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旅と移動 鶴見俊輔コレクション

■旅と移動 鶴見俊輔コレクション<鶴見俊輔>河出文庫
 時代の主流ではない部分、周縁部分にこそ、次の時代を担う大切なものがある。そんな存在を丹念にひろい、その意義を解明している。

 中浜万次郎は、14歳でアメリカの捕鯨船に助けられ、船長に育てられた。自ら稼いだ金で、捕鯨ボートや羅針盤などを買い、ペリーより2年も前に帰国した。このころの日本人としてただ一人、世界一周の経験をもち、海の立場から世界を見ることができた。愛郷心をもっているが、同時に、世界のさまざまなところに同じような愛郷心をもつ人びとが住んでいるという実感をもっていた。この点で、国の枠内で活躍した幕末の留学生とは異なっていた。明治以降、万次郎は開成学校の教授となったが、通訳と翻訳以外には用いられなかった。
 万次郎は勝麟太郎に対して「あの国では、高い地位についていたものは、いよいよ賢く考えようとし、ふるまいはいよいよ立派になります。このところが日本と違います」と言った。民主主義と国際主義を体現したこの言葉に、明治維新後も万次郎がはみだした存在とならざるをえなかった理由があらわれているという。

□福岡のどんたく
 どんたくという祭りをもつ福岡は、大都市なのに、一種の自主的な秩序ができているという。それは、周辺の農村の部落自治の気風が受けつがれているからで、都会の夜に農村の自治の姿が息づいていると解釈する。京都・大阪・東京も、明治・大正・昭和のはじめまでは、いくらかはそういう性格をもっていた。いや、祇園祭りや三社祭、天神祭のような伝統の祭りのなかには、今も惣村の自治の名残があるのかもしれない。

□メキシコ ヤキ族(伊高氏とともに)
 ヤキ族は、メキシコという国家のなかに「もうひとつの国家」を形成し、その国家は国境を越えて、アメリカの先住民と交流している。
 「新しい村」のような、契約によって新しい社会をつくる企ては、ほとんどが短期間で失敗している。社会を長い年月支えるには、理性的な契約や計画だけでなく、無意識の部分に働く思想の力が必要だという。ヤキの社会が、準国家として存在できているのは、深層において働く活力ある思想を持っているからだという。
 これは日本の惣村の持続力の説明にもなっている。補助金によってつくられたイベントやコミュニティはカネがなくなるとつぶれるが、村祭りとそれを支える惣村はなぜか数百年単位でつづいている。「無意識の部分に働く思想の力」があるからだ。その思想とはたぶん、生業と外部との交流によって長年の間に培われた信仰や心の構造のことなのだろう。

□グアダルーペの聖母
 グアダルーペの聖母マリアは暗い色の肌と、黒い髪をもっている。「グアダルーペの聖母万歳、独立万歳」と叫ぶ反乱軍は、原住メキシコ人をふくめた現地人による独立運動だった。メキシコでは、独立戦争が同時に階級闘争の性格をもったが、やがて現地白人グループの一部がスペイン側ついて、原住メキシコ人のリーダーだったイダルゴ神父らは惨殺されることになった。
 カトリックの教理には、現地の土俗信仰を寄生させるゆとりがあった。神父らは、こうしてキリスト教を広められたと考えたが、現在のグアダルーペの祭りは、キリスト教伝来前の信仰を保つための精神の修練の場となっていると鶴見は分析する。「ヨーロッパ文化は一見インディオ文化を征服したかに見えた。だが、本当に征服されたのは、ヨーロッパ文化だったのだ」(増田義郎「古代アステカ王国」)という。
 たしかに、グアテマラのマヤの人びとは、カトリックを信じながら、マヤの先祖や自然の神々をまつっている。その神々がカトリック教会にまつられている。鶴見や増田の考えのほうが正しいのかもしれない。一方、マヤの信仰と一緒になったカトリックを「非合理的」と批判するプロテスタントも、グアテマラで勢いを増している。資本主義に合致する宗教だからだ。
 アルジェリア生まれのレイモン・メルカは、ヨーロッパ人が時間を失うことを怖れて細かく区切って使う習慣をもつことを、「今という時の質をおとしてゆく側面をもつ」と批判している。「メキシコには、時間の流れを時計に合わせて統制する人びとの系列と、その時間の流れとは別の流れの中に生きる人びとの系列とがあるように見えた」と鶴見は観察する。
 日本も旧暦があったころは後者の時間感覚が生きていた。そういう時間が村の生活を刻んでいた。「ウチナー時間」などはその名残なのだろう。旧暦カレンダーなどが注目を浴びるのは、時計によって統制される近代への疑問がふくらんできているからなのだろう。

