■古代から来た未来人 折口信夫 <中沢新一> ちくまプリマー新書 20140904
折口は神道などを論じた、超保守的、あるいは反動的な文学者というイメージだった。だが、そうではないという。折口は「古代人」の心を知ろうとした。古代の心を知ることは未来につながるものだと考えていた。
奈良朝からはじまった近代人は「別化性能」を異常に発達させたが、古代人はその逆の「類化性能」、アナロジーや比喩の能力が発達していた。アナロジーの思考法を駆使して、森羅万象を「象徴の森」で覆い尽くそうとした。古代人の歌は、ちがうもの同士を、類似性でつなぐ。異質なものをひとつにつないだところに出現する驚きやおもしろさが本質だった。
古代人は「神」ではなく、「タマ」を信仰した。「神々」は体系のなかに組織されて国家に役立つ存在になるが、「タマ」は体系につかまらない。太陽の霊力をあらわしていた「タマ」が、アマテラスという女神になっていくと、自然との濃密な結びつきは希薄になって、政治権力と結びついてしまう。
流動する液体のような「精霊」には、合理的な思考を生む「別化性能」はうまく働かない。精霊をとられるには、芸術をも生みだしてきた「類化性能」が必要だ。
死への対応も正反対だ。縄文人は村の真ん中の広場に死者を埋葬し、その上で踊った。れが盆踊りの原型になった。しかし弥生時代(近代人)になると死者と生者の分離がはじまり、村から離れた山裾に墓地がもうけられるようになった。
▽ 異世界が「まれびと」をとおして、この世界に現出してくる。そこに芸能や文学が生まれたというのが、折口の考えだ。まれびとの概念には、民族の原郷としての南方海洋と、人々の生きる世界の外部という2つの意味がまざっている。
日本人のいだく神の観念には、原型的なものがあったという点では、柳田国男と折口信夫の見解は一致していたが、原型の姿については意見は正反対だった。柳田は、共同体の同質性や一体感を支えるものこそが神だと考えた。先祖の霊こそがふさわしい存在だった。折口は、神観念のおおもとにあるのは、共同体の「外」からやってきて、強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であると考えた。共同体に異質な体験を持ち込む精霊をさがそうとした。そこから「まれびと」の思想が生まれた。
折口の考えでは、文学も宗教も、みんなが同質のことを体験しているような共同体の「内」からはけっして生まれない。「外」からやってくる異質な体験にふれたとき、はじめて文学や芸能や宗教が発生してくるという。
(遍路道。他者・まれびとが発展を促した。それが神に近いものと考えられた。同質性の共同体は存続的ないのではないか〓。文化人類学の他者論でも、折口に近いような気がする。)
異質な世界への通路を開く「まれびと」から、文学も神の観念も発生したと折口は考えた。おそらく柳田は、文学や宗教を共同体をまとめている力を表現するものととらえていたのだろう。
人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを「古代人」は知っていた。「あの世」「他界」も世界を構成する重要な半分であることを信じて疑わなかった。(他者論。でも近世の人間もそうでは?)
どこか遠いところからやってきて出現する、神とも精霊ともつかない不思議な存在を日本のいたるところの祭りに見いだすことができる。(遍路もその名残? お接待もまれびとの思想と関係あるのではないか〓)
「まれびと」としての精霊を迎える様式が古代人の宗教の源。精霊は水平的に遠くの空間から来訪する(のちの神のような超越者ではない)。そういう古代人の心を理解できなくなると、古い来歴をもつ思考に忠実に生きようとした人びとは芸能者に変貌せざるをえなくなる。下級神人として神社に所属していた古代型の宗教者たちは庇護者を失って、放浪の芸能者となったが、その芸の奥には、「古代人の心」が、伝えられていた。
折口が、国文学・民俗学・詩人・歌人・小説家・シナリオライターといった多面性をもつのは、自分の思想が、学問というかたちのみで表現できると考えていなかったからだ。「古代人の心」は五感を総動員する多層メディア的で、しかもアナロジー思考に貫かれているため、いかなる近代的な思想表現様式でも、その全体性をあらわすことができないからである。
▽
「神道の復活」の主張も、懐古趣味ではなかった。むしろ、国家神道になることで宗教性を失ったことをなげき、根源の宗教としての神道のありかたを模索していた。古い形をもった神道が「国民」を教化する道徳原理として合理的な形にすりかえられることで、神道はその内的な生命を萎縮させてしまったと考えた。「我々は様々祈願をしたけど、我々の動機には、利己的なことが多かった。さうして神々の敗北といふことを考へなかった」。アメリカの若者たちを「聖地奪回」の戦いにかき立てるキリスト教が宗教的情熱の源泉としての力を失っていないらしいことに、折口は衝撃を受けた。「物質の戦争」ばかりではなく「精神の戦争」においても、神道はアメリカ人のキリスト教に敗れてしまったと、彼は考えた。
「お国のため」に神を利用した。そのことへの反省から「神道の宗教化」を考える。
あらゆる宗教の誕生以前にあり、あらゆる宗教の終焉の後の世界で生まれるであろう知性の形態を、「神道」の名で呼び、その実現のため、感覚と超感覚と知性を組織化していくための道を探ろうとした。
折口のような視点に立つとき、たとえば、どういう歌手のどういう歌が、人類の心をふるわせる「芸能の精神」に触れているもので、どういう歌はそこからはずれ、芸能を装っているだけの「アート」にすぎないのかを、正確に見分ける耳や目を育てていくことができるような気がする。
そういう耳や目が育てば、人類の心に意味を持つ芸能とはなにかがわからなくなってしまうような事態を、避けることができるだろう。(筆者はそう書くが〓どうやったら区別できるのかはわからない。)
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