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結社の世界史1 結集・結社の日本史<福田アジオ編、綾部恒雄監修>

■結社の世界史1 結集・結社の日本史<福田アジオ編、綾部恒雄監修>山川出版社 20160506

 コミュニティや中間団体はどんな経緯で変化してきて、幸福な未来社会をつくるためにどう生かすことができるのだろう。そんな疑問をもって買ってから2,3年。しばらく積んであった本を、大阪往復の列車で読むことにした。分厚い本はまとまった時間がとれる列車がよい。

 地縁と血縁に次いで、人間を結びつける原理が、共通な利害や関心に基づく「約束」の原理だ。こうした一定の約束のもとにつくられる集団を、利益集団ないしは結社(asociation)と呼び、この本の研究対象としている。
 前近代でも、個の姿がまったくみえなかったわけではなく、個人を単位とした組織は中世以降しだいに形成され、発達してきたことがよくわかった。中世から戦後の全共闘や女性運動まで「結社」として網羅的に取りあげているから、さまざまな結社・組織のありかたを比較するのもおもしろい。組織のあり方は数百年たっても意外に進歩していないことに気づかされた。
 日本の農山漁村で暮らす人々が自覚的に組織をつくるようになるのは、中世以降だ。
 中世後期の惣村の形成が、人々に惣の成員としての自覚を促し、個人として行動し、関係をつくることをもたらした。複数の個人を表現する言葉として「衆」という漢字が用いられ、鎌倉幕府の評定衆、農山漁村の「結衆」「七人衆」、宮座という祭祀組織も「衆」の組織だった。
 近世にはさらに、個人単位の組織であることが「連」「連中」「社」「社中」「会」という名で示されるようになった。組や仲間は村落社会、連や社は主として都市社会で発達した。
 近世農村で用いられた組・組合は近代に引き継がれ、職人組合、同業組合、農事組合、労働組合が生まれた。
 個人が結集して活動するさまざまな組織には「倶楽部」の名称もつけられた。農山漁村にも浸透し、新しい若者組織である青年会や青年団にも倶楽部の名が採用され、青年会の集会所を倶楽部と呼ぶことも多かった。古座川沿いなどに見られる「倶楽部」の名のついた集会所はその流れで生まれたのだ。

□中世の社会結合
 中世社会の基軸は、平等な構成員による「座」といわれる共同体に求められるという。
 京都の自治組織の「町」は、道路の両側から構成される両側町で、商業は道路を向いて行われることから構成された。町の住民は「町」と、営業上の権利を主張する「営業の座」とに二重に所属していた。
 大山崎は平安・鎌倉期から自治権をもっていた。室町・戦国期には、大山崎油座としての独占権と自治都市の実権をもった。ただし自治権の中枢は、平安・鎌倉以来の名士の子孫が握り、京都のように、町屋を購入して、町にその十分の一を納入すれば町人になれるような開放性はなかった。
 中世の基礎単位であり、営業独占権を行使した職種別結合の「座」は、信長や秀吉らの楽市楽座によって解体された。町組−町共同体による自治都市も、末端行政組織となってしまった。近世にも地域的に自治し、貢納物を自座で分配していたのは、大山崎と塩飽本島のみだろう、という。なぜ塩飽に自治が残ったのだろう? 〓今につながる何かがあるのだろうか
 能登の「イドリ祭り」は中世の「宮座」の伝統を残すといわれる。宮座メンバーはそれぞれのムラの特権階級だが、そのメンバー同士は平等であったことが、祭りの様子を見てもよくわかる。
 「一揆」とは、必ずしも民衆の闘争そのものを意味する語ではなく、なんらかの目的を達成するため、日常世界での対立を乗り越えて「一味同心」することで結成した共同組織を指す語だというのは知らなかった。唐傘連判状の意味は、首謀者を隠すだけでなく、メンバー全員の平等を意味した。「一味」という語は、百姓が勇気を振り絞って非日常的な世界へと飛躍する際に用いられたキーワードであり、「一味同心」するときに有力な手段になったのが「一味神水」だった。神の水を飲み交わし、皆の心を一つにする儀式だった。同時に同じものを体内に採り入れるという行為は、「心」を同じくすることにつながる。江戸時代の吟行などでの集団飲食は、仲間意識・結社意識の高揚のためでもあった。現代の「打ち上げ」などの宴会もそれにつながるものなのだろう。