□エルコレヒオでの1年
 自分のうまれついた文化に対して、肯定的にせよ否定的にせよ、強い関心をもたないものは、外国文化の研究者として見込みがないと思います−−という意見は、姉の鶴見和子も書いていた。
 日本からの講師は、学生のうまれついた文化についていくらかでも学び、かれらの関心を自分のものとしなくてはならない。つまり、講師自身が教わる立場(学生)になる能力をもたなければならない。エル・コレヒオでの日本研究学科を実りあるものにするには、比較文化・比較社会論的視角が、学生・教師相互のものとして用意されることが必要だという。
 根っこのない人間、相手の根っこを知る努力をしない人間には外国文化の研究はできない、ということだ。

□アイスランド
 まさに周縁の国だ。冬、5時間ほどしか明るくないから、家族が一緒に過ごすことが多く、そこで本を誰かが読んでほかのものが聞くというのが楽しみのひとつだった。1人が読む本の数ではアイスランド人が世界一だった。小さな国だからみんなが働くしかない。社会主義国以上に平等と相互扶助があるという。
 「アイスランドは大国の介入にもかかわらず、アイスランド人としての時間の流れを保ち得たし、それ故に、欧米式の近代文明の破局のあとにくる文化の形を示唆する力をもっていると思う」と、鶴見は世界の周縁に、近代を越える未来を見ている。

□ポーランド 市民の記憶術
 文部省のビルの一部に秘密警察の拷問部屋が保存されている。第一収容所の地下室には、自らすすんで囚人のために犠牲になったコルベ神父の記念の部屋がある。東京には、そういう昔を記憶する手がかりがとぼしく、昨日の記憶から自分を切りはなして現在にのみ生きようとしている、という。
 クラクフの近くでは、教会建設を政府が認めなかったから、労働者が自分たちの資金と余暇をつぎこんで教会をつくった。大衆はカトリック信仰をとおして政府の思想にがんじがらめになることを免れ、思想の自由の空間を保った。同時に、1944年以前のポーランド文化とのつながりを保つ回路がのこされていた。

□ブルガリア リラ修道院
 1393年から1908年までトルコに支配され、都会では、ブルガリア語とその文化を保つ仕事はできなかった。そこで僧院でブルガリアの言葉を教え、文字を教えた。僧院は印刷発祥地でもあるという。
 インカやマヤは武力で根絶やしにされたが、ブルガリアでのトルコ人の支配がスペイン人ほどに徹底していなかったため、リラ僧院の非暴力服従の抵抗の方法が意味をもった。
 東ローマ帝国はブルガリア人の王国を併合する際にかなりの自主性を残した。ギリシア正教はカトリックのようにラテン語を強制せず、土地の俗語によって説くにまかせた。ここから、ギリシア正教そのものが民俗文化の守り手となる基盤がつくられた。それをよりどころとして、6世紀の間、トルコの支配に対して抵抗をつづけることになった。
 ブルガリアやポーランドのキリスト教会は、共産主義国家権力との結びつきを失ったことで、ローマ帝国との結びつきができる前のキリスト教本来の面目をとりもどした−−と分析する。巨視的な歴史のなかに現在の状況を位置づける視点が新鮮だ。

□チェコスロバキア
 ユダヤ人のテレジン収容所は、ナチスは当初、楽しいところに見せかける工夫をこらし、国際赤十字の使節も騙されて帰ってしまい、アウシュビッツなどの収容所まで足を伸ばさなかった。
 ユダヤ人たちも殺されるとは思わなかったから、テレジンのユダヤ人は、ユダヤ銀行やコーヒー店をつくり、音楽会があり、歌劇をもよおしていた。はじめのうちの子どもの絵が明るいのはそういう背景があるという。

□ハックルベリー・フィンの冒険
 ハックルベリーの心境は、南北戦争に南軍の立場で加わり、逃亡兵となったマーク・トウェーンの後ろめたさがこもっている。だから彼の作品に、信念をもって奴隷解放をとなえるエマソンやソローのような北部出身の文学とちがう、あたたかさを感じさせるという。
 フロンティアがなくなり、行き場を失ったハックは、ひたすらフォーマルなところから逃げていく。主流にもどっていくトムソーヤとは別れざるをえない運命だったという。ハックもトムソーヤも子どものころに読んだが、そんな背景があるとは知らなかった。

