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古代日本の航海術<茂在寅男>

■古代日本の航海術<茂在寅男>小学館ライブラリー20161016
筆者は記紀の記述に、ポリネシア語などからの語彙があると考える。たとえばアマノイワフネのAMAというのはカヌーのアウトリガーだという。古事記である種の速い船を「枯野」と呼び、日本書紀では「軽野」と書く。カヌーまたはカノーから来ていると推測する。そして、カルノの造船地が狩野川などであり、「カノー」の造船所があった所は「カノーの里」であり、用材の切り出しがされたのが「カノー山」と名づけられたのではないか−−と考える。
伊勢は「百船の度会(わたらい)の国」といわれ航海上の重要な基地だったが、ワタライの国、というのも、ポリネシア語で音を解釈すると「カヌーの乗組員を歓迎する国」となる。カヌーという言葉は、コロンブス以後にカリブ海から西洋に伝わったとされるが、それよりずっと昔から太平洋のぐるりに共通する言葉だった可能性があるらしい。ちなみにアウトリガーつきのカヌーの分布は、マダガスカルから、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア・インドネシア、北限は八丈島に達していた。
航海術の側面からも、チェチェメニー号はミクロネシアから沖縄へ3000キロを帆と櫂だけで航海し、ヤム号はフィリピンから竹筏で鹿児島に入港した。黒潮などの海流や風向きなどの科学的データを検証して、南太平洋とのつながりがあってもおかしくないと主張する。
島々の高さから視達距離を計算すると、目標を視認しながら想像以上に遠くまで航海できる。山の上に火をたいて狼煙を立てれば、さらに遠くから視認できた。またさらに遠い場合は、鳥を使った。はるか高空を飛ぶ鳥ならばずっと遠くの陸地まで見渡せるからだ。
邪馬台国の場所についても、航海術の視点から検討する。魏志倭人伝の記述から、当時の魏で用いられた「一里」の長さは93メートルとした。船で1日で達する距離、荒れ地を徒歩で1日に達する距離などを計算して倭人伝の記述にあてはめていくと、邪馬台国は九州にあることになるという。
考古学とはまったくちがった航海術の視点から、邪馬台国の位置まで推定してしまう。どの程度まで学会で認められているのかはわからないが、とても刺激的だ。
「徐福」が脚光を浴び、中国で徐福が実在したことを証明するきっかけをつくったのも、筆者の論文だったらしい。
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▽ 徐福。三輪崎では、捕鯨のつど、その肉を徐福の墓に供える習慣がある。
▽衛挺生博士 徐福は神武天皇という説
▽地球上で運動するすべてのものは、北半球では右に、南半球では左にそのほうこうを曲げられる。
▽120 推進力の弱かった古代船は、最短距離で日本に達するのが困難で、自然に流されて出雲地方付近に送り込まれるか、時によっては能登半島付近まで流されて列島に到達するという場合さえあった。
▽178 「おもかじ」は船首を右へ回すように舵を取ること。「とりかじ」は左へ回るように取る舵。これはその昔、船主の方向へ方位盤の「子」を持っていった場合を想定して、「卯」の方向へ取る舵を「卯面(うも)舵」といい、「酉」の方向へ取る舵を「酉舵」といったのが語源だといわれている。
▽181 月の真下が満潮になるはずと考えられるが、海水が移動するのに時間がかかり、この遅れの時間が日本の太平洋岸の大部分の場所で約6時間。…そこで太平洋岸の人は、「月の真上時は港に潮なし」「月の出入りに潮が満つ」といった。
▽190 渡来人。衣服を折る部民を機織部といい、これを詰めたのが服部となり…呉のの人たちの着る服が輸入され「呉服」の語源になった。
▽211 狼煙 白村江の戦い以後、壱岐・対馬・筑紫に防人や烽を置いた。オオカミの糞を乾燥して火に投ずると白煙がたつという話から「狼煙」と書くようになった。
▽224 美保関の美保神社の諸手船の船祭り。速玉大社の「熊野諸手船」の祭事。
「熊野」が二カ所あり…伝承によれば、すうじん天皇の時代に多数の出雲族が紀伊半島へ移住してきたことになっているが、彼らが郷里で崇敬していた熊野神社を勧請して和歌山県熊野の地へ迎え、この地へ同名の神社を建立したのだという。
…熊野の地は、南方から黒潮に乗ってくれば上陸しやすいところ。同様に、出雲の美保関も、対馬海流が流れてきて、美保関の陰に船はつきやすい地形。したがって、どちらが元であるという議論は別にしても、両方とも南方とのつながりは深い土地。「もろてぶね」もポリネシア系の言葉ではないか…「内海用あるいは湖用の船」

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