□若者組
 若者組は世界各地にあり、とくに太平洋の周辺地域に顕著にみられる。
 柳田国男は、若者組と娘組は婚姻に重要な役割をはたしてきたと考えた。内務省・文部省は、若者組は村人を一人前にする教育機関であると位置づけた。明治末、政府の地方改良運動のなかで青年団が組織され、1910年代には全国的に若者組は青年団へと改変された。
 だがその後の研究で、教育機関であり婚姻統制機関であるという見方は単純すぎることがわかってきた。村落には若者組と若者仲間という2種類の若者組織があり、若者組は村落に一つだが、若者仲間は、村落内に多く存在することが通例だった。若者仲間は、仲良しグループであり、毎晩寝宿に泊まり、夜遊びを通して娘たちと知り合い…という場であり、主として西日本で存在した。東日本では、原則として若者組のみが存在したという。

□寺子屋
 寺子屋は、中世末期、遊行する僧侶や修験者、医者らが一定期間寺院などで子どもたちに手習い・読書などを教授したのをルーツとする。
 近世中期には、民衆の文字学習への需要を基礎に初期の寺子屋が成立した。寺子屋の生徒がその教師を通じて、伊勢商人に奉公するルートをもつ例もあった。
 手習い子は筆子とも呼ばれ、師匠との人格的絆が強固に結ばれた。手習い子一同が師匠を偲んで建てた「筆子塚」は房総地域に3300基あまり、神奈川県に700基、群馬県に600基あまりが確認されているという。

□近世文人とその結社
 大阪の懐徳堂は、席次は身分に関係なく、新旧・長幼・学術の深浅によって互いに譲り合うと定めていた。140年あまりも存続し1869年に閉校した。経済力と、地域貢献を重視する商人の倫理観と、長い平和があったから、140年という長きにわたって町民の力だけで学校が存続したのだろう。
 緒方洪庵の適塾は、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉ら門下生は1000人を超えた。2階の塾生の部屋には常時5,60人が居住し、1人あたりの面積は畳1枚で、1冊しかない原書や辞書を各自が筆写していたという。

 18世紀以降は、文化の大量生産と大量消費が行われ、広範な民衆を対象にした文化継承の制度として、一定の型を作り、免許制度によって一気に広めることを可能にする家元制度が生まれた。
 文化・文政年間には、大酒大食の会など食を遊びにする文化も盛んだった。1人で9升飲んだという記録もある。バブル期のバラエティー番組につながる趣味の悪さだが、平和なバブル経済だからこそ生まれる文化のあり方なのだ。

□転換期の結社
 明六社の初代社長をつとめた森有礼は当時26歳、すでに慶應義塾を創立していた福沢諭吉は39歳だった。福沢が、スピーチを「演説」、ディベイトを「討論」と訳し、明六社に導入した。ディベイトの導入で、例会の議論は活性化した。新しいメディアとして普及しはじめていた新聞や雑誌、整いはじめた全国的な郵便制度も活用した。
 生産手段を持たず、城下町を中心に居住する消費階級だった武士層は、経済的にもっとも自立が遅れた集団で、解雇されたホワイトカラーのサラリーマンのような存在だった。サラリーを失った下級武士は、洋学をおさめることで新たな収入を得ようと模索していた。

 自由民権運動について色川大吉は、反政府士族を中心とした愛国社的潮流と、政治に目覚めた豪農民権家たちが担う在村的潮流、都市の民権家たちの潮流があり、三つの潮流のかなめとしての民権結社があったとする。補助金漬けの現代の農村とくらべて、ムラが経済的に自立していたから、豪農民権家が反政府を掲げることができた。

 「社会全体が大きく転換する時期に結社は活躍する」という。1880年代はまさに「結社の時代」だった。転換期に結社が増えるというならば、現代もそうあってもよいはずだ。人間のアトム化ばかりがめだち、組織化の動きは見えないのはなぜだろう。私に見えていないだけなのだろうか。

