概念と欲望」 本の中である概念が出たときに、それを自分の欲望によって貫き通す。それによって、その概念がある方向に動きだすものになって、自分の中に生きてくる。概念はそのようにして生きた概念になる。
転向も、日本共産党のテーゼからはずれたかどうかというふうに一義的にとらえないならば、豊かな発想と展開の場面としてとらえることができるはずだ。
▽504 マルクスは貧困ということを重大な問題として生涯の終わりまで取り組んで、最後は鉄道の切符きりになろうかとまじめに考えていた。こういう生涯を生きたことがいまでも意味がある。マルクスた体系をつくる動機は現在も生きている。それを受け継ぐことが重要なんじゃないか。しかしマルクスの体系そのものを不動のものとして考えない方がいいと思うんです。
▽511 サークルのつきあいが自分の思考の場であり、方法であった。思想の科学、坊主の会、声なき声の会、メディア史研究会、家の会、文体研究会……
フライス工として働く鈴木金雪は「ぼくにとって独学というのは、職場からまっすぐ家に帰らないで、コーヒー屋で座っていることだな」。「独学」の定義ひとつでも、サークルのなかでばらばら。その人なりの日常性にひきよせてどのように定義できるか、ということ。
▽514 明治時代の「万朝報」 内村鑑三、幸徳秋水らがあつまり一緒に論説をかき、あとは一緒に酒を飲んだりしていた。一つのサークルとしてたいへんな影響力をもっていた。
朝日の書評委員をしたとき、森毅と宿に帰って、コーヒー1杯で3時間も4時間も雑談した。これが私にとってのサークルなんだ。茶の湯の精神だね。
▽517 京都の「ちきりや」でやっていた「庶民列伝の会」……今西錦司は大学の専任としての給料をもらっていないにもかかわらず、サークルの中心としてありつづけた。〓京都の土地柄をなんとか生かしたいですがね。
.■雑誌「思想の科学」の終わりとはじまり
▽533 23歳から73歳まで。
▽547 デューイの哲学は、人間性の完成に対する楽天主義から出発しているから、可能性の無制限を主張。ジェイガーは、人間には「どうしようもなさ」がある。ある程度まではしなるけど、それ以上になるとおれてしまう。これが人間性にもある。それが原罪というものとつながる。(〓構造主義につながる?)人間のもっている「どうしようもなさ」からデューイを批判する。
▽551 マルクスに理解をもつ武谷さんが「共産党にひきまわされない団体があっていいじゃないか」といった。武谷さんの考えには戦争中の「世界文化」があった。共産党が壊滅したときに「土曜日」「世界文化」はつくられた。武谷さんは「世界文化」が大きな成果をあげたと思っていた。
▽559 東工大にいるとき、「思想の科学」編集費を懐に入れ、女性の事務員を妾にしている、というスキャンダルをつくられた。
▽561 鶴見良行を「思想の科学」にひっぱりこみ、上野の地下道に行って、そこにいる人から哲学を聞いたことがある。「この世は本当にあると思うか」「あなたが死んでも、空は青いか」と聞いて歩いた〓。「ひとびとの哲学」
▽565 「思想の科学」が売れなくなったとき、丸山さんに相談したら「全国に同じような支部をつくって活動することだ」といった。その考え方が、その後の「読者の会」というサークルになっていく(〓金曜日の手法はこのへんから?)
▽569 桑原さんは、国家の力によらなければ日本の重大なことは結局はできない。しかし国家の力に全部を任せるようなことがあったら、日本は終わりであるという考えなんです。日本人は個人がしっかりしていないからだ。すぐれた仕事は、本来は国立大学などとはちがうところからしか出てこない。しかし日本にはそういう場所がないのだから、学問は大したものにならない。「思想の科学」も国立大学に、ある程度対立的に並行しているのだから、あまり伸びないだろう。だからといって「思想の科学」を潰す側にまわれば、日本の国家そのもののわずかな可能性さえ衰えさせることになる。そう考えていた。
西川祐子が大阪大学の教官公募に通りながら2年間も採用をうやむやにされ、阪大相手に訴訟を起こした。桑原さんは西川さんの側にたち、西川祐子が勝った。
国家を批判するものがなければいけない。だけど日本で国家を批判する立場のものは、ある程度以上にはいかない。そう思っていた。
▽589 私は不良少年だったから、慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。子どものころから男女関係をもっていた。プライドにかけて制度上の慰安所にはいかない。だけど、18歳くらいのまじめな少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で40歳の慰安婦を抱いて、わずか1時間でも慰めてもらう。そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。この1時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う。
▽593 「風流夢譚」事件 この小説が社にきたとき、「中央公論」編集長竹森清は、社長の嶋中鵬二に相談して資金をつくり、深沢七郎に匿名で小冊子としてこれを少部数印刷頒布するようすすめることができたと思う。アンドレ・ジッドが同性愛についての小冊子「コリドン」を世に送った方法であり、永井荷風が大胆な「四畳半襖の下張り」を匿名で世に送り、その原作者であることにしらをきりとおした生き方に通じる。その道を講じなかったことに、嶋中、竹森のそなえの足りなさがあり、言論の自由についての近代日本の伝統の薄さである。
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