□フェザーストーンとクリーヴァー 黒人の運動
 ローザ・パークという裁縫女工が、運転手から白人に席をゆずるように言われて拒絶して逮捕されたことから、バス・ボイコットの声が起こったおき、それが全国に広まった。
 キング牧師は、慎重に状況について計算する人だから急進派との間に溝があった。ヴェトナム戦争でも当初ははっきりした態度をとらなかった。その後、反対の立場を明らかにして67年には牧師として良心的兵役拒否を呼びかけた。黒人名士としての安全な位置は失われ、受難の道を歩むことになった。
 黒人の学生運動家だったスニックは、徴兵制そのものに「2年間にわたって人を束縛し、殺し屋に仕立て上げるために訓練する権利など所有してはいない」と反対した。拳闘選手ジョー・ルイスの人気とくらべて、同じ拳闘選手カシアス・クレーが憎まれたのは、マルコムXの信徒として自分の政治思想をはっきりと言うためだった。
 日本人の北米留学生は、明治半ばからは官僚養成の場となった。その後、政府の模範がドイツにかわり、官僚養成はドイツ留学が主流となり、北米は裕福な階級の子を送る場所になった。
 ドイツ留学生にくらべると国家主義の推進力とはならなかったが、斎藤隆夫や清沢洌、高木八尺のように、軍国主義を批判しつづけた人びとでさえも、黒人やインディアンから北米を見るという視点は育たなかった。
 鶴見自身もそうだった。「7000万人の黒人を考えることなしに、北米の思想を論じることはできないということを、忘れたくない」と言う。

□水沢の人
 岐部神父は、マカオからインド、パレスティナをへてローマに着いて、イエズス会に入会した。1630年に16年の海外放浪を終えて43歳で薩摩半島に上陸し、最後は水沢を根城にした。
 東北の信者のもとに法王パウロ5世から手紙が届けられた。1617年に発信され3年かけて日本に届いた。1621年、奥羽地方のキリスト信徒は法王にあてて手紙を書き、5通がバチカンに保存されている。迫害されていた時代に手紙のやりとりがされていたことに驚かされる。
 カルヴァリョ神父は一度はマカオに追放されたが、ひそかに日本に帰り、商人となったり、坑夫になったりして北海道にわたり、津軽へたどりついた。信徒たちは鉱山近くに移民部落をつくっていた。幕府と寺の手先は山までこなかったから、鉱山の部落では公然と礼拝がおこなわれた。当時はまだ権力の手が届かないアジールがあった。
 かくし念仏は、権力と一体化した仏教への批判をになう宗教運動だった。かつてキリスト教徒が多かった水沢周辺に、かくし念仏は一気に広まった。
 水沢に行ってみたくなった。

□国家と私
 ルーズベルトの病状にスターリンは注目した。
 第一日の会談後、スターリンは、ルーズベルトとチャーチルを招いて大宴会を開いた。スターリンは自分専用のボトルの酒しか飲まなかったが、それは水で薄めてあった。ルーズベルトはアルヴァレス病で会議の間に居眠りする。チャーチルが書類をまわしても読みもしなかった。ルーズベルトはその病気故に、重大な結論についてスターリンにゆずってしまった。
 だが米国政府は、彼らが決めた政策は誤りがないと主張した。どこの国でも政府官僚が一体となって、指導者の決めたことは無謬であるとしてしまう。そこに危うさがある。
 「私たちには彼ら国家指導者ほどの悪をなしえないことの故に、私たちのほうが倫理的に優位に立っている。そのことによって私たちは、自由に国家指導者を批判できる立場にいる」と言い、「国家指導者のほうが偉いのではないかといった漠然たるものが私の心の底にあると、危ない」と警鐘を鳴らす。
 「まず第一に、何らかの仕方で反対の意思を、それぞれ自分のなかにもちたい。第二に、何らかの仕方で、できれば反対の意思を言いあらわしたい。第三に、何らかの仕方で、その反対の意思を広めていきたい」という鶴見の言葉は、今の時代にこそ読み返したい。

□メタファーとしての裸体 アメノウズメ
 うまれた時の赤ん坊はハダカだ。死ぬ時にも、一度は着衣をはがされてハダカになる。ハダカとハダカのあいだに、着衣の人生がある。
 インディアンの族長が年老いて「きょうは自分が死ぬ日だ」といって山奥の空き地に横たわる。しばらくたって、むっくりおきあがって「今日は死なない」とにっこり笑って山をおりていく。死が自分の生のなかに自然にある境涯は、人間にとって望ましい人生の様式と思う。
 死をいつも意識すると、人間の基本はハダカであることを自覚できる。「自分がやがて無一物でこの世を去っていくことを忘れたくない。いつの時代にも、方向を失ったハダカムシのようなものが、自分の内部に住みついていることを忘れたくない」と鶴見は書いている。