□青年団
 江戸後期から明治維新期、若者仲間の規制や禁止の法令があいついで発せられた。精農型の地主からも、芝居や俄休日などを要求する若者仲間は生産性向上を阻害する存在として否定された。
 1880年代「青年」という言葉が、「若者」とはちがった響きをもった言葉として使われはじめ、「青年」は国民教育の対象に位置づけられた。青年教育を阻害する存在として、若者仲間は、「青年」からも改善を迫られることになった。
 第一次大戦をきっかけに、良兵・良民をつくることが青年教育の目的となり、義務教育から徴兵年齢までの間の青年教育が、地方青年団体に求められた。青年団を直接に軍事予備教育機関化できなかった陸軍は、1925年に現役将校の学校での教練を制度化し、翌年には、16歳から20歳までの男子青年を対象に青年訓練所を設けた。
 戦後の1951年、新たな青年団の全国組織として日本青年団協議会が結成された。
 1955から60年のあいだに、本来は青年団員となるべき地方出身の中卒者274万人が大都市に集団就職し、70年代になると高校進学率が90%、大学進学率は30%を超えた。義務教育修了者を主な団員としていた青年団は各地で組織を失っていった。

□連帯を求める現代の結社
▽思想の科学研究会
 15年戦争に疑いの眼をもって戦時期を生きてきたという共通感覚があった。鎖国状況のなかで閉ざされていた1920~30年代の欧米思想や学問の批判的紹介や、「論理的実験的方法」の導入によって日本人の思考様式の変革がめざした。
 上坂冬子らすぐれた書き手を生み、「読者」から投稿による「書き手」への道も少しずつできていった。54年の地方支部は、京都、岡崎、徳島、米子、松山、丸亀、大阪、前橋、金沢、大分の10カ所。こうした支部をつないでいたのは、鶴見俊輔を中心とする人的ネットワークだった。愛媛の稲葉峰男らも、鶴見によって全国とつながっていったのだろう。
 よい読み手、で、よい書き手、しかも、よい作り手であるという三つの面を兼ね備えていた鶴見俊輔の存在が「思想の科学」の「結衆」の象徴だった。鶴見のような天才なしにはこうした「結衆」は持続できないのだろうか。

▽女性組織
 女性の結社の担い手たちによる自己規定は、「婦人」から1960年代に「女性」へ。70年代に入って、「女=おんな」へ移行した。「主婦」「母」という性役割に基づく「婦人」運動は、第二波フェミニズム(ウーマンリブ)の登場以降、全面否定された。
 戦争への危機意識や平和への願いから、生活記録サークルや学習サークルなど多様なグループが生まれたが、参加の動機は「母」としての使命感にあった。運動への抵抗感を弱める「母」というシンボルは、、60年代以降の原水禁運動や公害反対運動、消費者運動、80年代の反原発運動にも引き継がれていった。

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 日本の農山漁村で暮らす人々が自覚的に組織をつくるようになるのは、中世以降と考えられる。
 …中世後期の惣村の形成が、人々に惣の成員としての自覚を促し、個人として行動し、関係を形成することをもたらしたと考えられる。複数の個人を表現する言葉として「衆」という漢字が用いられ、鎌倉幕府の評定衆、農山漁村の「結衆」「七人衆」、宮座という祭祀組織も「衆」の組織だった。
▽7 近世にはさらに、個人を単位とする組織であることが「連」「連中」「社」「社中」「会」という表現で示されるようになった。組や仲間は村落社会に発達したが、連や社は主として都市社会において発達をみた。
 …連は融通無碍名組織という面をもつのに対して、社は、一定の目的を達成するために集まった組織であることを表現する。
▽9 近世農村で用いられた組・組合も近代に引き継がれた。職人組合、同業組合、農事組合、労働組合。
 倶楽部 個人が結集して活動するさまざまな組織に倶楽部の名称がつけられた。モダンな言葉として、農山漁村にも浸透し、たとえば新しい若者組織である青年会や青年団にも倶楽部の名称が採用され、青年会の集会所を倶楽部と呼ぶことも多かった。
▽10 近世の組や組合は、近畿地方の惣村からの伝統によって会所とか会議所とよぶ建物をもち、そこで会合を開くことで結衆した。しかし東日本では、会所や会議所をもつところはほとんどなかった。寺の本堂や村内の寮で開かれた。個人の家も会場となった。近世中期にいわゆる田の字型民家が普及することで、座敷・デイを会合の場に提供する宿のシステムが完成した。
 …都市社会でも、上方では町ごとに会所が設けられた。江戸その他の東の町では、会所は必ずしも一般化していなかった。
▽13 幕末・維新期の結社。社会全体が大きく転換する時期に結社は活躍する。…脱藩して個人の意志で草莽諸隊という結社に加わり…(今の時代も結社が増えてもよいはずでは〓)

