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十津川街道 街道をゆく<司馬遼太郎>

■十津川街道 街道をゆく12<司馬遼太郎>20151017

 

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▽8 十津川郷は、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念にこれほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
▽「村」としての面積でも日本一だが、人口密度においても1キロ平方あたり十数人。
▽10 昭和のはじめごろまで、人が死ぬと、くやみにくる者が、口々に、−−コメヨウジョウもかないませず。と、遺族の人々にあいさつしたという。病気になると、力をつけるために米のかゆを食べさせるのだが、そういう栄養療法もかなわずに亡くなった、ということをくやむのである。それほど米が貴重なものであった。
十津川の免租地である歴史は古い。大海人皇子に壬申の乱で味方して、その功で免訴されたという伝説も。免租どころか、戦国期まで、交通の隔絶した大山塊であるために、中央権力の及ばない一種の政治的空白地であることはたしかだった。
豊臣政権だけは、こういう僻地でさえ「太閤検地」の竿を入れさせた。…とうてい収奪の対象になる土地ではなく、村全体で「千石」という概算にして免祖地にしてしまった。
…徳川期、大和盆地の大半と周辺の山々は天領であった。…十津川郷も天領になり、五條の代官所の支配になった。
▽14 江戸中期までの文書には、百姓を代表する庄屋でも、ほとんど名字が書かれていない。しかし後期になると、名字を関した文書が多くなっている。…幕末の争乱の時に全村の壮丁が士装し、薩長の保護のもとで京都で活躍した。一種の「藩」のような形で、藩校までできた。「文武館」.今の県立十津川高校。戊辰戦争に出て、それらの功ということで、明治初年、全村一戸のこらず士族になった。
▽28 五條の町。天領の治所であったにしてはあまり発展せず、江戸や明治期のにおいが残っている。
▽37 十津川では吊り橋もすくなく、谷をわたるのに「やえん」と、この地で呼ばれている人力の空中索道を使っていた。
▽41 十津川は古い文献では主舞台とか主役としては出ず、「人馬不通ノ所」として敗者の潜入地としてか、中央で政権を争う合戦がおこなわれる場合…ささやかながら一種の兵力の貯蔵地として登場するようである。
▽42 皇紀などという珍妙なものを公式に制定したのは、民族主義が昂揚せざるを得なかった明治初年のことで、日本書紀の紀年法を採用し、西暦から660年古くして神武天皇の即位の年とした。…皇紀2600年にあたる昭和15年…国権をもてあそぶ連中というのは、変に思想的な祭礼をやって民衆をわかせることを好むらしい…(記紀の記述を歴史とすることに批判を加えた)津田左右吉。発禁に。
▽48 畝傍山麓の橿原神宮も、古い神社に見えるが、明治22年の設立で、それまで神武天皇を祭る神社などは、日本のどこにもなかった。
▽100 太閤検地。中央政権が、耕地という耕地を一坪といえども支配の網からのがさないという体制が成立した。十津川にとっても、これによってはじめて外界の権力の支配下に入ったといっていい。(それまではアジールだった? そこに商売が成立か?)
▽105 戦国以来、動員能力はふつう1万石につき250人だった。その勘定でいうと十津川の千人というのは4万石以上の実力となり… 「十津川は壬申の乱以来、兵を出してきたが、恩賞をもらったことは一度もない」というのが、この郷の自慢のひとつ。…この可憐なほどの努力は、伝統的体制を国家から守るためのもので、ただ単に、天然自然に桃源郷でありつづけたわけではなかった。
▽108 十津川の橋はことごとく独木(まるき)とききましたが…それが板橋になったといって驚いている。(1886年にきた漢学者藤沢南岳) 板橋よりさらに進化するのが吊り橋。南岳のころは吊り橋は一つもなかった。その3年後の大洪水ののち、主要な橋が吊り橋にあらためられていく〓(吊り橋の歴史)。
…谷瀬の大吊り橋。1戸あたり30万円の負担金を出しあって架橋した。よほどの大金だが、この山村で中世以来発達してきた独特の公の意識を知るうえで参考になる。
▽110 国道168号のかたちに整えられるのは昭和34年。
…南岳が訪れた3年後に大水害。そのあと水害の再来をおそれて、北海道に移住。
▽112 昭和30年代から二車線の縦貫道路ができ、ほかにも林道ができて、山々の価値が飛躍した。道路のおかげで、弥生時代以来、はじめて外界の経済と結びついてしまった。…上代以来、この一郷がうるおったのは、昭和30年代にほぼ完成した林道と縦貫道路が、木材の高値という状況に対してたまたまプラスに作動したほんの一時期だけだったということになる。気がついたときには、国際経済の渦のなかに村ぐるみ吸い込まれてしまっていた。
