佼成出版 20080224
前途有望な青年教師が事故で全身不随となる。絶望のなかで仏教をまなぶうちに「気づきの瞑想」の師にであう。
体と心を観察しなさい。思考を「観なさい」という。苦しいこと腹立たしいことがあったら、そういう思考そのものを観察しなさい。「苦しむ」のではなく、「苦しみを観察」しなさい、という。
二次元に生きるだけではなく、俯瞰する視座、空の上から自分の苦しみの位置を客観的にとらえる視座をもちなさい、という意味なのだろう。たしかにそうすれば苦しみを相対化できるかもしれない。
障害を得て、体の苦しみ以上につらいのは、こんな体でさえなければ……という「思考」だった。思考は過去にも未来にも自由にとんでいく。だからこそ苦しみをもたらす。
体の苦しみと思考の苦しみから抜けだすにはどうすればいいのか。
体の苦しみは、ひたすら客観視して観察しつづけることで、「心と体は別なんだ」という実感を得られたという。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのはそういう感覚なのだろうか。いまひとつ現実味をもてないが。心と体は別のものなのだから、体は自立できなくても心は自立できる、心は障害者ではない、というのはなんとなくわかる。体を自分という心の「外」にあると認められるようになるということだ。
では「思考」はどうなのか。過去の自分、未来の自分とくらべ、他人とくらべ、さまざまな欲望をもたらす「思考」を超克する道はあるのか。その答えを「気づき」にもとめる。過去や未来の自分ではなく「今・ここ」を知ること。
思考に流されそうになったときは、「体」を観ることに集中することで、思考(雑念)を受け流す。体という「形」をまず重視するこの考え方は、実体を虚として形式を重んじたソシュールなどにもつながる。
修行を積んでいくと、体の苦しみも思考の苦しみも、「気づき」にいたるための糧になるという。
……うーん、と考える。わかったような気もするが、つかみきれない。
でも、だれもが病にになり、だれもが死をまぬがれない以上、わからなければいけない感覚だとは思う。
「苦しむ」のではなく、「苦しみを観る」という感覚は頭ではよくわかる。一段階「上」の視点であり、内田樹のいう「師」の視点である。「歴史の変化をみる」「自分の成長をみる」のではなく、「歴史の変化のしかたをみる」「自分の成長のパターンをみる」という視点とも言えるかもしれない。
そういう意味では、「思考」は二次元的であり、「気づき」は思考の一次元上位にある三次元的視点なのだろうか。
抽象的に考えると混乱してくる。
わかりやすく考えるには「死」という苦をこえる視点と考えるべきだろう。
「今・ここ」に集中することで過去や未来からふっきれる、ということは、「永遠」にふれるということになる。仏教ではおそらくそれを涅槃といい、キリスト教では最後の審判後の世界という。「過去も未来もない、時間のない世界」の存在の可能性は、最近では科学的にも証明されつつあると広井良典が書いていた。近代合理主義を批判する現象学などの視点もこれに似ている。
一方、遠い遠い過去に徹底してこだわることで死の恐怖を乗りこえる人もいる。たとえばグアテマラのマヤの人々である。500年前の祖先たちから、50年前の英雄、自分の親や夫……亡くなった人たちの生き様をふりかえり自ら身体化することで、彼らは恐怖を克服しようとしていた。自分の一生をはるかにこえる長い長い過去を想定することで、近視眼的な過去や未来をある意味で無意味化する。それもまたたぶん「永遠」(という言葉は好きではないが)というか、第3の視座への道であり、「今・ここ」を生ききる視点なのだろう。
--------抜粋・メモ----------
▽いきなり障害者に。「どうせ死ぬのだ。いっそのこと心も病んでしまえば、何もわからなくなって苦しまずに死ねるからいい」
そう考えることで辛い気持ちを軽くしようとしていました。……
▽(仏法をまなぶ)師からの手紙) 手のひらを動かしてひっくり返すときの感覚を感じて御覧なさい。知らず知らず考え事が起こってきますが、その考えに惑わされず、体に戻るように。……体と心の真実を観る。そのものとなるのではなく、観るものとなる。体や心に何が起ころうとも明確にそれを知る者になりましょう。幸せが起こってきてもそれを追う者とならず、幸せをただ感じる人となる。苦しみが起こってきても、苦しんでしまう人とならずに苦しみを観る人になるようにしましょう。
▽90 はじめは雑念ばかりで気づきはほとんどありませんでした。これらはすべて「今・ここ」という瞬間から心を連れ去ろうとしました。
▽「思考」よりも「気づき」 「まずは体の動きに気づくことに専念しなさい」 体に起きる苦しみと飽きやすく味気ない感じ、疑念……が起きてきたら、これらにとらわれなければ苦しみはなくなると、つけいる隙を与えないようすぐに体の動きへ気づきを戻しました。
▽しだいに動いているときの体の様子が観えるようになる。体の動きに気づきが深く入り込むように、気づきが高まっていった。そのとき、私の状態を見守るもう一人の自分(観る人)が生まれた。「ついに瞑想がはじまったんだ」
▽94 やがて、過去や未来にとらわれない「今、この瞬間」にいました。
▽心は体の動きの使い手なのだ、体と心は別物だ、とはっきりみえた。体は体のうちに、心は気づきのうちにあり、それぞれ役割が違っていました……これまでの私の住みかは障害をもったこの体でしたが、いまや気づきという新しい住みかを発見したのでした。
▽100 体の動きを観るように、まだ思考を観ることはできなかった。……体に気づいている間は思考がまだ生じていない状態。しかし思考が起こってきたと気づいたら、今度は左手に意識を向ける……思考がどんな内容であっても、それらを観察して手放してやる。体にも思考にも没入しない気づきを中心にもっていく感覚がわかるようになって……体に気づきがあるときには思考が消える。