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□中浜万次郎。14歳でアメリカの捕鯨船に助けられ、ハワイ王国へ。米国へ。子どもと一緒に小学校教育を受けてはじめて読み書きを習う。日本語よりも先に英語で読み書きができるようになった。16歳だった。万次郎はフェアヘイブンのまちの人の伝説に。フランクリン・ローズヴェルトも覚えていた。恩人の船長を「地上で最高の友人」という。卑屈さがない。人間の対等性というアメリカの理想を体現する。
 ホイットフィールド船長は、日本人の少年を差別する所属教会をやめてしまった。別の教会に移り、万次郎をつれて通い始めた。
 自ら金を稼いで、捕鯨ボートをや羅針盤、四分儀などを買い…ペリーの浦賀渡航よりも2年前に帰国を実行した。しかもみずからの力と、ハワイ在住の市民の助けで。
 万次郎には国家とか国民という意識はなく、母に会いたい、故郷に帰りたいというのが帰国の動機だった。
 このころの日本人としてただ一人、捕鯨船に乗って世界一周をした経験をもっていた。海の立場から世界全体を見ることができた。
 愛郷心をもっているが、同時に、せかいのさまざまなところにおなじような愛郷心をもつ人びとが住んでおり、その人たちと親しくしてゆけるという実感をもっていた。この点で、幕末や留学生と万次郎とでは体験の質がちがう。留学生らは国家内の制度をなら、法律、銀行、陸軍、海軍、鉄道、新聞、学校などをもたらした。万次郎は身分こそ、開成学校の教授となったが、通訳と翻訳以外には用いられることがなかった
 万次郎の漂流そのものが、日本国家の歴史からはみ出す出来事だったが、帰国後の生涯も、日本の国家の制度から見れば、はみ出した一人の人間の生涯だった。万次郎が漂流によって得た思想は、明治以後の日本の社会に生かされることがなかった。
勝麟太郎に対して「あの国では、高い地位についていたものは、いよいよ賢く考えようとし、ふるまいはいよいよりっぱになります。このところが日本と違います」
 なぜ万次郎が、徳川時代だけでなく明治維新後の日本でもはみだした存在となったかが、ここにあらわれている。

□福岡のどんたく
 福岡。大きい都市なのに、無秩序なりに一種の自主的な秩序ができてゆくのは、周辺の農村の部落自治の気風がここにうけつがれているからで、都会の夜に今も農村の自治の姿が姿をかえて息づいているのだろう。京都・大阪・東京も、明治・大正・昭和のはじめまでは、いくらかはそういう性格をもっていたのだろう。
□シベリア抑留者

□メキシコ ヤキ族(伊高氏とともに)
 子どものころは10分ぐらいがとても長く感じられた。それは中年に達した今の私にとっての1カ月以上にあたるだろう。…メキシコに行って、あざやかに感じたのは、日本とメキシコでの時間の流れかたのちがいである。
▽110 ヤキ族は、ひとつの国家の中に入りこんだ実質上のもうひとつの国家として存在しており、それは国境を越えて、もうひとつの国家内の自分たちの集団との交流野道を保っている。…契約によって新しい社会をつくるというくわだては、米国のブルック・ファームや日本の新しい村のように、数多くあらわれ、そのほとんどがわずか数年でくずれてしまっている。社会を長い年月支えてゆくには、意識の表にあらわれる推理や計画だけでなく、意識のかくれた部分においてはたらきつづける思想の力がなくてはならない。ヤキの社会が、自分たちの社会を保ちつづけて準国家として存在する保証をとりつけたのは、表層と深層においてはたらきつづける活力ある思想をかれらがもっていたことによる。

□グアダルーペの聖母
▽131 イダルゴ神父「グアダルーペの聖母万歳、独立万歳」と叫んだという。…グアダルーペの聖母を旗としておしたてる反乱軍に。…メキシコの独立運動は、一進一退が長くつづいたが、この運動がその出発点から、現地白人グループによる支配のみをめざす運動としてではなく、原住メキシコ人をふくめた現地人のグループによるスペイン植民官僚打倒の運動だったという点でもきわだっている…メキシコでは、民族独立のための戦争が同時に階級闘争の性格をもつものとなった。…現地白人グループが内部分裂してその一部がスペイン官僚について独立反対にまわるという状態をつくりだした。…イダルゴらは首をさらされることに。
▽141 カトリックの教理には、プロテスタントとちがって、現地の土俗信仰を寄生させるだけのゆとりがあった。カトリックの神父たちは、このようにしてキリスト教を広めることができたと考えただろうが、その後400年たったグアダルーペのまつりは、グアダルーペの聖母というこの象徴の設定が、メキシコ人がキリスト教渡来前の信仰を保つための精神の修練の場となってしまったことを示す。キリスト教寺院に奉納される踊りの中に、キリスト教文明の崩壊の幻を私は見た。
…「ヨーロッパ文化は一見インディオ文化を征服したかに見えた。だが、本当に征服されたのは、ヨーロッパ文化だったのだ。」(増田義郎「古代アステカ王国」)
▽149 アルジェリア生まれのレイモン・メルカは、ヨーロッパ人が時間を失うことをいつも怖れて細かく区切って使う習慣をしていることが、「今」というこの時の質をおとしてゆく側面をもつことを述べている。
 …現代のメキシコには、時間の流れを自分のもっている時計に合わせて規則的に東征できる人びとの系列と、その時間の流れからはみだして別の流れの中に生きる人びとの系列とがあるように見えた。そのあとの人びとが、12月11日にグアダルーペの寺院におこもりをする人びとである。

