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そして、メディアは日本を戦争に導いた<半藤一利、保阪正康>

■そして、メディアは日本を戦争に導いた<半藤一利、保阪正康>文春文庫 20160417

 明治期のジャーナリズムを支えたのは旧幕臣で、民権主義者だった。政府の宣伝機関ではなかった。
 日清・日露戦争で国家政策に共鳴する人が増えたことで、メディアは国家に近づいていく。日露戦争前は戦争賛否で意見が割れたが、戦争反対を唱えていた「万朝報」は部数が落ち、賛成へ転じた。そのとき退社した左翼運動家たちが「平民社」を開いたが、弾圧で廃刊に追い込まれた。日露戦争によって「戦争は商売になる」と新聞は学んだ。
 満州事変で新聞が軍部を支持したのは、「だらしなくも転向した」のではなく商売に走ったのだった。「大阪朝日」だけは反対の立場を貫いていたが、強烈な不買運動を受けた。奈良県下では1紙も売れない状態になり、白旗を掲げた。

 5.15事件後、殺された犬養毅の妻は近所で米を売ってもらえなかった。被害者の身内が肩身を狭くするという異常な状況だった。当時の人の多くがテロを肯定したのは、明治維新にともなうテロを「義挙」と美化した悪影響だという。
 さらに、テロ抑止ではなく、民衆の言論を抑えるために特高が設けられる。民間と国家の双方から社会が暴力的になっていった。昭和7年から11年までの4年ほどで圧政国家へと姿を変えてしまった。

 昭和8年の国連脱退で、国際交流が途絶え、学術論文もドイツ経由でしか入手できなくなった。外国人が文献で日本を知ることもできなくなり、日本を理解できない国にしてしまった。海外通を自称する人も文献を集めるだけ。山本五十六は2年間アメリカに駐在したがアメリカ人の友達は1人もいなかった。外交官も日本人同士で飯を食うばかりで、人間関係は閉鎖的だった。それはたぶん戦後も続いている。1988年当時のニカラグア大使館の職員は、僕らが普通に歩く地域を「危険だから行かないで」と言いながら、その地域についての情報を持ちあわせていなかった。

 国連脱退以後の日本は夜郎自大な国となってしまった。「アメリカでは男が戦争しようとしても奥さんが止める。戦争なんかできるはずがない……」と真面目に信じこんだ。その証拠が、敵の戦意を喪失させるための宣伝ビラ「伝単」だ。「あなたの奥さんが国で浮気している」といったビラがまじめにつくられた。常識でものを考えることさえできなくなっていた。

 新聞は昭和13年以降は無抵抗になったが、雑誌はもう少し後まで軍部とたたかった。でもある時から「この連中を使うべからず」という指令が内務省から届く。そのなかには、清沢洌や元軍人の水野広徳、矢内原忠雄らも含まれていた。昭和14年からは、雑誌も何も書けなくなった。
 やがて、嘘が大手を振ってまかり通るようになる。「暴支膺懲」という上から目線の思い上がったスローガンが蔓延し、昭和15年に皇紀2600年の行事へと収斂していく。戦争が進むにつれ、大本営発表はたんなる言い換えではなく、嘘をつくようになり、最後は都合の悪いことは黙殺するようになった。

 まず教育の国家統制が始まり、それから、情報の統制が始まる。通信傍受法とか個人情報保護法とか特定秘密保護法といった言論の自由を縛るような法律が出てきている。今はそういう危ない段階に来ているのだ。
 ではジャーナリズムの世界にいる人間はどうしたらよいのか。
 「一個人がジャーナリストとしての矜持を持つだけでは不十分」であり、「自分たちの社会が、市民的権利を保障する空間であるか否かを常に感性に富んだ目で見ていなければいけない」という。市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家たちは、偏狭な国家主義や民族主義、愛国主義を唱えつづけるからだ。
 でも、私たちは大きな流れのなかではあまり無力ではないのか。
 そういった問いに対して、筆者らは、たった一人で最後まで戦争に反対しつづけた桐生悠々をあげる。彼のつくった冊子「他山の石」はわずか400部程度だったが、国家は執拗に弾圧をした。国家は、「社会的に筋の通った論」には異様なほど脅えるのだという。

