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死の国・熊野<豊島修>

■死の国・熊野<豊島修>講談社現代新書 20151018
熊野を「死の国」。大雲取越の道が「死出の山路」とよばれている。
しばしば死んだ肉親に行き会うとつたえられる。熊野一帯は死者の霊がかくれこもる他界であるという信仰をよくあらわしている。
花の窟には無数の洞窟がある。それは風葬洞窟に想定しえれば、記紀神話にみえる「黄泉の穴」、古代の死者の霊がとどまる他界へ通う入口としての伝承があったのではないか。葬送の場所としての「花の窟」が伊弉冉の墓に擬せられる。

十津川には水葬伝承がある。本宮の中洲が、死体の流れ寄るところである可能性がある。流れ寄った死体の霊を神格化して、熊野神道では素戔嗚尊としたのだろう。
那智・新宮は海洋信仰に支えられた「海の熊野」。
新宮の阿須賀神社は、古くから「海洋宗教」の聖地。
▽61 現在の熊野修験道史研究では、浜ノ宮王子は「那智の山岳宗教と海洋宗教の結合点」と考えられている。
「山の熊野」本宮と「海の熊野」那智・新宮とが結合して、三山信仰が成立。
▽70 烏が霊鳥とされたのは、古代熊野の風葬の卓越性があげられる。「けがれ」とされる死体をはやく風化消滅せしめる…
▽88 平安後期の熊野三山信仰の特徴は、山と海洋にあるととらえた死者の霊の住む世界を、その本地とする仏・菩薩の浄土と想定していた。
平安中期ごろを堺にして、本宮は阿弥陀の浄土に擬せられ、死後の救済を求める霊地の中心となった。那智と新宮は、海洋他界の常世信仰が仏教と結んで、観音信仰と現世利益の薬師信仰の中心の聖地となった。
こうした信仰の成立は、それまでの死者の霊の籠もる暗い世界とする宗教観念を変化させた。古代熊野の「負のイメージ」は、人々から解放された。
▽100 本宮での一遍。神勅で信仰上の悩みを解決した。一種の悟りであり、時衆教団では「熊野成道」といわれる。
▽123 神倉山の中腹にある「中ノ地蔵」に奉仕した比丘尼寺、妙心寺。
…熊野比丘尼は、神倉本願妙心寺を本寺としていた。…地獄極楽図をもって諸国を勧化遊行し、絵解き唱導をおこなった。
▽138 伏拝王子の「和泉式部供養塔」。時衆。
▽141 古代から中世中期までは参詣霊場の王座をしめていたが、18世紀末ごろには衰退していた。…熊野社の社領は、近世初期には三山あわせて1000石。高野山の20分の1以下。…熊野詣では近世になっても遊楽旅行になりえておらず、なお苦行をともなうものであった。…逆に、近世の熊野詣では、なお古代以来の真摯な信仰者が多く参詣していたということではないか。
▽156 日本で、土葬・火葬に先行して、風葬とともに水葬が存在した。海辺の民のあいだに卓越していた水葬儀礼から概念化された常世であったといえよう。
…補陀落渡海。平安時代の869年を初見として42例が確認されている。古代が9例、中世(戦国期をふくむ)が26例、近世が7例。42例のうち24例が那智からの渡海。
▽191 「代受滅罪」の信仰。自らを犠牲にして、多くの人々の苦しみを救うことを目的とする宗教。
中世後期の補陀落渡海は、観音の縁日にあたる18日が多い。平安時代の焼身行は、阿弥陀の縁日である15日に多く決行された。いっぽう、近世の補陀落山寺住僧のばあい、日時は一定しない。院主の臨終が不定期だったから。生きている状態で捨身行としておこなわれた古代・中世の渡海にくらべ、形骸化した葬送儀礼であったといえよう。
▽201日本人の浄土観である補陀落浄土・観音浄土の瀬立には、水葬儀礼から概念化された常世の観念がよこたわっている。

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