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熊野・新宮の「大逆事件」前後<辻本雄一>

■熊野・新宮の「大逆事件」前後<辻本雄一>論創社 20150901
大逆事件の前、19歳の荒畑寒村が田辺に来て牟婁新報で好き放題に書いていた。新宮の大石誠之介らともつながっていた。新宮は談論風発。自由な弁論が花盛りのまちであり、社会主義やキリスト教も力をもっていた。おそらく自由民権の気風が残っていたのだろう。
日露戦争後、ナショナリズムが勃興するとともに、自由な空気は崩れていく。そのなかで「大逆事件」が起き、新宮のリベラルは息の根を止められる。そういった過程を、事件の被害者となった人たちの動きを丹念に追うことで再現している。
そして、大石らのリベラルの系譜が西村伊作や佐藤春夫、中上健次に色濃く引き継がれていること、事件の傷跡が最近まで残ってきたことを明らかにする。1961年の段階でも、大石を顕彰することはタブーだったという。
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▽大石誠之助44歳、高木顕明47歳、成石勘三郎31歳、平四郎29歳、崎久保誓一26歳、峰尾節堂26歳。
▽大逆事件前夜とも言える状況が存在していた。。佐藤春夫の「わんぱく時代」などに描かれていた町の雰囲気。
「新宮はソシアリズムと耶蘇教と 新思想との牢獄(ひとや)なるかも」和貝彦太郎。
廃娼運動は負ける。が、談論風発の自由な町の雰囲気は受け継がれ、小さな演説会がひっきりなしに開かれていた。
▽佐藤春夫は、講演会で話した内容が物議を醸し、新宮中学から無期停学
▽27「大石誠之介特集号」を発行した「熊野誌」6号(1961年7月)が新宮市教委で問題となり、図書館長が更迭を余儀なくされた。
▽1965年6月、紀南地方解放運動旧友会の人々の手によって、那智妙法山阿弥陀寺の境内に「人民解放戦士之碑」が建立された
▽75 大塩平八郎の乱から「大逆事件」までは、わずか60数年のスパンである。(歴史上のこと、が、すぐ近くにあった)
▽77 新宮には「実業派」と「改革派」があり、前者が「熊野実業新聞」、後者が「熊野新報」と近かった。だが廃娼問題にはどちらも反対していなかった。だから大石らは、社会主義色が濃かった田辺の牟呂新報とつながった
▽80 高木顕明が町内の寺院の僧侶たちから排斥されはじめたのは、日露戦争がはじまったころから。「皇国戦捷祈祷会」に高木ひとりが賛成しなかったことによる。…「置娼問題」も紳士連の思惑通りことが進んで、元警察署長が楼主に座っていた。
▽83 中上は「紀州−木の国・根の国物語」において、…熊野は、貶められた者、異形の者、死んだ者の視線で作られた国家で、可視の状態になると定められた規約「国家」と抵触せざるをえない物語の渦巻く土地だという。中上が「私の中の日本人」として選んだのが、「大石誠之介」であった。
▽87 大石誠之介の兄に余平(西村伊作の父)、酉久(玉置姓を継ぐ)…がいる。ヒューマニズムによる赤髭先生を実践。
▽95 中上は亡くなる1年前、新宮での「小説家の想像力」と題した講演で「大逆事件を正面に据えた小説を書いてみたい」と述べている。大石の甥をモデルにした「佐倉」
▽123 日露戦争後。熊野での木材需要を激増させ、乱伐が大手をふるって行われていた。それに輪をかけたのが他県に先駆けて積極的に進められた神社合祀政策で、鎮守の森の木々が次々と伐採されてもいった。置娼繁盛の背後で、この経済繁栄、木材景気の盛況に人々が浮かれていた。
▽127 富山県から川上親晴知事が赴任。警視庁で社会主義鎮圧係を専門にやった経験があった。知事談話として「同町(新宮)には社会主義を抱いているものがある、是等が学生に感化を与へるといふ事は頗る危険な事である。大石某はこの社会主義を抱いているもので」、…新宮中学ストライキ事件に関して、具体的に誠之介を名指しした批判を展開している。
▽140 和貝の「牢獄」の比喩は1年後の事件をまるで予告しているかのようで。
▽144 日露戦争後の世相をうけて、仏教界などが率先して戦捷記念碑が各地で建てられた。戦争にも非協力的で、他の宗門から国賊視されていた顕明は、記念碑にも反対し、新宮の仏教界でも孤立していた。
▽154 1908年、幸徳秋水来訪。
▽216 沖野 「本町通り」の熊野川側を左側、反対側は右側と呼んでいる。「新宮町の富は殆ど此左側に偏有せるの感あり」(川側が経済の中心)
▽228 1909年、中学生佐藤春夫が登壇し、無期停学に。講演会参加者の一人から学校に投書が届けられた。社会主義者や虚無主義者と認められるような学生を、そのまま放置しておいてよいのかと言うもの。(卒業式の君が代斉唱の監視のよう)
▽246 一人の証人も許されず非公開で進められた裁判だった。暗黒裁判。
▽251 牟婁新報 1903年ころには社会主義系の新聞として全国的にも知られるようになっていた。
▽258 刑執行を急いだ背景には、外国で高まりつつあった事件の不当を訴える運動が盛り上がりかけていることへの政府側の焦りがあった。バーナード・ショーは「見よ、日本はいまや明らかに欧米列国と並ぶ文明国になった。その証拠には12名の無政府主義者を死刑にしたではないか」と痛烈な言葉で皮肉った。