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▽3 自民党の2012年につくった「憲法改正案」。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障」しているが、第二項で「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」…「公益」「公の秩序「」とは、いくらでも広げて解釈が可能である。要するに「権力者の利益」と同義であり、それに反するものは「認められない」すなわち罰せられる。そのことは昭和史にある歴史的事実が証明している。(〓歴史を学べ!)
昭和史からの5つの教訓
1 国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。
2 最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。リアリズムに徹せよ。
3 日本型タコツボ社会におけるエリート小集団主義(例・参謀本部作戦課)の弊害を常に心せよ。
4 国際的常識の欠如にたえず気を配るべし。
5 すぐに成果を求めるな。ロングレンジのものの見方を心がけよ。
▽31 週刊誌でデータマンをつかうのは大手の出版社。NYタイムズあたりが1930年代にはじめた。週刊新潮が一番はじめにやった手法。
▽35 明治初期、ジャーナリズムに流れたのは旧幕臣。政府の言いなりにならない民権主義者。
▽38 昭和一桁のリーダーたちは、日露戦争の経験者ではない。日本人は世界に冠たる民族だと、…あの時代の悲惨や悲劇、民衆的な苦しみというものを全然知らない人たちが国のトップに立っていた。字義どおり夜郎自大の指導者。
▽45 日戦争前は、戦争賛否で新聞がわかれていた。ところが、戦争反対派の新聞は部数が落ちる。戦争反対を唱えていた「万朝報」は部数がどんどん落ちて、主義と経済のどちらをとるか悩んだ末経済をとることに決めて、戦争賛成へと変わる。そのとき怒って退社した左翼運動家たちが「平民社」を開いた。「平民新聞」だけはがんばったが、発禁、発禁と弾圧され、最後には廃刊。日露戦争によって「戦争は商売になる」と新聞が学んだ。
▽49 満州事変でどうして新聞はあっけなく軍部を支持したのか。だらしなくも転向した、のではなく、商売に走った。
…満州事変では、「大阪朝日」だけは、高原操が編集局長でがんばっていた。だが、不買運動を受けた。奈良県下では1紙も売れない状態になり、白旗を掲げる。そのときの会議の記録が憲兵調書に載っている。スパイがいた。
▽56 阿部定事件は、226事件の後。226の戒厳令で新聞は書くことを禁じられていた。書きたくてしょうがないときに阿部定事件が起きた。戒厳令とは関係ないからすごい勢いで書いた。
▽57 言論弾圧のための「新聞紙法」「社会の安寧と国家の安寧を紊乱するものは全部検閲する」と書いてあって、どこまでが取り締まりの範囲なのかわからない法律。自民党の憲法草案の「公益及び公の秩序」と同じ。だから桐生悠々さんあたりが検閲に引っかかる。
▽61 明治期のメディアは旧幕臣が多く、政府の宣伝機関ではなかった。ところが、弾圧と、日清・日露戦争の気運が高まっていくにしたがい、国家政策に共鳴する人がでてきたことで、メディアが国家に近づいていく。徳富蘇峰がよい例。
…東大教授への道を捨てて新聞社に入るという漱石の行動を世間の人が支持するくらいだから、明治40年代のジャーナリズムというのは相当認められている存在だった。
…日露戦争後、ジャーナリズムはだらしなくなる。怪しげな新聞が出てくる。品のない記者が大正から昭和初期にかけて増えた。
『旧幕臣が薩長を批判する新聞をつくり、各藩が地方紙で地元の権益を主張する。明治のころには新聞がたくさんあった。それが日露戦争のころにもっとも栄え、次第に衰退し、太平洋戦争に1県1紙制で統合された。』
▽79 515事件。減刑嘆願書が100万通。犬養毅の孫の道子さんは、母親が近所に米を買いに行って売ってくれなかった。被害者の身内が形見を狭くするという異常。…当時の日本国はテロというものに対しておかしかった。本当に甘かったんだとわかる。
明治維新というテロを美化した悪影響。
江戸時代は基本的に暗殺なんかなかった。温和な落ちついた時代がつづいた。それが、幕末になって尊皇攘夷運動が起こって、テロがはやりだした。明治になるとそれが全部、義挙だったことにされてしまう。
