木楽舎 20080225
フォーククルセダーズがうたった「イムジン河」の誕生秘話である。
筆者の生まれ育った京都の南は、在日朝鮮人が多く、朝鮮戦争で負傷した米兵が後送される病院もあった。当時の京都は、ニンニクはおろか納豆とも縁がなく、ニンニクのにおいがすなわち朝鮮人差別の象徴だった。そんな時代に筆者は在日の友人の家でキムチにであって面食らう。
中学生のころ、銀閣寺の近くの朝鮮学校に、サッカーの試合を申しこみにいった。そこでたまたま聴いた「イムジン河」の調べに魅せられて、在日の友人から教えてもらう。18歳のとき、大学生のバンドのフォークルに、イムジン河を歌わないかと提案した。1番しかなかったから、2番と3番は作詞した。
「みなさん、これからぼくたちが歌う曲に、じっくりと耳をかたむけてください。今、世界のどこかで同じ民族がふたつに分けられていること。それがぼくたちの町、京都の現実にもかかわりがあるのだと、想像して聴いてください……」
初披露のコンサートでは、語りの上手な北山修がこう語ってからうたった。今まで体験したことのない静けさにつつまれた。
そのときの光景が、いま本を読んでも実際見てきたかのように想像できる。そのくらい力のある曲なのだ。
だがその後、「イムジン河」は発禁あつかいとなる。純粋な気持ちで世に送りだしたのに「盗作曲か」などと批判される。トラウマとなった時期もあったという。
なんて若くて純粋でまっすぐなのか、と思う。
松山猛が詩をつくり、加藤和彦がメロディーをつける。加藤がメロディーを奏で、松山が詩をつける。20歳前後の二人は小さな部屋で明け方までそんなことをしてすごしていたという。私の学生時代とは20年以上時代はちがうけど、なんて懐かしくて切ない光景なのかと思う。
そして彼や加藤がなによりすごいのは、60歳近い今でも、30数年前の青臭い純情を忘れず、平和や理想を語りつづけ、「僕にはまだ情熱があり、夢がある」と言いつづけていることなのだ。
「他のフォーク・グループは、そのころアメリカで人気があった、ブラザースフォーとかキングストン・トリオ……をコピーすることが多かったのですが、フォークルだけは、世界中の面白い歌をアレンジして歌う変わりだねでした」
という一文はまさに、フォークルがフォークの王道を歩いていたことをしめしている。
チリのビオレッタ=パラやビクトル=ハラ、アルゼンチンのユパンキらが各地に残っている民謡の発掘に力をいれたように、フォークルもまた、コキリコ節などの民謡を積極的にレパートリーにとりいれていった。
今はやりの曲の薄っぺらさなのは、文化の垂直軸(時間軸をさかのぼる思考)への意識がなく、ただ平面的にだれかの曲・詩をつまみ食いししつづけているからなのだろう。
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