□中世の社会結合
▽17 中世社会の基軸は、平等な構成員による横の関係、「座」といわれる共同体に求められるのではないか。
▽29 京都の自治組織の「町」。道路の両側から構成される両側町で、四角い区画であった旧来の町や農村とは性格を異にする。商業は道路を向いて行われることから両側町が構成されたのだろう。町の住民は「町」と、営業上の権利を主張する「営業の座」とに二重に所属していた。
 …大山崎は自検断権を平安・鎌倉期からもっていた。室町・戦国期には、大山崎油座としての西日本におよぶ独占権と守護使不入地としての自治都市の実験をもった。ただし、自治権の中枢にある地縁的な共同体である「惣中」の成員は、平安・鎌倉以来の名士の子孫だった。京都のように、町屋を購入して、町にその十分の一を納入すれば町人になれるような開放性はない。
 …中世の基礎単位だった座、営業独占権を行使した職種別結合の座は、信長や秀吉らの楽市楽座によって解体される。さらに、地縁的共同体である町組−町共同体による自治都市も、権力を奪われて、末端行政組織となってしまう。残存したのは大山崎のみである。
 …近世にも地域的に自治を施行し、貢納物を自座で分配して、市政権を掌握したのは、大山崎と塩飽本島のみだろう。
(塩飽はなぜ残った?〓今につながる何かがあるか)(〓能登のイドリ祭り「宮座」そのグループ内での平等。グループは特権メンバー)
▽32 1980年代の前半は、社会史と呼ばれる新しい歴史学の潮流が市民権を獲得しつつあった時代。
▽34 一揆とは必ずしも民衆の闘争そのものを意味する語ではなく、広義にはなんらかの目的を達成するために、日常世界での対立を乗り越えて「一味同心」することにより、結成した共同組織を指す語だった。
 …唐傘連判状の意味するところは、たんに首謀者を隠すだけでなく、メンバー全員の平等という点にもとめられる。
 …「一味」なる語こそはまさに、百姓が勇気を振り絞って非日常的な世界へと飛躍する際に用いられた、重要なキーワード。「一味同心」するときに有力な手段になったのが「一味神水」。神の水を飲み交わし、皆の心を一つにする儀式。

□近世の人間関係と社会結合
▽69 若者組は、世界各地にあり、とくに太平洋の周辺地域に顕著にみられる。
…柳田国男は、若者組は婚姻に重要な役割をはたしてきたと位置づけた。見合いは古くからの方式ではなく、かつては自らの配偶者を決める恋愛結婚が日本の婚姻だった。それを可能にしていたのが若者組と娘組だった。集団的交際のなかからカップルが生まれた……と考えた。
 内務省・文部省主導による官製青年団。その前史としての若者組の研究では、若者組は村人を一人前にする教育機関であるとする。修養機関としての青年団に接続する機能のみが注意された。
▽77 明治末、政府の地方改良運動のなかで青年団の組織化が進められ、1910年代には全国的に若者組は青年団へと改変された。
…瀬川清子以降の研究を参照すれば、教育機関であり婚姻統制機関であるという考えは、安易な理解に基づく単純化の結果であったことがわかってきた。村落には2種類の若者組織があり、一つは若者組、もう一つは若者仲間である。
…若者組は村落に一つの組織だが、若者仲間は、村落内に多く存在することが通例だった。若者仲間は、仲良しグループであり、毎晩寝宿に泊まり、人生を語り、夜遊びを通して娘たちと知り合い…主として西日本の姿である。東日本では、原則として若者組のみが存在した。
▽82講 自然信仰の講としては、山の神講や田の神講のほか、眠らずにこもり明かし、月の出や日の出を拝する月待講や日待講など。
▽94 富士山の近くの鹿留村の御正体山信仰。明治初期は、多くの商店が軒を連ね、都市的な様相だった。…しかし、神仏分離令や修験宗廃止の布告などを機とする冨士講・富士信仰の衰退とともに活気は失われていく。妙心のミイラは、文字どおりの見世物にされるようになったため、1890年に山梨県が病理研究の資料として引き上げてしまったという。そして妙心の生地である岐阜県の関係者の請願があると、山梨県はあっさりと承諾し、横蔵寺に安置されて現在にいたる。
▽97 寺子屋のルーツは、中世末期に全国を遊行する僧侶や修験者、医者らが村共同体に懇願されて、一定期間、寺院などにおいて、子どもたちに手習い・読者などを教授する村塾ともいえる教育施設にたどることができるとされる。
 …近世中期には、初学学習が一般化してくる。自主的に社会的に組織化された民衆の文字学習への需要を基礎に一般民衆を中心に初期の寺子屋が成立してきた。…寺子屋が伊勢商人に奉公人を供給するルートをもっていた例…
▽106 手習い子は筆子とも呼ばれた。…修了の時は筆子一同の師匠への感謝の気持ちにより人格的絆は強固に結ばれる。師匠が死去したとき、手習い子一同は筆子中として師匠を偲んで墓を建て、墓に大きく筆子中と刻む。筆子塚、師匠塚…など。房総地域に3300基あまりの「筆子塚」、神奈川県に700基、群馬県に600基あまりが確認されている。