□エルコレヒオでの1年
▽154 後半はセミナー形式とし、はじめに各人が書評という形で、講義主題とかかわりのある書物についてリポートを書き、それを中心として討論。次に私が10回ほどの講義。そのあと各人が長い論文を用意してそれについての報告と討論という形に。
▽156 知識がばらばらな場合、同じ講義をして、おなじ問題についてのリポート書いてもらうという方法は成功しない。
▽158 自分のうまれついた文化に対して、肯定的にせよ、否定的にせよ、つよい関心をもたないものは、外国文化の研究者として見込みがないと思います。
 日本から行く講師は、学生のうまれついた文化についてもっている知識からいくらかでもまなび、(講師が学生になる能力をもっていなければならない)かれらの関心を自分のものとしなくてはならない。エル・コレヒオでの日本研究学科を実りあるものにするには、比較文化・比較社会論的視角が、学生・教師相互のものとして用意されることが必要。

□アイスランド
▽165 (周縁の国を巡り、独自の視点で切る)冬、5時間ほどしか明るいときのない島では、小さい家で家族が一緒に過ごすことが多く、そこで本を誰かが読んでほかのものが聞くというのが、たのしみの一つだった。…1人が1年に読む本の数ではアイスランド人が世界一。
▽168 (小さな国だからみんなが働く)社会主義の国よりもさらに、平等と相互扶助があるように感じられた。
 …レイキャビクは全体が温泉であたためられている。…食物に変化が少ない。サケ・マス・ウナギ、肉では羊肉。野菜は、温泉利用を工夫するまでは、ほんの少しの種類しかつくれなかった。あちこちに干物がつるしてあった。
 …学校は休暇の間はホテルにかわる。だからしっかりした設備。
 …シングヴェリルの議会は、欧米の歴史に最初に登場した議会。米国の民主主義は先住民の・犠牲の上になりたっているが、西暦930年のシングヴェリルの議会は、西欧民主主義の理想を米国建国とは比較にならないほどあざやかにあらわしたものだと思う。
 …アイスランドは大国の介入にもかかわらず、アイスランド人としての時間の流れを保ち得たし、それ故に、欧米式の近代文明の破局のあとにくる文化の形を示唆する力をもっていると思う。

□ポーランド 市民の記憶術
▽180 ナチス虐殺の場 文部省のビルの一部に秘密警察の拷問部屋。日本の思想警察をこんなしかたで保存することをだれが思いついたろう。
▽186 第一収容所の地下室に花のおいてある部屋。自らすすんで囚人のために犠牲になったコルベ神父の記念の部屋。餓死刑を言い渡された仲間の一人が泣きさけぶのをきいて自分ですすんで身代わりとなった。
 第一収容所は時間をかけて組織的にいじめる工夫をこらしたあとがあるが、代に収容所になると…人間の屠殺所として設計されたようで、算段ベッドが蚕棚のようにならび…
 …東京は、そういう昔を思い出させる手がかりにとぼしい都市であって、昨日の記憶から自分を切りはなして現在にのみ生きようとする。
▽192 クラクフの近くでは、教会を新しくつくることを政府が認めなかったので、労働者が自分たちの資金と余暇をつぎこんで見事な教会をつくった。こうした状況の下でカトリック教会と信者とを全体として敵にまわすと、ポーランドの共産党は不利な対決を迫られる。
 …大衆はカトリック信仰のなかにいることをとおして政府の思想と完全に一枚のものになることをまぬかれ、わずかな思想の自由の空間を保っている。同時にそこには、1944年以前のポーランドの文化とのつながりを保つ連想の回路がのこされている。

