■世界遺産 熊野古道<宇江敏勝> 新宿書房
熊野詣は大正時代に終わり、車道の建設などによって道は姿を消し、残った部分も峠越えなどの難路は忘れられていた。中辺路か関心がはらわれるようになったのは昭和30年代からという。昭和52年、中辺路は文化庁の「歴史の道」になってはじめて、一般の人々が熊野古道として歩くようになった。
古道周辺の山で働いてきた筆者が、すべての古道をたどった記録。細かなエピソードがふんだんでネタ探しのもとになった。
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□伊勢路
▽13 伊勢路も平成8年ごろから復元整備され、道標なども立てられた。石畳は海山町から尾鷲市へと越える馬越峠の約2キロにわたりとくに美しく残っている。
▽16 新鹿から大泊へと越える大吹峠。登り口の波田須の里は、徐福の一行が上陸したところとされている。峠は、竹林の名所でもある。(〓なぜ)…花窟。神殿はなく、岩そのものを崇敬する太古の風習を伝えている。伊弉冉の墓所ともいわれている。
本宮道と浜街道にわかれる。
▽21 大峰奥崖道 青岸渡寺の主催する奥駆行は毎年おこなわれている。7日間かけて100キロを踏破する。青岸渡寺の高木亮英副住職のもとで。〓
南半分は新宮山彦グループ(玉岡憲明会長)の手で整備されてきた。行仙の宿や平治ノ宿に山小屋も建設した。本宮から吉野山までの6日間に民家は1軒も見ない。人が住んでいるのは弥山小屋と大峯山寺だけ。尾根づたいの道はほとんど天然林の中を通っている。
□小辺路
▽27 野迫川村の植林小屋で暮らし、買い物のために高野山の町にでかけた。
▽29 小辺路は、大阪・京都・奈良・和歌山方面から来て高野山に詣で、つぎに能登三山へ向かう信仰の道であった。熊野方面から来る者は、東日本からの参詣者が多かった。
小辺路は、山中の生産物を運ぶとともに、外からは商人たちが米八潮や薬や反物などをたずさえてきた。昭和初期まで街道はにぎわい、宿や茶店がそこかしこにあった。
▽32 ろくろ峠。木地師。このあたりの木地の製品は紀州の黒江へも運ばれて、黒江漆器として名をはせた。
▽35 大滝 昭和のはじめまで宿屋もあり、昭和30年頃には30軒ほどあった。今は7軒十数人だけ。
▽37 野迫川村 市町村合併で悩んでいる。水ケ峰。昭和27年ごろ無住に。
天誅組の挙兵。不利な政変のことは隠して、十津川の里に兵を募る。十津川郷士は朝廷への思い入れが深い。千数百人の郷士たちが集まってきた。(今につながる精神性があるのか〓)
▽43 大股 かつては釣り客目当ての民宿が多かったが、いまは津田屋の1軒だけ〓。
▽45 野迫川村は両墓制が残る。土葬において、埋葬する場所と、石塔を立てて祭るところを別にする習俗。…〓この村はいまもほとんど土葬だ。
▽49 伯母子岳。頂上付近の天然林が豊か。熊野へ通じる古道の近くで、原始林が残っているのは、大峰山脈と那智山とこの伯母子峠付近だけ。頂上から東側に数百メートル下ったところが古道の峠。
▽52 上西宿 十津川村は、合併はどこともしない(〓なぜ)。
明治22年の大水害で壊滅的な打撃を受けたため、約半数が北海道へ開拓移住した。新十津川町になった。(〓その記憶)
▽57 水ケ元
▽63 平維盛伝説。…海に出て死ぬ。が、実は山中に隠れて命を長らえたという伝説も。
▽67 木地師と落人伝説の関係。貴種流離。
▽ 五百瀬で唯一の民宿、玉屋。熊狩の話。玉屋の中南義弘さん〓、民宿は廃業した。玉屋の庭先には自然石の道標がある。「これより本宮へ十リ 右くま能かうやへ八リ」。