□近世文人とその結社
▽懐徳堂と適塾
▽126 懐徳堂。席次は、講義開始後は身分によってわけない。席順は新旧・長幼・学術の深浅によって互いに譲り合うと定められ、町人の町大坂の学校らしい特色が強く出ている。
…140年あまりのあいだ「今橋の学校」として親しまれた懐徳堂は、1869年に閉校した。
(商人は金儲けだけでなく民衆の教育にも力を入れた。140年という長きにわたって民衆の力で学校が存続した。民の力の大きさと平和がつづいたことがそれを実現させたのだろう)
▽133 緒方洪庵の適塾。適塾出身者は、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉…門下生は1000人を超える。
 蘭書を書写すれば収入になり、塾費を賄うことができた。2回の塾生の部屋には常時5,60人が居住していたため、一人あたりの面積は畳一枚に限られ…
 …1冊しかない原書を各自が筆写してテキストとした。辞書も1部しかなく、皆が順を待って筆写する。
 …洪庵は1862年に幕府奥医師に召され…翌年喀血して54歳で急死した。
▽136 柳宗悦は浄土真宗の法主制度と、作動などの家元制度を封建制度の遺制として批判した。
▽142 18世紀以降は、近世社会という枠内で、文化の大量生産と大量消費が行われ、文化の商品化・生活化・広域化が展開した。家元制度も、限定された人々を対象に成立したものではなく、広範な民衆を対象にした文化継承の制度だった。
(平和の社会に文化を広げるシステムとしての家元制度。一定の型を作り、免許制度によって伝えることで、ねずみ算のように広げることができる)
▽148 中世においては、一味神水という儀式があり、集団行動を起こす際に、起請文を記し、それを神前で焼き、その灰を神水に浮かべて全員で飲んだ。志や思いを同じくする人々が、同時に同じものを体内に採り入れるという行為は、「心」を同じくすることにつながる。吟行などでの集団単位の飲食は、仲間意識・結社意識の高揚のためでもあった。
▽156 江戸の料理文化は、文化・文政年間に爛熟期を迎えたが、食を遊びとして楽しむ傾向が強く見られた。その最たるものが、大酒大食の会だろう。1人で9升飲むことも…(平和なバブル経済のときにそれがおこる。イッキのはやったバブル時代)

