MENU

災害と地名 <海の熊野地名研究会設立10周年記念>

■災害と地名 <海の熊野地名研究会設立10周年記念> 2015/08/24
被害の状況や小字と地名との関係を、特に災害と地名の関係を解き明かし、地名の持つ重要性と、市町村合併や住居表示によって簡単に地名を変えてしまう愚かしさを訴えている。
地名は、自然地名・歴史地名・交通地名・宗教地名・合成地名といった形で分類できるが、自然地名が7割を占めるという。谷川健一から示唆を受け、明治22年の大水害(十津川水害)と2011年の水害被災地など30数カ所で調査した記録だ。
たとえば音無川は「オト成す川」の意味だ。
本宮の萩では熊野川の氾濫に備えて、国道沿いの家はほとんど「上がり屋」を所有していた。夏の出水期は畳を「上がり屋」にあげ、本宅ではゴザの上で起居していた。だが、昭和28年の水害後に二階建てが建てられ、「上がり屋」の機能が2階にとってかわられたという。
「宮井」は、熊野川と北山川が合流するところで「水合」だった。「日足」は浸る事を意味した。
那智勝浦の2011年の被災地は、多くの災害地名と思われるものが、いくつかのグループを形成していた。

名前を大事にすることで、災害を身近に感じ、被害を最小限におさえ、川と共存してきたのではないか。逆に、巨大な土木工事で災害を遠ざけ、地名を忘れることで、失われてしまう伝統の知恵があるのではないか。
そう考えさせられた。
=================
・ 昨年(25年)12月から30数カ所で調査。
・被害の状況や小字と地名との関係を、特に災害と地名の関係についてできうる限り証明し、地名の持つ意味/重要性を明らかにし、次世代への贈り物としたい。
・カナに直して解釈することが重要。
・市町村合併や住居表示などによっていとも簡単に地名を変えてしまう愚行。
・自然地名・歴史地名・交通地名・宗教地名・合成地名などいくつかに分類できる。なかでも、自然地名、つまり地形や地質、気候、景観などによってその特徴をあらわすものが70%あるといわれている。
・谷川健一先生は30年前、「これでは人々の歴史が改ざんもしくは消滅してしまう」ことを恐れ、日本地名研究所を立ち上げた。
・台風が熊野灘沖を通るのか、あるいは、紀伊半島の山中もしくは紀伊水道あたりを通るのかは大変気になる。経験的に熊野灘沖を台風が通過すれば風雨の影響をあまり受けないことを知っているからだ。
明治22年の明治大水害(十津川水害)と共通点。コース、移動速度ともまったく同じパターン。
上北山村では、9月4日朝までの72時間降水量が1652ミリと、国内最高記録(2005)とされていた宮崎県美郷町神門で記録した1322ミリを大幅に超えた。
・熊野地域は、火成岩体と付加体、堆積体という3タイプの地質体からできている。
火成岩 岩体の冷却とともに体積収縮でできた柱状節理が発達する。鉛直方向の柱状節理に沿って、地下深部まで風化が進む。
付加体
堆積体 熊野丹田として、石炭採掘された熊野層群。
・明治22年。十津川地域で大規模斜面崩壊が多発して土砂ダムが多数でき、決壊による大洪水で甚大な被害が出た。
・本宮館は床上1.5メートル浸水し、壊滅的打撃。復旧に1年3カ月。防災対策として1.5メートルかさ上げした。その高さは熊野川堤防よりもまだ低い。 郵便局が2.5メートル浸水。
音無川。「オト成す川」の意味。
明治22年水害では、10.5メートルも水位が上がった。昭和28年水害でも9.7メートルまで上昇。
・17 本宮町では「上がり屋」は萩にあったが…。本宮でも、昭和28年水害前の民家は、平屋建てが多く、国道168号沿いの家々のほとんどは「上がり屋」を所有していた。夏の出水期は、畳を「上がり屋」にあげ、本宅ではゴザの上で起居していたという。〓
昭和28年の水害後、二階建ての家が多く建てられ、「上がり屋」の機能が2階にとってかわられた。今はほとんど残っていない。(桑原)
・20 九重 西敷屋 明治22年と同じかそれを上まわる水位を記録。
宮井は、熊野川と北山川が合流するところ。「水合」とも書いた。12号では通常水位より20メートル以上の水が住宅をのみこんだ。日足 (田中)
・紀和町小船地区。よく水につかるから、昔から「上がり屋」を高台に持っている。
・浅里地区 明治22年の大水害以降、平地にあった家を山側に石垣を築き移したという。
全壊14棟、大規模半壊12棟、半壊2棟。世帯数54で53.7%が被害を受けた。
・60 市野々・井関・川関・天満区には、災害地名と思われるものが数多くあり、それらが個々に点在しているのではなく、いくつかのグループを形成している。
・明治22年の大水害では、「安居」で97戸中78戸…など、文字どおり壊滅的な流失被害を受け…(安居は災害がないのでは?)
・97 日置川 昭和32年に殿山ダム建設。
・滝尻と富田川 鮎川温泉より下流では、昭和30年代には、天井川を形成していたが、高度成長で砂利採取が活発に行われたため、河床が下がった。
滝尻の下流「大滝」で表層崩壊。富田川にダム湖を形成した。
・石神地区 梅林になったのは、明治22年の水害以降。棚田の発達した山村であったが、水害で、大蛇峯の山腹斜面が真っ二つに割れて大崩壊を起こし、棚田も壊滅した。復旧をあきらめ、新たな生きる糧として行き着いたのが梅林づくりであった。(江戸時代じゃない?〓)
・龍神村 丹生ノ川地区。リーダー(上谷政雄)の機転で助かる。先祖から「石垣から茶色の水が出始めたら危ない」と聞かされており…。
・しょっちゅう洪水や浸水に見舞われる、日足の低い土地に住む人たちは避難も早かった。
…色川のように、都会から移住してきた若い人たちががんばったところも。
東日本 東北の大津波が届かなかったところに神社が並んでいる。しかし、紀伊半島では、山間や河口の古社が大きな被害を受けた。…神社は川辺にあることが多いからだ。水は祭祀やみそぎに欠かせない。
…祖先が末裔を見守る墓地と寺が高台にあり、清浄を旨とする神社が川べりにある。
・九重地区 戸数30戸。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次