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ぼくの住まい論<内田樹>

■ぼくの住まい論<内田樹>新潮文庫 20150404
「宴会のできる武家屋敷」として著者が神戸に建てた、住居兼道場。パブリックとプライベートのスペースを融合させた。どんな工夫があるのだろう、と興味をもった。
結論からいうと、どんな人をも家に受け入れてきた筆者の生き方があるからできた建物だということ。ほかの人がまねをしても快適な家にはならない気がする。
知り合いの知り合い程度の人たちがだれもが集まれる場、コミュニティを提供できる場を家のなかにもつというのは豊かな生き方だ。昔の商家や造り酒屋はそうやって、芸能などを楽しむ公民館的な場を提供してきたのだろう。
せめて縁側ぐらい、みんながお茶を飲める空間をつくれたら楽しかろう。でも日本海側のような寒いところではどうやったら「縁側」的なスペースをつくれるのかな。昔の家はパブリックの部分を重視しすぎて、生活スペースを北側の隅っこに押し込める傾向があった。「公」が「私」を圧倒していた。逆に3LDKといった団地・マンションスタイルは「公」のスペースがほぼ皆無になっている。客間がある一軒家はその中間だろうか。周囲とゆるやかにつながる生き方を求めるには、従来の家とは異なるスペース配分が必要になるのだろう。
「凱風館」を建てるため、材木を切る林業家や工務店、瓦職人、左官…と交流し、家を建てる過程じたいを楽しんでいる。人間関係をつむいできたその果実として生まれた家という印象だ。カネで売買される商品としての家、ではない。
大学でも今回建てた道場でも、「帰ってくる場所」を提供することを考えているという。僕にとっては精神的には学生時代の体験が「帰ってくる場所」だったけど、そういう場は、いつもだれかが水や肥料をやっていないと枯れてしまう。そして「帰ってくる場所」が枯れてしまったときに、自死する人も出てくる。今まで自分がだれかに対して、帰ってくる場を提供する努力をしてきたかなあと思う。何かを人に与えることの大切さ。それを家という場で実践していることがうらやましい。
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▽ 1975年に30万人いた左官人口は2010年には8万7400人まで落ちこんでいる。左官仕事は、かつては建築費の1割を占めていた。これが敬遠されて、今では住宅のほとんどがビニールクロス貼りなどの壁紙となり、漆喰や土壁は高級な和風邸宅に限られている。…高温多湿の日本の風土にあった左官壁は、長い目で見るとけっして高価な贅沢ではなく、次世代に残すべき大切な技芸。
▽ 1973年に21億枚あった瓦の生産量は、2008年には5.8億枚まで減っている。阪神の震災後に「瓦屋根は地震に弱い」という誤った風評被害もあって苦戦を強いられてきた。
▽106 学校も本質的には「アジール(逃れの町)」であり「温室」でなければならない。
学校の中だけは、子どもたちは手厚く保護されなければならない。…「世俗の信賞必罰ルール」が一時停止される場所が人間社会にはどうしたって必要。
…ふだんの社会的生活では、外形的、数値的なことで査定され、そのことが人々の心身の自由を損なっている。そのこわばりが限界近くに達した人たちが「逃げる」ように道場にやって来ます。
「帰ってくる場所」を持っている人間は、冒険の旅を事故なく終えることができる。旅と冒険で成熟を果たした人々が、自分の成熟を確認できるのは、母港においてです。
母港を持たない船は、自分がどこからどこへ向かっているのか、わからなくなってしまう。自分を「成長の文脈」という海図の中に位置づけることができなくなってしまう。
(ボ/ツル)
▽184 貨幣の本性を活かすには、手元に来たら間髪を入れずにただちに次のプレーヤーにパスしなければなりません。貨幣はそのような「金離れのよいパッサー」のところに吸い寄せられていく。
クラ貿易。それじたいに価値はない。ただパスしていくだけ。だが、クラを円滑に実行するには、信頼関係を取り結ぶ交易相手を確保し、造船技術、操船技術、海洋や気象に関する知識も、儀礼の作法や政治的かけひきも必要になる。装飾品の交換そのものは何の富も生みださないが、「外部の富」は、参加者たちの人間的成熟というかたちで世界に滲入してくる。これが経済活動の起源的な形態だと思う。
(借金をして次々に挑戦する企業家。そこには次々に融資の話が舞い込む〓。ただし「使い方」が大事。たんにモノを買えばよいというわけではない。だれかのためになる投資をする。そういう、だれかのための金の使い方を知っているところにカネが集まるということなのかもしれない)

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