□転換期の結社
▽164 井伊直弼暗殺。その後の志士の運動はテロリズム=天誅に走ることになった。天誅が広がっても、かつての幕閣テロのような効果がなくなってくると、しだいに仲間内の内ゲバ的な様相を示してきた(中核と革マル〓)
▽168 新撰組。近藤勇の武蔵国のグループと、芹沢鴨の水戸グループ。両者が対立し、芹沢らを暗殺して近藤グループが主導権を握る。近藤が幕臣化をめざしたため、伊藤甲子太郎のグループが離脱。伊藤は近藤によって暗殺される。
…相良総三ら、草莽の有志的結合のもっとも良質な部分は明治新政府に抑圧されている。有志的性格が強いほど、明治初年の軍隊再編時に切り捨てられた。
▽175 明六社 初代社長の森有礼は26歳、すでに慶應義塾を創立していた福沢諭吉は39歳だった。
▽179 福沢が、スピーチを「演説」と薬師、ディベイトを「討論」と訳して、明六社の例会で実施することを提案した。…スピーチに賛同しない仲間を説得するため、福沢が例会の場で実際にやってみせた。ディベイトの導入で、例会の議論は相乗効果ともいうべく活性化した。また、新しいメディアとして新聞や雑誌が普及しはじめており、全国的な郵便制度など、コミュニケーション手段も整いはじめていた。
▽1875年に、言論を統制する讒謗律、新聞条例を発令。それを予測して森は、政治にかかわる課題への論究を回避すべきだと演説した。福沢は、讒謗律・新聞条例の発令が、明六社の自由な活動の妨げになると指摘した。
…生産手段を持たぬまま、長らく城下町を中心に居住する消費階級として位置づけられた武士層は、封建的な身分制に固執することによって、経済的にもっとも自立が遅れた集団であった(〓現在のサラリーマン)。
 …「家禄」を失った下級武士。洋学をおさめることによって、生活基盤となる新たな収入の道を模索していた。
▽189自由民権。「民権結社」は、地縁・血縁から自由になって結成された集団。
 色川大吉は、反政府士族を中心とした愛国社的潮流、政治に目覚めた豪農民権家たちが担った在村的潮流、都市の民権はたちの潮流の三つの潮流があり、三つの潮流のかなめとしての民権結社があったとしている。(豪農民権家がいた。反政府を掲げられた。自立していたムラ。補助金づけになると反抗できなくなる〓)
▽200 民権運動が10年以上も持続できたのも、地域における古い人間関係を打破し、複数のグループのかさなりあったその中枢的な部分を主体に、新しい人間関係をつくりだす努力をかさねていたからともいえるだろう。
▽201 1880年代が「結社の時代」「集団の噴出の時代」。結社の誕生は、民権家たちの範囲だけでなく、地域全体の地殻変動をも生じつつあった。(〓なぜ? 転換期の時代に結社が増えるとしたら今は?)
▽208 開校半年の同志社に、「熊本バンド」が加入して生徒数が倍増。熊本バンドの助力があってはじめて同志社は学校の体裁を整えられた。

