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裁判官の品格 <池添徳明>

■裁判官の品格 <池添徳明>現代人文社 20131218
無罪判決を出すと左遷される。青法協(青年法律家協会)に入っていると弾圧される。……といった話はよく聞くが、1人ひとりの裁判官の「人となり」まで考えることはまずない。
この本は、それぞれの裁判官の修習生時代からの歩みについて同期の弁護士から取材し、主な判決を列挙することで人物像を浮き上がらせる。すると意外な人間像が見えてくる。
「名張毒ブドウ酒事件」の再審決定を取り消した門野氏は、ニュースで見た限りでは検察べったりのとんでもない人間という印象だったが、実は逆転無罪判決も出しており、捜査当局の言い分だけを鵜呑みにするタイプではない。
東電OL殺人事件で一審無罪の判決を書いた大渕氏は、その判決故に東京地裁から八王子支部に飛ばされたと噂された。だから良心的な人なのかと思ったら、「訴訟指揮が強権的で被告人に質問させない」といった悪評も多く、公判中は居眠りが目立った。なのになぜ無罪判決を書けたのか。「両陪席の裁判官ががんばった結果では」という推測もあるという。
「横浜事件」再審で、有罪か無罪を判断せず裁判を打ち切る「免訴」と判断した大島氏は、当時は「腰砕けの判断だ」と私は思った。だが実は、「無罪」と判決主文で書いたら、高裁や最高裁でひっくり返されるため「当事者のことを考えて免訴の判断をした」可能性が高いという。刑事補償請求をすれば実質無罪になる可能性まで示していた。
修習生時代に社会問題に熱心に取り組んだ倉澤氏は、青法協に入ったまま裁判官になるという、最高裁に嫌われる道をあえて選んだ。なのに痴漢事件の判決で、両手に携帯電話と吊革をもっていた被告を「被害者供述の信用性は否定されない」という理由で有罪とした。倉澤氏は、地方支部まわりで露骨に冷遇されていた。「数少ない優秀な若手裁判官だった。でも裁判所に20年以上いたら、だいたいおかしくなってしまう。任地と報酬と退官後の処遇。この3つの影響力は大きいです」と元裁判官は評した。
東京高裁の原田氏は逆転無罪をいくつも言い渡した。官僚くさくなくて、しっかり話を聞いてくれる。「負けても悪い印象が残らない」と評判がよかった。良心的な裁判官は飛ばされるという印象があるのに、最高裁からも評価されていた。「被害感情だけ突出してとらえると、被告人が、被害感情が強いためにこういう重い刑になったのだという不満や不平感をもつ。これが更生を大きく妨げることだって現実にはあると思います」という座談会での発言は、彼の人間を見る目の広さを示している。
必ずしも善人がよい判決を書くわけではない。「いい人」であるよりも、仕事に熱心で優秀な「職人」のほうが、よい判決を書くことが少なくない。
でも「良心」が不要かと言えば、そういうわけではない。
バランスがとれた裁判官の背景には、皆で議論をかわすリベラルな教育があった。
「僕が裁判長の合議体でも記録を何回も読み直して納得いくまで議論しましたよ。…最近の陪席裁判官はおとなしくて反骨精神がない人が増えているから残念ですね」と元裁判官は言う。
「リベラル」とは思想の左右ではない。反対意見の人とも議論できる柔軟性と、それによって培われた、「人間」を見る目が大切なのだ。
全共闘時代に反権力の闘士だった人がパワハラ管理職になる例は、どの職種でも数知れない。「民主的」といわれる病院の医師が藪医者であることも少なくない。
医者も記者も裁判官も、能力のない「善」は役立たない。「善=思想」の押しつけは迷惑でしかない。職人としての能力と、他者を受け止める想像力の豊かさが問われている。
「正義の味方」として裁判官を断罪すれば切れ味は増すが、筆者は ひとつの判決で裁判官の善悪を判断せず、評価できるところも、批判するべきところも併記する。ジャーナリズムの原則に愚直に従っている。だから「この裁判官は要は悪い奴なの?」といった判断を求める人にはこの本はわかりにくい。
「疑わしきは被告人の利益に」という原則に従う裁判官が減っているのは大変なことだ。でもジャーナリズムもまた、おもしろさを追求したり、権力側の取材に注力するあまり、賛否両者の立場を現場で確認する、という「あたりまえの原則」をおさえる記者が減っている。危機的なのは司法の世界だけではない。

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