▽83 国家はテロを抑えるのではなく、民衆を抑えるため特高を設置する。昭和7年。民間の側と国家の側、双方から社会が暴力的になっていく。
…昭和7年から11年までの4年ほどで、暴力へと一気に動いていく。おっかないくらいに圧政国家へと姿を変える。…昭和8年に新聞紙法が強化され、9年に出版法が強化され、国定教科書が改訂されたのが昭和8年。「ススメススメヘイタイ」
▽87 抵抗するような言論を発表すると、特高の刑事が来て恫喝する。…飯が食えなくなる。社会に恭順の意を表しないと共同体のなかで生きていけなくなった。
▽92 226事件後、統制派は、皇道派を追い払った。陸軍の機構を改革して軍務課というものを創設。そのなかに新聞班をつくった。軍はどんどん内部機構を整備して、言論統制のほうへと機能を強化していった。
…松本サリン事件。雪崩現象を起こして、河野さんを犯人と決めつけた…(戦時と同じ)
▽98 特高は他の警察とは違い秘密警察で、内務省から直接に指揮を受けていた。
▽109 日露戦争のころの松山捕虜収容所。国際的には遅れてきた民族だけど、文明人だと印象づけた。
▽117 昭和8年の国連脱退。国際交流が途絶え、…アメリカの学会と日本の学会とが雑誌や書籍の交換をしていたのに、それが泊まってしまう。アメリカの理科系の学会誌を入手するにもドイツに頼んでもらうしかなくなった…外国の記者が日本のことを知りたければ、本さえ読めればわかるようなことでも、自分で日本に来て調べるしかなくなった。粋がって国連を脱退した結果、田の国から見て日本のことをわかりにくくしてしまった。とんちんかんなことをやっているとしか思えません。
▽120 中国通とかソ連通を自称している人はいたが、文献とか資料を集めているだけ。…山本五十六は2年間アメリカに駐在したが、アメリカ人の友達は1人もいなかった。…外交官は大使館にいて、日本人同士で飯を食うだけで、外へは出て行かなかった。戦前の日本人の海外における人間関係というのは本当に閉鎖的だった(〓ニカラグア大使館など)
▽125 アメリカでは女が強い。男が戦争しようとしても、奥さんが「あんた、戦争なんか行っちゃだめ」と止めるだろう。だから、アメリカ人に戦争なんかできるはずがない。…と真面目に信じこんでいた。…戦争中に敵の戦意を喪失させるための宣伝ビラ「伝単」。アメリカ兵に読ませようとした伝単のレベルが低かった。「あなたの奥さんが国で浮気している」とかね。
…アメリカ人なんてガムをかんで、ダンスをしているだけだ。そんな国が戦争で勝てるわけがない。そう思っていた。常識でものを考える訓練ができていなかった。
…軍人、官僚だけでなく、日本人全体がバカだった。ジャーナリストも。…昭和8年の国連脱退から以後の日本というのは、本当に閉鎖国家になってしまい、まともな認識がもてなかった。夜郎自大な国となった。
▽137 昭和12年7月の「記事差止事項」がつくられた。「我ガ国民ヲ好戦的国民ナリト印象セシムルガ如キ記事、或ハ我ガ国ノ対外国策ヲ侵略主義ナルガ如キ疑惑ヲ生ゼシム慮アル事項」。当時の軍人も、自分たちのやっていることが侵略主義だと承知してやがったんじゃないかと思えるんですね。これは不義の戦争だと彼らは知っていた。それを印象づけたくないから「言うな」と禁じた。
▽141 新聞は昭和13年から20年までは抵抗らしい抵抗はしていない。その後も、雑誌ジャーナリズムは昭和13年ぐらいまでは軍部を相手に戦ってはいるけれど…昭和18年に日本出版界という軍の御用組織がつくられて、出版社への用紙割当量の決定権を握った。昭和19年に「中央公論」は廃刊に追い込まれた。
▽147 あるときから、この連中を使うべからず、という指令が内務省から来る(p158、清沢洌、水野広徳、矢内原忠雄…も。もはや〓共産主義、だけではない)。それが強制的になるのは昭和14年。それからは、雑誌ジャーナリズムは全滅といっていいことになる。
…横浜事件なんて明らかに内部告発ですよ。この事件後にまもなく中央公論はつぶされた。
▽153 昭和20年8月19日の「朝日新聞」みたいに、「さあ、これからは再建のときだ」なんて社説を書くような変わり身の早さは日本のジャーナリズムの特徴ですね。
▽155 新聞人では弾圧にもくじけなかったのは、桐生悠々だけだった。最後まで命を張って、頑張った人だったのに、当時の言論界は制度的な保障どころか、何も助けてやらなかった。
…いまも、もし弾圧があって誰かが突っ張れば、孤立すると思いますよ。どこの組織も助けないと思う。桐生悠々と同じように見捨てられるでしょう。