□自立への結社
▽237倶楽部 居留地からはじまる。
…国の威信を賭けた鹿鳴館の夜会。外国人の目にはたんなるモノマネにしか写らなかったようだ。鹿鳴館の建物の印象をフランスの温泉街のカジノにたとえている。1883年に建てられたが、90年には華族会館が使用することに。
▽241 大阪の倶楽部のほとんどが、選挙の際には候補者の選挙母体となる「予選団体」だった。当時の大阪では、戸長・区長・町総代とよばれる人が重要な役割を担っていた。近世における名主・庄屋・富商を継承する彼らは、「会」や「倶楽部」と呼ばれる「予選団体」を結成。選挙に臨んで候補者を推薦した。
…監獄や花街にまで、倶楽部というゆるやかな結社ができた。上流階級の社交クラブを模倣、日本独自の倶楽部が社会の隅々まで浸透していった。
▽245 青年会・青年団。
 江戸後期から明治維新期、若者仲間の規制や禁止の法令があいついで発せられた。…一方、精農型の地主経営からも、芝居や俄休日などを要求する若者仲間は生産性向上を阻害する存在として否定された。
▽246 1880年代「青年」という言葉が、「若者」とはちがった新しい響きをもった言葉として使われだした。「青年」は国民教育の対象として位置づけられた。青年教育を阻害する存在として、若者仲間は、地方有為の青年からもその改善を迫られることになった。
…山本瀧之助は1896年、田舎青年を「若連中」の堕落した場所から救済する方法として、禁煙・独学・冷水浴をとりあげ、「田舎青年会」の連合を提案している。
…田舎から都市へ流入して賃金労働者となった青年。そうした賃金労働者の青年会が新しく勃興した。
▽251 第一次大戦は、総力戦を提示することに。良兵・良民の素地をつくることを青年教育の目的とし、ヨーロッパ諸国と同様に青年教育の義務制をはかり、科学技術教育の軍事的必要性などに注目した。
 …義務教育から徴兵年齢までの間の青年教育が、地方青年団体に求められた。
…青年団を直接に軍事予備教育機関化することができなかった陸軍は、1925年に現役将校の学校での教練を制度化し、翌年には、16歳から20歳までの男子青年を対象に青年訓練所を設置した。
▽254 1951年、新たな青年団の全国組織として日本青年団協議会が結成された。
 …1951年当時300万人を数えた青年団員は、今日では10分の1以下に。1955から60年のあいだに、本来は青年団員となるべき地方出身の中卒者274万人が大都市に集団就職した。…70年代になると高校進学率は90%をこえ、大学進学率は30%を超えた。義務教育修了者を主な団員としていた青年団は各地で組織を失っていった。
 …〓岸和田のように高校生が義務的に青年団に加盟して、伝統行事を核に強固な組織を維持する青年団も存在している。
▽259青鞜社。「元始、女性は太陽であった」の長詩は、若い女性たちを魅了し…
 …職業で多いのは教員と新聞・雑誌の記者。女学校以上の教育を受けた女性にとって、開かれていた職業はまず教員、文筆で身を立てようとした人にとっては記者だったが、安定した職業とは言えなかった。
 社員と目される関係者200人、最盛期の発行部数3000部。。存続期間は4年半。
 1915年に平塚らいてうは伊藤野枝にゆずった。
▽271 東京帝大新人会。彼らの人民のなかへの心情には、少数の先駆者としての悲壮感がつきまとう。改革のイニシアチブは自分たち以外からでてこないという使命感を覚えるとき、現実の民衆運動から先走った急進的な……新人会がデモクラシー団体として出発しながら、はじめから社会主義に共鳴する一面をもっていたのはこの理由による。
…残った者は、共産党の「正しい」指導の確立が歴史のすべての解決になる、というセクト的思考に連なっていった。
…1925~26年ごろ、新人会は、その外郭の研究会に全学の1割の学生をほぼもっていた。早大でも社研は24年の創立時に300人の会員がいたという。
▽278 新人会は、国家的知識人として育てられる学生の一部が人民的運動の知識人として分岐し…
▽284 民芸運動 柳は1927年に制作者集団の上賀茂民芸協団を結成。ギルドの思想を理想としており…。上賀茂…は数年で挫折したが、1931年に鳥取で吉田璋也が協団をつくり、たくみ工芸店という販売の組織をつくりあげ一定の成果をおさめた。
 …柳は震災で京都に移住。第一期においては、西日本のなかでもとくに山陰地方で先進的な動きをみせていた。
 戦時下。植民地下の朝鮮について発言していた30代のころとはちがって、50代の柳は黙々と執筆活動をおこなった。戦時中に弾圧されなかったのも、危険な思想が含まれているとはみなされなかったからで…それ故、戦前・戦中・戦後に大きな断絶なく、運動を存続させることができた。
▽288 柳らの活動を正面切って批判した代表的な人物は北大路魯山人。
 …柳田の民俗学と渋沢敬三の民具学には多くの弟子が育った。渋沢のコレクションは国立民族学博物館に収蔵され、現在も整理作業がつづけられるほど膨大な資料。民芸運動は学問として確立されなかった。