▽71 三浦 以前は11軒、最近は人が住むのは2軒だけ。ここの人々も天誅組の騒動にまきこまれている。
▽77 古矢倉 天水田。昭和20年代後半まで、谷間の釜中の人々がかよって耕作していたそうだ。
矢倉村 猟師の原田行男氏。村から委託されて古道の修復をしている。杉林に囲まれた斜面に、3軒の家があり、真ん中が原田さんの家だ。矢倉の住人は20数年来原田さんの家族だけだったが、昨年(平成15年)になって、大阪と奈良から一人暮らしの中年女性が移ってきた。〓〓
▽83 西川 紀州では焼畑がない。焼畑が紀伊半島で最後まで残っていたのが十津川だった。十津川を代表する食物は、黍と里芋。黍はナンバとかナンバキビともよび、ゆでたり焼いたりし、乾燥保存をして餅にもついた。〓(アンデスやメキシコのよう)
里芋はホイモと呼んで、塩を加えて大きな鍋に一杯炊き、金網に載せたり串に刺して焼いて食べた。夜食にも朝にも食べた。〓
…松煙 和墨の材料。昭和20年代まであったが、松林が少なくなって、化学製品にとってかわられた。大塔村に日本で唯一の工場がある。〓
▽91 石畳の坂 柳本の民家そばから登ると…自然石を敷きつめた古道。
果無(桑畑)という集落。絶景の地。里の家は9軒。家数はへっていない。時代を超越して暮らしているよう〓。集落の一番高いところに岡伊三男氏の家がある。
▽95 十津川村は、神仏分離令を受け、廃仏毀釈を徹底的に行った。村内51カ寺をすべてをたたき壊し、経典や仏像を焼き、石仏などは谷間に投げ捨てたといわれている。以来、お寺はひとつもなくなったなかで、観音堂だけが守られている〓。
人々はいまも神社の氏子であり、冠婚葬祭も神式だ。だが、西国三十三カ所の観音をまつるなど、昔ながらの神仏習合を実践しているのである。
▽ 果無峠
▽107 七色茶屋跡
□中辺路
▽120 秋津川地区は紀州備長炭の発祥地。129 餅つかぬ里
▽136 高原から、ヒノキ林の下をゆるやかに登る。これより近露の道の駅で、人はまったく住んでいない。7.5キロのあいだは車も入らない山道である。昭和の初めまでは、大事な生活道。田辺にでるときは、もっぱら歩いて越えた。植林のなかをのぼると高原池がある。かつては田んぼの用水だった。
…十丈王子 明治末には13軒あった。昭和40年頃まで4軒ほどが農業をしていたが、まもなく無住になった。
▽143 逢坂峠 熊野地方は昭和20年代から植林が盛んに行われ、森林全体の8割近くと、全国でもぬきんでて多い。古道周辺だと9割以上にもなるのではないか。せめて私は上田和から逢坂峠付近を歩いてもらって、これが熊野の森ですよと強調したいと思う。…三体月の月見の丘。
▽147 箸折峠 牛馬童子。
30年余り前までは田んぼも少しあり、まわりは明るい刈り場であった。眼下に日置川と近露の里が一望のもとにみえたので、まるで桃源郷のようだとたたえた江戸時代の記録もある。
▽149 なかへち美術館。野長瀬晩花と渡瀬凌雲という日本画かを輩出している。
▽153 野中の一方杉が存在するのは、南方熊楠の尽力のたまもの。神社合祀で、継桜王子社も新設の近野神社へ合祀滅却されることとなった。その費用のため鎮守の森も売られて伐採されるはめに。熊楠が反対運動を展開し、スギやヒノキ30本ほどが伐られたところで、中央部のスギだけは救われた。
いっぽう、近露や道湯川の王子社では名木が皆伐されて、古い切り株しか残っていない。
「野中の清水」 私の住居も清水の下方。共同の簡易水道。消毒薬など入れない真水。…茶がゆも野中の清水を使ってこそ本来の味わいが出る。
▽158 道湯川村 国から「義務教育免除地」とされたのも、県内では道湯川だけだった。そのために私の母親などはいまでも読み書きがほとんどできない。(〓文字を知ることで失うものは?=レヴィストロース。文字を知らない母とのつながりが、文学に生きた?〓)