□ブルガリア リラ修道院
▽197 1393年から1908年までブルガリアはトルコの支配下におかれていたので、ブルガリア語とその文化を保つことは都会ではできない仕事になっていた。僧院は印刷の発祥地でもあるという。ブルガリアの言葉を教え、文字を教えるのも、僧院の重大な仕事になっていた。
 インカ帝国やマヤ族は武力で根絶やしにされた。ブルガリアの場合は、トルコ人の支配政策がスペイン人ほどに徹底していなかったという性格が、リラ僧院があくまでも非暴力服従にたよったという抵抗の方法を有効なものとした。非暴力服従で滅び去った民俗もあるから、どんな場合でも、この方法が有効だとはいえないが…
 …ブルガリアの長寿を保つ秘密のひとつのヨーグルト。
 …東ローマ帝国はブルガリア人の王国を併合するにあたって、かなりの自主性を残した。国王以下はギリシア正教に改宗するが、正教は、カトリックのようにラテン語を強制せず、土地の俗語によって宗教を説くにまかせた。ここから、ギリシア正教そのものが民俗文化の守り手となる基盤がつくられる。それをよりどころとして、6世紀の間、トルコの支配に対して抵抗をつづけることになる。
▽207 ブルガリアやポーランドのキリスト教会はかつては政府権力とむすんでいたが、共産主義国家になって、権力とのむすびつきをはぎとられて今ではそこにあり、ローマ帝国との結びつきをつくる前のキリスト教本来の面目をとりもどしたものと言える

□チェコスロバキア
 ユダヤ人のテレジン収容所。ナチスははじめはたのしいところに見せかける工夫をこらし、「収容所の天国」と呼び、国際赤十字の使節はだまされてかえってしまい、アウシュビッツなどの収容所まで見に行かなかった。
 …ユダヤ人たちもみなごろしにされるとは信じていなかった。だから、はじめのうちのこどもの絵は明るいのである。 …テレジンのユダヤ人は、ユダヤ銀行やコーヒー店をつくり、音楽会があり、歌劇をもよおした。
 …シュヴェイク人形。オーストリア・ハンガリー帝国の軍隊にとられて戦争に狩り出され、それがいやで逃げまわるチェコの農民兵。

□アイルランド キラーニーの湖
▽223 アイルランド人には奇人が多い。オスカー・ワイルド、ジェイムス・ジョイス、バーナード・ショー、イエイツなど。
▽228 トマス・ムーアやオスカー・ワイルド、バーナード・ショーをふくめて、アイルランドの名士の多くはイギリスと結びついて、うきあがった人びととみなされる。
▽231 奇人・変人を集団のなかで育てる力が自治の力だという説がある。アイルランドには民主主義が今も活力をこういう形で保っていると言えるかもしれない。
▽235 ラフカディオ・ハーンは、幼いころ、おばけの話や短詩型や冗談を仕込んだ。それらが日本に来てから、日本のおばけや短詩型や冗談と心の底のほうで交流した。

□小国群像
□キャパ
 無名の民衆をとりつづける有名写真家という役柄は、すわりの悪いものだった。役柄のふくむ矛盾がたえずキャパを、新しい危険な任務にむかわせた。
 彼の内部にあって彼を動かしつづけたものは、難民をとりつづけるもうひとりの難民だった。
□柳宗悦
▽264 「下手(げて)」とは、ごく当たり前の安物の性質を示し、従って民器とか雑器とかいふ言葉に当る。
 …その後、「下手」の意味は増殖し、柳の手ではとどめることができなくなった。それで…
 …なるべくこの俗語を避けるやうにして、その代わりの言葉を造り出す必要を感じ、遂に「民芸」といふ二字に落ちついたのである。
▽268 作者の銘をとうとぶようになったのは、近代の個人主義の影響にすぎず、個性の表現が美であるという思想を前提としている。蒐集 「集まった物の間に有機的な関係があれば、どんなに集めても立派な物に育ってゆく。だが之が無いと只雑然とした蒐集に終わって了ふ」
名作を保存するための「守る蒐集」の域を出て「創る蒐集」へ。…柳の創作としての蒐集を日本民芸館という一個の作品として見ることができる。

□ハックルベリー・フィンの冒険
▽283 ハックルベリーの心境は、南北戦争に南軍の立場でくわわり、逃亡兵となって戦場をはなれたマーク・トウェーンのまよいとうしろめたさがこもっている。このことが、彼の作品に、はっきりした信念をもって奴隷解放をとなえるエマソンやソローのような北部出身の文学とちがう、あたたかさを感じさせる。