□連帯を求める現代の結社
▽293 思想の科学研究会 15年戦争に批判ないし疑いの眼をもって戦時期を生きてきたという共通感覚があり、そこから一方で鎖国状況のなかで閉ざされていた1920~30年代の欧米思想や学問の批判的紹介をとおし、他方で「論理的実験的方法」の導入による日本人の思考様式の変革がめざされた。
 …創立同人7人についても全員で集まったことはなく、「私(鶴見)が飛脚で歩いていき、打ち合わせをし、原稿もとり、帰ってきて割り付けをして、印刷所に行き、校正もし、お金勘定以外は全部した」。最年少の鶴見俊輔による個人編集であり…ひたすら歩くことによって会員のネットワークをつないでいた。
…「伝記づくり」(庶民列伝)の実践は、いわゆる「啓蒙」からの離脱をもっともよく表現する方法として力がそそがれた。「伝記」とは「思想がつくられた問題状況のなかに思想をおいたまま、その思想を考えること」であるから。
…すぐれた書き手を生んだ。上坂冬子も。「読者」から投稿による「書き手」への道が少しずつ実現した。
…54年の地方支部は、京都、岡崎、徳島、米子、松山、丸亀、大阪、前橋、金沢、大分の10カ所。こうした地方「支部」をつないでいたのは、鶴見俊輔を中心とする人的ネットワークだった。
▽301 「日本の地下水」によるサークル誌の紹介と批評。
…読む人・書く人・作る人の相互性、これを支える地域的ネットワークという点に「思想の科学」の「結衆」の核心があったと思われる。〓
…よい読み手、で、よい書き手、しかも、よい作り手であるという三つの面を兼ね備えていた鶴見俊輔の存在が「思想の科学」の結衆」の象徴であった。50年にわたる「思想の科学」の運動は、この「結衆」構造の再生産はいかに可能かという問題に対する回答であるとともに、その困難さという課題も同時に伝えているはずである。
▽304 女性たちの結社の担い手たちによる自己規定は、「婦人」から1960年代に「女性」へ。1970年代に入って、「女=おんな」へ移行が進んだ。
▽306 朝鮮戦争、ビキニ、公職追放解除…戦争への危機意識や平和への願いから、新しい結社が次々と生まれた。生活記録サークルや学習サークルなど多様な形態をとったが、メンバーの参加の動機は「母」としての使命感にあった。「母親大会」。「母」というシンボルの動員は、運動へ参加することへの抵抗感を弱め…。その母というシンボルは、60年代以降の原水禁運動や公害反対運動、消費者運動、80年代の反原発運動にも引き継がれていく。
▽307「主婦」「母」という性役割に基づく「婦人」運動は、第二波フェミニズム(ウーマンリブ)の登場以降、全面否定される。
…1946年に誕生した婦人民主クラブは、しだいに共産党色が強くなり、分裂を重ねていった。敗戦直後を生き抜くために生まれた自発的な「家庭婦人」の集まりは、統合されて連合組織(地域婦人団体連合会)をもつようになると、その多くが既婚女性1戸1人加入を原則とし、かつての大日本婦人会と同様に、行政の下請け機関的性格を強め、保守政党の票田となっていった。女性たちの自主的な結社の多くが、しだいに政党と運動団体のもとに吸収されていった。
…1960年前後、消費社会の到来とともに、本来の自律性に基づく結社の時代への移行がじょじょに進む。
 朝日新聞の「ひととき」投稿者による「草の実会」。最盛期には会員数2000人を数えた。
▽311 74年、「家庭科の男女共修をすすめる会」発足。75年の国際婦人年。
▽317 全共闘。日大は裏口入学や使途不明金問題などが明らかになり、劣悪な教育環境や学生に対する管理体制への不満もあって、学生のあいだから大学に対する責任追及の声が噴出した。日大当局は、体育会系学生や右翼、職員を動員して暴力的に押さえ込みをはかった。68年に学生たちは日大全共闘を結成した。…民主主義以前的状況を突き破り、「学園民主化」を要求するものであり、行動の過激さを含め社会的にも広く支持を集める要素をもっていた。
 東大でも、医学部全学闘争委員会が安田講堂を占拠した。古い講座制に居座り、大学院生などを知的に収奪する体質や、権威主義的教授の態度への反発が、医学部の問題が全学化する素地となった。(もとは大学の民主化を要求する運動だった)
…1969年、安田講堂が「陥落」。各大学でも封鎖解除が進み、全共闘は街頭での運動に転換せざるをえなくなるとともに、大学問題からより政治性の強い、新左翼諸党派主導の反戦・反安保の運動に傾斜していくことになった。
▽324 バリケードによる大学封鎖は、自分たちが自由に自分の大学を創造する場でもあった。自主講座や研究会を企画・実行し…当局あるいはその背後にある権力との関係が極度に緊張するまでは、バリケードのなかには自由な空気が流れていた。
…個人の自発性に立脚して、組織的強制によらない運動のあり方は、短期間であったとはいえ、それまでのいかなる運動も経験したことない新しい「実験」だった。
▽326 全共闘運動は、制度・組織の力に「敗北」した経験から、組織化の方向を模索せざるをえなくなったことも、新左翼諸党派の影響力を強めることになった。新左翼が前面に出るようになると、全共闘が否定していた組織の論理が逆に過剰な形であらわれ、党派間の対立が表面化し、内ゲバやリンチが発生するまでにいたった。新左翼諸党派の運動の先鋭化は、全共闘の社会的影響力を急速に低下させた。(〓本来は非セクト的だった)
▽329 NPO・NGO
▽あとがき
 前近代において、個は全体に埋没し、個の姿がまったくみえなかったわけではない。個人を単位とした組織は中世以降しだいに形成され、発達してきた。日本における結社の歴史は、地縁・血縁と深く結びついた結社がしだいに血縁・地縁の要素を脱して、心縁ともいうべき契機で結びつき、活動するようになる過程といえる。

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