▽105 水を飲む、排便をする、……本当の智慧はこれらの動作への気づきから生じるものであって、原因を分析するような思考のなかから生まれるものではない。
▽110 体は無常であり、苦しみであり、無我(実体のないこと)である。解決不能なものは解決する必要はない。「無常・苦・無我」何一つとっても永久不変なものはなく、遅かれ早かれ形を変えていく。ただ自然の摂理にしたがって変化していってしまう。体に関した苦しみやさまざまな病を、何度も繰り返し観察し続けたとき、智慧が生じ、体に関する自然の摂理をはっきり観ることができるようになった。
……私は渉外をもった体を観る人となり、障害者ではなくなりました。体を使ってできることをただやっていけばいいのだと気づきました。
気づきをもって心のさまざまな状態(満足・不満・疑問・さまざまな思考)を観察し理解するプロセスを経たとき、これらは心そのものではなく、心というスペースに生じてくる単なる状態だと気づいた。……とくに過去や未来へと飛び交う思考にはまり込むと、平常心ではいられなくなってしまう。……気づきが高まることで、今を生きられるようになり、それによって苦を観察することができ、無意識な思考の危険性を観られるようになった。このような思考を解決しようと考え込む必要はない。それに気づいたらすぐに手放し、体の動きに戻ればいいだけ。なぜならそれは苦しみを生じさせる原因であるから。
……気づきによって、思考は幻想であり、何度も繰り返し姿を変えては現れる心の状態に過ぎないと観えたとき、思考に惑わされることはなくなる。
体を観ることで、心に生じるさまざまな状態から自由になる。
▽118 「観る人になりなさい、その状態に同一化してしまわないように」 苦しみが生じるとき、苦しみそれ自身になってしまっていた。苦しみがなくなる瞬間というのは、苦しみを「観る」人になっている。
▽123 体、心または思考、気づき、この三つを繰り返し観察していくことで、体も心も無常であり無我であることを知る。
感情や思考のなすがままに自分が口にしがちな言葉、考えがちな思考。何かを行ったり、話したり考えたりする前にしっかり気づき自覚的になったら、自分の思考に自分自身が振り回されることなく、智慧の伴った思考を生み出せるようになる。人生に振り回されるのではなく、人生を創造できる人に変わる。運命に身を任せ翻弄される人生ではなく、気づきが自分の人生を計画し、描いていけるようになる。
▽好き嫌いの感情が湧き起こってきたら、それらも学びの材料にする。苦しみも、その状態を見つめ、学びの機会としてしまう。苦しみの種類や働きはどのようなものだろう。それらはどこに生じているのだろう。苦しんでいる者とは、じつのところ一体誰なのだろう。ということを見きわめていく。
▽134 思考はコントロールできない。だから、思考に注意を向けずに、ただ、体の動きに気づきを向けていく。仏陀は静けさのよって悟りを得たのでも、特殊な光や色を見て悟りを得たのでもなく、思考そのものを明晰に観ることによって悟りを開いた。
……心の静けさにとらわれてもダメ。静けさにとらわれてしまったら、心に静けさがないときはいつでも苦しんでしまう。心の静けさも無常だから。「静けさにさえも執着してはいけません」
▽163 師からの手紙を受けとり、ただ「修行を始めてみよう!」と思えただけで、私のいのちはイキイキとよみがえった。いのちにはみずみずしい生命エネルギーが必要であり、それを得たとき生命にイキイキ感がみなぎってくる。
▽166 気づきを高めること、自分自身を感じていくというのは、この生命ある一瞬一瞬の「今」を生ききること。何かをしているとき、話しているときでも、考えているときでも、常に気づきを保っているということ。苦しみは、過去や未来への思いに対するとらわれから生じてくる。過去や未来を思い煩うことは、「今・ここ」にいる限りできない。それゆえ「今・ここ」にいrとき、苦しみはそこに生じてはこない。苦しむ瞬間はそこには与えられない。ただ気づきがそこにあるだけ。
▽174 何かをしているとき、話しているとき、考えているとき、気づきが増していく。何かが目に入ったときや聞こえたときでも、それに素早く気づき、動揺することがない。心は平静に保たれ、疑念も湧かない。何よりも一番大切なのは苦しみが減っていくこと。
▽191 身体的苦痛。まずそれに気づいて観察。学びのために少々辛抱する。その後、症状を軽くするために気づきをもって姿勢を変えてみましょう。「苦しみにイライラうんざりする人」にはまり込むことなく「姿勢を変えてあげる人」になる。
▽196 怒りを理解したら怒りなどもちたくなくなる。まず素早く怒りに気づき、すぐ言葉や行動に表してしまわず、怒りが収まるまでちょっと辛抱する。「観る人になりなさい。怒り自身に自らがなってしまわないように」。なぜなら怒りは無常であり、私のものではない。怒りが収まらないなら、気づきを体の動きに戻し、早く強く、そして長めに続ける。または深呼吸。深く息を吸い、10秒間息を止めたら、息をゆっくり長くはく。これを気づきを保ちながら5回やってみる。
〓〓怒りは必要だが
▽198 ラベリング=歩いているとき「歩いている」と言葉に出してみたりして意識を向ける瞑想のやりかた。修行者が自分自身の行動を確認できるようにする。(ソシュール〓)
ティエン師の方法の特徴は、言葉に頼らずそれを越えていく。言葉をあえて用いずに、ただダイレクトに体の動きに気づいていく。
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