▽274 逮捕を免れた沖野岩三郎。「新宮町といふ一つの監獄の中に繋がれてゐる様な有様で」。そんななかで、大石の妻子を新宮から脱出させ……。
▽280 戦後の再審請求。1967年に最高裁は特別抗告を棄却。支援したひとびとによって、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が組織され、今日でも活動をつづけている。…1996年、真宗大谷派が高木顕明の僧籍を復活させ、…曹洞宗が内山愚堂の復権を、臨済宗が峰尾節堂の復権をおこなった。
2001年新宮でも「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」が組織され、新宮市議会でも「大逆事件の熊野の犠牲者の名誉を回復し、顕彰に関する宣言」が全会一致で議決された。
本宮町でも、成石兄弟の菩提寺曹洞宗祐川寺の丹羽達宗住職はふたりの位牌をつくって供養。03年に「『大逆事件』の犠牲者の名誉回復を実現する会」が発足した。犠牲者全員の位牌がつくられている祐川寺で2010年に100年忌法要。
▽291 医師の子だった佐藤春夫。新宮で6,7台しかない時代に、往診用の自転車を乗り回していた。
西村伊作も自転車をもち、伝道行商と称して社会主義の本を新宮から京都まで自転車で販売したことがある。〓
萬朝報サイクリスト 堺利彦の影響。
平民文庫行商の消息 西村伊作
▽315 西村伊作も「特別要視察人」として厳しい監視の目にさらされ、弟真子とモーター・サイクルで叔父に会うために出かけ、東京で留置される憂き目に遭っている。
与謝野晶子1915年に来訪。「熊野川いとよく涙うち流す人ばかり居てものがたりめく」
▽330 佐藤春夫の「西班牙犬の家」のモデルが、西村記念館であろう。
…先進的で開明的、そして反骨的。こういった熊野人気質。
▽346 中上作品の「佐倉」こそ、漱石の親戚伊藤徳江の嫁ぎ相手の、玉置醒がモデルになっている。
▽353 沖野岩三郎によれば玉置酉久は町内で最初に被差別部落のひとびとを日雇いに雇った。…教会員と被差別部落のひとびととの交流が始まり、虚心会という会ができている。
…教会は、玉置家の財産問題にからむかたちで、醒から、立ち退きの要請がなされたりする。しかしそのまま日和山に存続し、その後、日和山開発によって山が削り取られ、現在の地に移転するのは1977年。この日和山開発こそは、市の中央に存在した日和山から臥竜山へとつらなる山を取り払うことを目的とした、中上文学の「路地の解体」につながる一大事業だった。路地解体にかかわって、土地の所有者玉置醒が、「佐倉」として登場してくる。
醒は、大石誠之介の甥にあたり、被差別部落一帯の土地所有者だった。この一族は森林資源を背景に、アナーキーでハイカラな新宮モダニズムを育てた。醒の代になって路地の土地と山を手放すことになる。こうして、70年代後半から地域再開発の波にさらされる。
…醒は、1942年から49年にかけて市議会議長。首相であった平沼騏一郎が来訪した際には、「大逆事件」の担当検事としてのその不当を訴え、抵抗の姿勢を明確にして、頑として面会の場に赴かなかったという。政界引退後は新宮城址で旅館業も営んだ。1961年に死んだ。
▽358 新宮リベラリズム
「大逆事件」によって、木材の集積基地として発展しつつあった新宮の地位は凋落したと述べられているが、それまえ「紳士連」(実業派)と「改革派」(玉置酉久ら)と対立していた、その「改革派」がたちゆかなくなったととらえる方が納得がいく。進歩的な反骨的な気風が一掃されてしまい、明治の開明的な土壌というようなものが壊滅的な打撃を受けた。
〓紳士連はもっとしたたかで、台湾や中国東北部にも進出…
新宮の木材が決定的な打撃を被るのは、高度経済の成長期で、「路地解体」が急速に進められた頃と合致し、道路網が開け、安価な外国材が急増する頃で、熊野川を利用しての木材搬送が完全に断ち切られ、河口の新宮に集積する要がなくなったことなどに起因している。
「路地解体」の物語は、木材界の凋落という背景を背負う形で、熊野の「近代」の総体問いかける内容をふくんでいるともいえる。
▽362 中上。もう東京や「中央」を介していてはダメだ。熊野が直接世界の同時性とつながるのだ。…熊野大学。この講座と、明治末の浄泉寺での幸徳秋水らのささやかな講演会とをつねに重ね合わせて想像していた自分を懐かしく回想し…。
▽388 新宮の川原町から船町界隈は、明治期の一番の繁華街。…明治政府は熊野川を県境と定め、熊野の経済圏・文化圏を分断した。それにもめげずに木材の富を謳歌した新宮。明治末の「大逆事件」は活況あった町を「恐懼せる町」に変貌させ…
中上健次の小説の舞台「路地の解体」の現実は、したたかに生き延びてきた「商人の町」への痛撃ともなった。そこには、わが国の「近代の総体」が凝縮されているようにも感じる。

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