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観音浄土に船出した人びと 熊野と補陀落渡海<根井浄>

■観音浄土に船出した人びと 熊野と補陀落渡海<根井浄> 吉川弘文館 20150709
▽2 渡海の介添えであった役人たちは、金光坊を無理矢理に海中に沈めた。この事件以来、生きながらの補陀落渡海は中止されたという。16世紀末。
…金光坊の生まれ変わりという「ヨロリ」。「クロシビカマス」という魚。地元では、あまり食べない。
…熊野那智の海岸は、補陀落渡海の日本最大の母港だった。補陀洛山寺。
▽11 「山カサナリ、河多シテ、ユクミチハルカナリ。春ユキ秋来テ、イタル人マレ也。」
▽19 熊野の「濡れ藁沓の入堂」は、普段の地元住民の参詣姿であったと思われ……貴紳貧富・老若男女を問わない大らかな熊野信仰の庶民性がかいま見られて興味深い。
▽29 平維盛の入水往生。山成島で入水。
▽46 鎌倉時代の縁起・伝承として、補陀洛山寺の本尊が、かつて海上から拾いあげられた小像であったことは、注意を払わなければならない。
▽55 江戸の補陀落渡海は、実際には、補陀洛山寺住職の水葬であったが…
▽57 智定坊 御家人であった下河辺六郎行秀。鹿狩りでの失態を演じて40年後に補陀落渡海した。
▽78 明恵。インド渡航を計画したが中止を余儀なくされた。
▽83 日秀上人。16世紀初頭に補陀落渡海をこころみ、沖縄に漂着した。1575年に鹿児島県霧島市の旧三光院に入定した。ふたつの捨身行を実践した。
…入定しつづけること2年弱で絶息した。
▽104 日秀 船底の穴を塞いで沈没から救ったと伝えるアワビ。霧島市立隼人歴史民俗資料館に保管。
▽137 海上にあらわれる怪火。竜灯伝説。有明海の知る縫い伝承は、実は補陀落信仰の証でもあった。
▽148 出雲の阿国。出雲大社の巫女だったという説も。杵築大社は神社信仰と同時に、仏教の僧侶も芸能者も出す文化環境にあった。補陀落渡海も。
▽154 キリスト教宣教師らの記述。「生きたまま海中に身を投じて溺死する者もいるし、生きたまま地中に埋葬される者もいる」。補陀落渡海と土中入定。
▽181 有馬晴信。改宗政策の一環として1580年、領内の寺社を破壊する高度に出た。…有馬・島原地方は明治初期を待たずして、すでに16世紀半ばに「神仏分離」「廃仏毀釈」を受けた地域であった。(文化大革命。神社合祀。廃仏毀釈)
祐海上人の補陀落渡海碑は、キリシタンが有馬領内に定着したあとの1565年の銘を持つ。
▽222 補陀落渡海は、平安時代の9世紀半ばをこうしとし、戦国時代の16世紀に隆盛を迎えた。観音の縁日・功徳日である18日を意識して行われた。平安時代に浄土信仰がたかまるにつれて大流行した焼身往生が、15日、すなわち阿弥陀の縁日におこなわれたことと対比を見せながら実践された。
…高海上人には22人が同行したように、集団による補陀落渡海も多かった。(集団自殺。南米のギアナ?の事件)
▽227 平成4年、熊野三山協議会の主催で、三隻の補陀落渡海船を那智湾に放流した。50センチ前後のミニ渡海船。

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