▽163 三越峠から下って道ノ川。40年ほど前まで10軒ほどの小集落があった。
▽164 船玉神社。瀞八丁で観光の船頭をしている北正一氏(〓取材したらおもしろいかも)が、秘蔵の木造船を寄進した川船が置いてある。
▽166 伏拝王子 和泉式部 熊野詣に7度まで来たが、そのたびに月の障りとなって参拝できなかったという…。もとよりも塵に交る神なれば月のさはりのなにかくるしき
▽168 熊野権現 「権現」というのは仮という意味で、仏が仮に神の姿でもって現れたということ、すなわち本地垂迹説。神仏習合、同体などといわれ、奈良時代から唱えられた。
本宮・速玉・那智はもともと別個のカミホトケなのである。家津御子神(阿弥陀如来)、熊野速玉神(薬師如来)、熊野夫須美神(千手観音)。
…社を建てれば祟りがあるといわれて…明治になって国家神道に束ねられる過程で、たいていは社を建設するにいたった。樫原(那智勝浦)の王子権現などはいまも社をもたない。
▽170 熊野川の川舟。新宮と五条を結ぶ国道が全面的に開通したのは昭和34年だった。それまでは舟に乗るか歩くしかなかった。
…大型の運搬船のことを団平といった。…本宮・新宮間は九里峡と呼ばれたが、40キロ弱の川道を1日で下ることができた。
熊野川独特のモーター(プロペラ船)が発明されたのは大正9年。新宮・折立(十津川)の定期航路がもうけられた。
筏は昭和38年に姿を消したがそれはわが国のすべての河川における筏の終焉だった。
▽173 速玉大社 明治16年の火災で焼失し27年に再建。神倉神社と阿須賀神社〓(海洋を渡ってきた先住民の跡と想像される)が元宮という説。
▽174 大辺路を浜ノ宮王子までとするのと、新宮までとする二説ある。…三輪崎は江戸時代から漁港。クジラ漁が盛んだった。佐野王子。尼将軍の供養塔がある。(〓ここから尼将軍)
▽176 補陀落渡海 維盛伝説。入水自殺したとされるが、偽装して逃げたという説。色川地区には、維盛の住宅跡や末裔といわれる人々もいた〓(〓Iターンの元祖)
…大門坂入口近くの多富気王子は最後の王子。
▽180 那智の原始林。熊楠の運動によって残された…
▽182 神仏分離令と修験道廃止令で那智山からも仏教寺院とともに修験道が排除される。青岸渡寺もいっときは廃寺となる。修験道は昭和63年に青岸渡寺副住職の高木亮英師によって復興。(〓なぜ復興)
▽183 舟見峠 妙法山 阿弥陀寺境内には、「戦士の墓」があり、荒畑寒村の歌碑も〓〓。
▽186 ダル 飢えて死んだ者の怨霊。熊楠も。…食物をまったく持っていなければ、米という字を掌に書いてなめればよい、などともいわれる。
▽188 地蔵茶屋から石倉峠 山の神。女性神として、男性の象徴もお供えする。木を削ってこしらえた陽根。新しいものがなくなった。山祭りを何年もやめてしまった…。〓
▽192 定家は、艱難辛苦のさまと弱音を書きつらねているが、大雲取・小雲取のそれはきわめつき。
▽196 小口川(赤木川)。上長井は、小口村の中心地だった。明治までは10軒ほど宿屋も。元中学を改造した自然の家が客を泊めている。上長井の住民だった歌人、杉浦勝。役場に勤めながら農林業にも従事。〓
▽205 百間座 小雲取の名所。
▽209 江戸時代。本宮方面へは行かず、湯峯方面へと越える。
▽212 小栗判官の物語 時宗の遊行上人たちが不治の病に苦しむ人々の救済のために広めたものと考えられる。
□大辺路
▽219 田辺と浜ノ宮のあいだ94キロ。