▽160 「暴支膺懲」近衛のスローガン。子どもの世界でも「膺懲してやる」と使っていた。…ものすごい上から目線。完全に国民が思い上がっている。こんな空気が昭和15年に皇紀2600年の行事へと収斂していく。…要するに国家体制づくりの打ち上げ。
▽166 当時のことを一番批判的に書いていたのは、清沢洌の「暗黒日記」とか、永井荷風の「断腸亭日乗」とか、正木ひろしの「近きより」とかでしょう。…みんな戦時中には他人に読まれないように隠して書いていた。
▽167 大本営発表。初期は本当のことをただ言い換えていた程度だったけど、次第に嘘をつくようになって、敵の損害と日本の損害を逆に言ったりするが、最後のころになると都合の悪いことがおこるとひたすら黙るようになる。
▽195 セヴンティーン事件 大江健三郎。右翼から圧力を受けた第二部「政治少年死す」は単行本に収録されていない。
▽199 今の記者は、昔の日本は軍国主義だったが現在はちがうから、歴史上の出来事はいまとは無関係だとどこかで思い込んでいる。…戦前のものと現在のものとを比較しようとするときには、もし、その時代に自分が生きていたなら、という想像力を働かせなければ、本当の意味での比較はできない。ところが、現在の人たちが歴史を見るときには、こうした同時性の意識がないように思えて、僕はすごく不満なんですね。
▽ まず教育の国家統制が始まるとまずい。それから、情報の統制が始まるとこれが一番よくない。さらに、テロ。…通信傍受法とか、個人情報保護法とか、言論の自由を縛るような法律が出てきている。
…「特定秘密保護法」。そもそも国や政権が何のために情報を隠そうとするのかといえば、その大半は、私たちの知る権利や生命財産を危うくするものばかりなんですよ。昭和史の事実がそれを証明している。
▽203 昭和8年の国連脱退。少々の外圧があって被害者意識が強まって、みんなナショナリズムにはまりこんだ。外圧が強まって被害者意識が強まると、ナショナリズムに走るけど、これは日本が陥りつつある危険だと自覚しなきゃいけない。
…ただ、ナショナリズムと言論で抑制するのはものすごく困難なことで、…テロが始まってしまうと、言論はとたんにしぼんでしまう危うさがある。だから(テロがはじまっていない)いまが肝心なんです。
▽204 教育(国定教科書)、法体系(治安維持法…)、暴力(特高や右翼テロ)、情報の一元化(メディア統合し、情報操作)。この四つの辺による囲いの中に人が閉じ込められてしまい、外へ出ようとすると弾圧されるようになった。〓
▽207 実は、世界恐慌の貧困からは、満州事変によって、日本はいち早く脱していた。貧困は一段落していた。にもかかわらず、貧困感をもちつづけた。いまの日本も、けっして貧しくないのに、国民全体の雰囲気は貧困で痛めつけられているという感じになっている。昭和初期に似ている。国粋主義にまとまりやすい危ない空気に満ちている。(〓格差がナショナリズムを生みだす。中庸は中流社会に)
▽220 桐生悠々の「他山の石」はわずか400部程度の雑誌だった。それに対して国家がどれほどの弾圧をしたかを思えば、国家は、「社会的に筋の通った論」には異様なほど脅えることを知っておく必要がある。…彼の立脚する立場は、「五箇条のご誓文」である。「明治天皇は自由主義、民主主義者であらせられたのだ。五箇条のご誓文を拝読するとき、この思想はいづれの条項にも、脈々と躍動してゐる」と書いて、軍部を批判した。
…その信念の強固なこと、その信念を崩さない一生を貫くこと、そこにこそ価値を見いだすから。
▽222 ジャーナリストとは一個人がジャーナリストとしての矜持を持ったり、誇りを持つだけでは不十分だということになる。…それよりもまず現在の自分たちの身を置いている社会が、市民的権利を保障する空間であるか否かを常に感性に富んだ目で見ていなければいけないということだ。
…市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治勢力は、かならず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義を唱えつづける。
…いまこそジャーナリストは、国家の宣伝要員に堕したあの時代の内実を検証した上で、自らの立場を確認すべきではないかと思う。

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