□フェザーストーンとクリーヴァー 黒人の運動
▽298 白人専用、といっていた食堂に黒人学生が入る。だれも注文を聞きに来ない。このやり方が各地に広まり…
▽314 ローザ・パークという裁縫女工が、運転手から白人に席をゆずるように言われて拒絶して逮捕されたことから、バス・ボイコットの声が起こったおき、キングは、冷静な計算をしてこの運動を組織した。…それがナショナルの運動へ。
 キングは、慎重に現実の状況について計算する人だったので、急進派との間に溝があった。
 …ヴェトナム戦争でも、はじめははっきりした態度をとらず、ノーベル賞をもらった黒人名士として支配層にかいならされたようにもみえた。しかし、その後反対の立場を明らかにして67年には牧師として良心的兵役拒否を呼びかけた。黒人名士として米国社会で保ち得ていた安全な位置は失われ、受難の道を歩む。
▽317 …黒人の学生運動としてのスニックは、この戦争に反対するだけでなく、徴兵制に反対するという立場をとった。「だれであろうと2年間にわたって人を束縛し、殺し屋に仕立て上げるために訓練する権利など所有してはいない」と。
▽326 拳闘選手ジョー・ルイスの人気とくらべて、同じ拳闘選手カシアス・クレーがにくまれるのは、かれがマルコムXの信徒として自分の政治思想をはっきりと言うからだ。
▽329 日本人の北米留学史は、ジョン万次郎らの漂流者や新島襄のような脱藩藩士の留学の時代とちがって、明治半ばからは、小村寿太郎、金子兜太郎、秋山真之のような官僚養成の場となった。その後、政府の模範がドイツにかわってからは、官僚養成はドイツ留学が主流となり、北米は裕福な階級の子どもを送る場所になった。実業家がその二代目を養成する方法となった。
 …ドイツ留学生にくらべると国家主義の推進力となる場合はすくなかったが、白人の見る北米に自分たちの価値規準を同化してそこから同時代の日本を批判するところにとどまっていたように思える。北米留学生のなかからは、斎藤隆夫・清沢洌・高木八尺のように、軍国主義を批判しつづけた人びとがいるが、この人びとの場合にも、黒人・インディアン、南米諸国民から北米を見るという視点は育たなかった。私の留学の例は、この制約のなかにあり…
▽331 プラグマティック・マキシム(行動の形にあらわれ得るものが思想の意味だ)が、米国の反戦運動の中では、黒人の行動の中にあらわれた思想として、重さをもっていることのあらわれだ。黒豹党。
 …クリーヴァーが、自分の経験を分析して一歩一歩より深い部分におりてゆく方法は、国家あるいは政党の政治的権威によって思想を固定させるやり方からかけ離れた哲学を示している。生活体験のなかからつくりあげられた思想が自然にそなえるプラグマティックな性格がある。(小学校しかでていない稲葉先生の思想〓)
 …7000万人の黒人を考えることなしに、北米の思想を論じることはできないということを、忘れたくない。

□わたしが外人だったころ
▽338 H・G・ウエルズ原作、オーソン・ウェルズのラジオドラマ「火星人の侵入」。100万人規模の大騒ぎに。
▽340 19歳で警察につかまり、おそろしいのになれてくると、腹が減っていることに気がつく。「おなかがすいた」というと、3人の刑事は相談して、行きつけの酒場につれていってくれて、サンドイッチをとってくれた。(〓エルサルの軍基地の食事〓)
▽342 大部屋の収容所。夜ベッドからおきだして便所に入り、便器を机にして、卒論を書きつづけた。
▽347 ジャワで胸の骨がくさる胸部カリエスにかかり胸に穴があいた。手術は痛かったが、セレベス島出身の准看護婦さんたちが10代の元気な少女たちで、たのしい毎日でした。(〓よくわかる感覚)
▽347 敗戦まで、心の中で英語で考えていました。日本にもどると「鬼畜米英」というかけ声がとびかっていて、わたしのことだと、いつもおびえていました。負けるときは日本にいたいと思って帰ってきた結果がこういうことでした。

□水沢の人
▽352 清原氏(奥州藤原) 自分たちの一族が京都から低く見られることをいやがって、京都の文化とならぶものであることを見せようとして平泉に中尊寺を建てた。
▽358 岐部 マカオからインドへ、パレスティナへ。エルサレムとパレスティナを訪れた、おそらくは最初の日本人。ローマに着いてイエズス会に入会。1630年に16年の海外放浪を終えて43歳で薩摩半島に上陸。…岐部神父は最後は水沢を根城にしてはたらいた。
▽368 東北の信者のもとに法王パウロ5世から手紙が届けられた。迫害下の日本の信徒へのはげまし。1617年に発信され1620年に日本についた。1621年、奥羽地方のキリスト信徒は法王にあてて手紙を書き送った。5通がバチカンに保存されている。(こんな時代に〓)
▽373 カルヴァリョ神父は、1609年に日本に。マカオに追放されたが、ひそかに日本に帰り、長崎五郎右衛門をなのり、商人となったり、坑夫になったりして旅をして北海道にわたり、津軽へ。北海道行は、津軽領を困難なく旅をしてまわるために必要だったらしい。…信徒たちは鉱山近くに移民部落をつくっていた。山のなかに住んでおれば、幕府と寺の手先そこまで入ってくることはなかった。鉱山の部落には、公然と礼拝がおこなわれた。