▽116「壺の中から天を見上げるほどの面積しか(空が)見えなかった」
明治までの十津川郷は、外界の大政変があるごとに勝者に接触し、そのあかしとして戦闘者の血を提供し、それによって、自治と無税の伝統を保証してもらべくつとめてきた歴史であるといってもいい。
…低地の政治に対し関心をもちつづけた唯一の山郷といえるのではないか。壬申の乱で天武天皇に接触し、保元の乱にも兵を出し、大坂の陣で家康に接触するのは、自分たちの伝統のままに置き捨てておいてもらいたいということであり…。
▽121孝明天皇が「今夜は十津川の者が紋を守っているから、安心してねむることができる」とつぶやいたという。この天皇は尊皇という長州に攻め入られ、のち倒幕を決意した薩摩藩を黒幕とする岩倉具視によって毒殺されたとされる。こういう状勢で、ただ「安堵」だけをねがって上洛してきている山村の淳朴な兵は安心だったのだろう。
▽122 戊辰戦争で奥州まで転戦。戦後、10万9000円の公債証書をもらっている。これだけ。その多くは文武館の建設と維持に使われることになった。維新のもうけは学校が一つ建ったということぐらい。
ほかに全村2233戸がことごとく士族の班に列したことである。…薩長土肥のつるで新政府の官員になった者もいなかった。この点、みごとといっていい。
▽明治12年の堺県令あての建白で、「当郷の義は、古来、山河総て無税にして」。…この一郷がやりつづけてきた安堵運動は近代国家の成立で水泡に帰したといっていい。
▽126 上湯川の上流。出谷というところの温泉。「神湯荘」
〓廃仏毀釈で寺という寺とこぼってしまったが、当時、出谷に万松山竜泉寺という寺があり、「文恵さん」とよんで敬愛していた僧が住んでいた…。その寺は宿の上に跡がのこっている。建物はないが墓地はそのまま。
▽146京都にむらがってきた雑多な新志士たちはもう一度第二の維新をおこそうとしていたが、それらを暗にたきつけたのは、新政府内部における先端的な栄達した攘夷家だった。国民皆兵という、当時における階級撤廃の衝撃を士族たちにあたえた村田蔵六が襲撃されるのも明治2年で、下手人は京都にむらがっていた新志士たち。横井小楠も殺される。新政権の部内で糸を引いていた高官がいたのだろう。
…十津川人が幕末以来の歴史に出没するのは、(上平主税らによる)この事件をもって最後とする。あとは、古代以来の山民の生活史がつづいてゆくのである。
▽156 坂本は、新政府ができれば浪士たちは無用の存在になると考え、みなで北海道に移ろうと考えていた。この案は坂本の死で消えてしまい、このため、新政府は維新後もなお京都を騒がせつつ横行した浪士の始末に手を焼くことになる。…この案が京都の十津川屋敷にいた前田雅楽の耳に入り、それが水害による壊滅のときに…十津川移住を考えさせたのかも。
…移住者の総計は、家を流された戸数とほぼ見合う600戸、2691人。
▽162 横井小楠も、その思想の出発点は天皇好き。徳川封建制を思想的に憎悪するとき、その激情の象徴として天皇という思想上の空白が対置されざるをえないのだ。…かれの思想における最初の核だった天皇は、当初の空白のままに置かれた。そのまま「共和」を考えるようになった。…だからこそ、小楠は日本的尊皇気分のひとびとから怖れられ、殺されざるを得なかったのであろう。
▽164 文武館 孝明天皇の声がかりで学校をおこすことに。…(御所の番をする者のためにつくられた、などというふしぎな伝統=170)
十津川郷のまとまりは古来、50余カ所の在所の合議的習慣の上に成立しており、いまも当時に似ている。明治後はその在所ごとに小学校ができ、いまなおその制がつづいているが、維持についての負担は大変らしい。(五百瀬の小学校〓の存在感)
▽167 孝明天皇は、攘夷主義者だったが、保守的体質で、政治は幕府が担当するものという祖法から抜けようとはせず、雄藩の攘夷が倒幕の毒をふくんでいることに気づいたころから、薩長と結んでいる公家たちを警戒の目で見るようになった。彼がだれよりも信頼したのは佐幕の大黒柱というべき京都守護職会津藩主松平容保だった。
▽180 トチの実。十津川郷にあっては、太古以来ほんの30年ほど前まで、これが主食のひとつだったのである(〓トチ食)。…トチを冠した地名の印象は、重く暗い。
▽183 熊野は隠国といわれながら、北方の高地のの十津川郷からきた目でみると、目を見はりたいほどに広濶な野に感じられるのは、十津川郷の印象がそれほどに濃厚であったということらしい。〓

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