■「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ <平川克美> ミシマ社 20141004
昭和の大田区の町工場では、休みという概念それ自体がなかった」。働きづめだから消費者になりようがない。戦中派の人は生産者でしかなかった。
筆者の世代にはまだ、「お金を使うことは悪しきこと」ということがどこかに刷りこまれている。「貧乏は美徳、金持ちはいかがわしい」という価値観だった。だから「太った豚より痩せたソクラテスになれ」という言葉が説得力をもった。
商店街をぶらつくのは、消費行為というよりも、顔見知りの店主と立ち話をするついでに何かを買うということだった。ショッピングモールは何でもあるけれど、本当に必要なものがない。
だがいつしか、貧乏が軽蔑されるようになる。
生産中心の生活から消費中心へ、1973年から90年代前半にかけての「相対安定期」にその転換が起きた。80年代半ばに週休二日制が導入されると、労働が消費のための手段と考えられるようになる。日曜日は、労働のための準備日だったのが、土日のために働くというように180度発想が転換した。
生産中心の社会では、こつこつ働き、こつこつ稼ぐのが美徳だった。重要なのはカネではなく労働だった。それが、消費の多寡が人間の価値を分けるようになると、金が非常に重要になる。
共同体とのつながりを失うと、顔と名前も失ってしまう。のっぺらぼうが集まる消費社会にあっては、他人との際を強調する唯一の指標が所持金の多寡だけになる。
シリコンバレーは、消費化し尽くされ、幸不幸の差がカネの多寡だけで決定されるような社会だ。地域住民が肩寄せ合って暮らす、日本的なコミュニティは、シリコンバレーにはない。商店街のようなものはなく、町に人間の香りを感じられない。
自分の生まれ育った土地や国に、せめて片足ぐらい置いておいたほうがいい。片足を動かない点に置き、もう片方の足で人生の幅を広げる。確かな土台をもつことが、人生に安らぎをもたらす。土台を失うから不安を抱え、打ち消そうとして物欲に走る。「いま、ここ」にいる自分を引き受けて、責任を感じて生きていくのが大事。そういう意識の集積の上にしか地縁共同体は生まれない。
元気な商店街には、銭湯、団子屋、お茶屋があり、じいさんばあさんがつどっている。活気のない商店街は年寄りにやさしくない場所になっている。元気のよい商店街にはコンビニが少ない。岡山県の西大寺の商店街もそう。岡山県は総じてコンビニが少ない。さらに結婚年齢が低く、出生率も高い。少子化というのは、消費化と呼ばれる時代の流れの中でおきているのだ。
生きていくための戦略として「脱・消費者」を考えたい。
プライバシーのない世界を毛嫌いして、商店街的なコミュニティを否定し、匿名でいられることを自分から望んできた。町という社会的共通資本が失われる一方で、快適な閉鎖空間を手に入れようとしている現状がある。
荏原中延という商店街のはずれに喫茶店「隣町珈琲」を開業した。オフィスもその近くに引っ越した。午後3時半には近所の銭湯に行き、それからまた仕事して、家にもどる。こんな生活に移行して以来、銭湯代とコーヒー代以外にはほとんど出費がない。消費への欲望は、落ち着いたリズミカルな生活のなかでは昂進しない。(コミュニティのなかの暮らし)現代人の過剰な消費とは、過剰なストレスからくる空虚感を埋め合わせる代償行為ともいえる。
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日本経済をつぶす戦略をグローバリズムの名のもとでアメリカは実行した。日本人はそれに気づかなかった。最初のターゲットは銀行、最終的には、日本人の生活そのものを変えて消費に向かわせることを狙っていた。
まずBIS規制。それから「国際化」の名の下の「構造改革」(大店法の規制緩和など)。さらに日本企業の終身雇用、年功序列、忠誠心といった企業文化を壊そうとした。そして成果主義なるものが登場する。歴史的に日本社会は要領の良い人間を好まない。口べたな高倉健に理想的な人間像を見ている。日本は自分たちに合わないものを無理矢理導入してしまった。
さらに「会社は株主のもの」という株主主権なる考え方を突きつけられる。
日本がもっていた社会の強みが希釈され、慣れない手つきで英米のシステムをまねるようになった。強みを失った日本人は、仕掛けられていることすら気づかなかった経済戦争に敗北する。その端緒は88年から93年のあいだに開かれていた。
ウオールマートが地域に入ると個人商店が姿を消し、さらに、当初はウオールマートに商品を納めていた地域の業者がつぶれていく。新たな貧困が生まれる。
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・人間は二つの正反対のことを望む。自由で匿名であることを望み、一方で、他の誰でも内自分を認めてもらいたいと願う。(カフェのない田舎)
・荒物屋 ブリコラージュ的な世の中で、何かしらの使い道があるもの、ありそうなものは、荒物屋で売られていた。
・わたしの「暗黒の十年」。5億円を使い果たし会社をたたんだ。なまじカネがあるから「ベンチャー・キャピタリスト」とか「インキュベーター」とか「コンサルタント」と呼ばれる横文字計の人たちが出没する。MBAをとった人たちも集まってくる。…「アントレプレナー」がもてはやされる時代への違和感。…名だたる「成功者」たちでつくる「投資委員会」が20社に投資を決めたが、そのすべてが数年で消えてなくなった。投資会社などというのは、本質は博打と変わらない。
・橋本治の「巡礼」「橋」「リヤ家の人々」
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