▽222 紀州藩の官道。一里塚も設置。現代、道のかたちがしっかり残っているのも四十八坂といわれた峠越え。
平成11年に体験博がもよおされたとき、富田坂と長井坂だけが復元された。この年に全行程を歩いたが、仏坂などは刈り払いながら進んだ。…富田坂・仏坂・長井坂だけが世界遺産登録にかろうじて間に合った。紀南文化財研究会などの運動の成果。〓
▽226 引き揚げ港。近畿では舞鶴と田辺(文里)の2港だった。4カ月間で22万332人が引き揚げた。
▽229 朝来村に貝釦製造業。アワビやサザエの貝殻を原料に。
古道は白浜の温泉街には入らないが…旅人の多くは足を伸ばしている。
▽235 日置川。木材を流送し、日置に集められた。昭和30年ごろまでも流送は行われ、木材か工場は30軒ほどあり…。昭和32年に上流に殿山ダムができ、木材は来なくなった。増水したさいにダムが放流し、安居もふくめてしばしば水害にみまわれた。
安居に渡し船があったのは昭和29年9月までという。〓
▽236 仏坂 牛市は大正時代から昭和20年代まであった。
…太間川の入谷 地主神社。石垣を積みめぐらして真ん中にサカキが1本立っているが、鳥居や社殿は見当たらない。
…周参見王子神社は舟絵馬があることで知られる。安永8年から明治37年までのもの50数点奉納〓。(研究している郷土史家は?)
…すさみ駅の裏の萬福寺は、明治時代の住職が熊野地方のキリスト教の草分けだったという話がある〓。北輝二くんは私の年来の友人。祖父が住職とともに洗礼を受けていた。すさみ町内には30戸ほどのクリスチャンがいる。北君も敬虔な信者である〓。
▽241 和深川沿いの集落。このあたりは進駐軍から種をもらってレタス栽培をはじめたところ。日本のレタスの発祥地。和深川王子神社。〓
▽243 長井坂 構築された尾根の道。ふもとに畜産試験場の建物と牧場。イノブタ。
…イガミ〓は正月料理に欠かせない。
▽246 江須崎 エビとカニの水族館
〓宇ノ平見、中平見、大平見。平見というのは、高台にある平地のことで、背後に山林が迫り、海側は険しく切り立っている。
▽250 カツオのケンケン釣り ルアー釣り。
マグロ延縄漁。安指の寺本正勝さん。
▽252 口熊野から勝浦や三輪崎までの女性の働きはほかに例を見ないほど猛烈。男は漁に出るほかはなにもしない。…女としても亭主を働かせるようでは面目が立たない。里では女は働くもの、男は遊んで女房に面倒を見てもらうのが通り相場となっている。(〓能登のととらく。輪島に似てる)
▽255 田並出身の浅利亀吉、周次郎兄弟は、明治の後年に北米のカナダ沿岸で猟師として活躍するかたわら缶詰工場をつくり、マグロを原料とした「シーチキン」」を売り出した。〓(発祥地?)
▽261 串本湾では養殖が盛ん。タイとクロマグロ。〓
無量寺
▽266 ねんねこの宮
▽271 浦神の庄ノ坂 荒れたままだったが、ボランティアが整備。
▽276 与根河池 水田の勘概で1711年に完成。1857年にさらに奥に新池。
グリーンピア南紀 昭和61年開業。平成15年に経営難で閉鎖。
地元行政が関心も熱意もないため、世界遺産にも登録されていない。
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ゆかし潟 佐藤春夫によって案づけられた。近くに湯川の集落。
勝浦は、日本屈指のマグロの水揚基地。
那智の浜は碁石などにする那智黒で有名。海から流れ着いた石。〓熊野市神川の山中にのみ産出する。そこから熊野川を流れて、那智の浜や七里御浜へ丸い石となって漂着した。
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