□黒鳥陣屋のあと
▽392 東京湾が上野まで入りこんでいたのを干拓して不忍池とし弁天堂をつくったのが水谷勝隆。

□宿直の一夜 京大人文研
▽396 京大 本があちこちばらばらにあることにおどろいた。ちがう建物にあるそれぞれの学科図書館に行くと…学科を横断する気風が、そのころの京大にはあった。それが、当時の私にはたのしかった。

□国家と私
▽400 ルーズベルトの病状に注目したのはスターリンだった。彼は首脳会談を延ばしに延ばし、自分たちの領地であるヤルタに会談の場所を設定して承諾する。…重大な結論について、すべてルーズベルトはスターリンにゆずってしまった。
 この会談に出席するとき、ルーズベルトはボディーガードに抱えられて入っている。陪席のホプキンスもガンにかかっていた。…第一日の会談が終わってからスターリンは、ルーズベルトとチャーチルを自分のところに招いて大宴会を開く。乾杯が12回。スターリンは自分専用のボトルの酒しか飲まなかったが、それは水で薄めてあった。ルーズベルトはアルヴァレス病にかかっていて、意識ももうろうとしているから、会議の間に居眠りする。チャーチルが書類をまわしても読みもしない。それでチャーチルは、この会議のあいだじゅう怒っている。
 …このとき米国政府は彼らが決めた政策に関して、熟慮された誤りがないものだということを訴えていた。政府官僚が一体となって、指導者の決めたことは無謬の政策であるというしきたりができている。どこの国でも、それを普通のこととして受け取っているという心の傾きが問題だとおもうのです。
 …私たちには彼ら国家指導者ほどの悪をなしえないことの故に、私たちのほうが倫理的に優位に立っている。そのことによって私たちは、自由に国家指導者を批判できる立場にいる。…結局、国家指導者のほうが偉いのではないかといった漠然たるものが私の心の底にあると、危ない。
 …国家指導者の総体にたいして、より小さな悪しかなしえないという一点において私のほうが優位に立っているということを基礎にしていくという形です。
▽406 成田の管制塔に青年が入って計器類をこわす自演。それにたいして、国会は全政党一致で青年たちを非難していたが、私にはあいた口がふさがりません。ここには、国家指導者が、まるで間違いなどしないようなそぶりでものをいう流儀が、ふたたびでていると思う。
 市川房枝さんが棄権し、青島幸男が反対投票をした。青島氏にたいして、ほかの議員が罵詈雑言を浴びせる一幕があり、これは昭和初期、1930年代に戦争に反対するものに対して繰りかえしあびせられたのとほとんどおなじです。(さらに「自己責任」という時代になっていく〓)
▽408 まず第一に、何らかの仕方で反対の意思を、それぞれ自分のなかにもちたい。第二に、何らかの仕方で、できれば反対の意思を言いあらわしたい。第三に、何らかの仕方で、その反対の意思を広めていきたい。
▽410 いったい日本の大学教育は何だったのか。わずか3日か4日でマルクスもランボオもカントもすてて「天皇陛下万歳」を唱える知識人を見ると、この国の大学教育の値打ちなんていうものは認められません。加太こうじ氏は、「マルクス、ロシア人」と自分に言い聞かせて、反射をつくっていた。警察で「おまえ、マルクスを知ってるか」ときかれて、「ええ、ロシア人でしょ」と答える。特高警察が「マルクスがロシア人だって。おまえ、そんなにものを知らないのか」というものだから、「ロシアは赤いでしょ。赤い思想をつくったのはマルクスだから、もちろんマルクスはロシア人ですよ」と言いかえす。結局「おまえはバカだなぁ」ということになって帰してもらったんだそうです。
 こうしてみると、日常の訓練が大事になってくる。ヴァレリーのことを学生同士で語りあかしていても、ちょっと状勢が変わってくると、簡単に天皇主義者になるのでは困る。私の身辺だけでも、そういう人がいました。
 …
□メタファーとしての裸体 アメノウズメ
▽416 うまれた時のあかんぼうはハダカだ。死ぬ時にも、一度は着衣をはがされてハダカになる。ハダカとハダカのあいだに、着衣の人生がある。死体としての終点から、生をうりかえってみるのと似ている。
▽423 インディアンの族長が年老いて「きょうは自分が死ぬ日だ」といって山奥の空き地に横たわる。しばらくたって、むっくりおきあがって「今日は死なない」とにっこり笑って山をおりていく。死が自分の生のなかに自然にある境涯は、人間にとって望ましい人生の様式と思う。
 ハダカであること。
 …自分がやがて無一物でこの世を去っていくことを忘れたくない。いつの時代にも、方向を失ったハダカムシのようなものが、自分の内部に住みついていることを忘れたくない。

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