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1Q84(1~6)<村上春樹>

■1Q84(1,2)<村上春樹>新潮文庫 20150520

 予備校講師をしながら小説家をめざす天吾と、マーシャルアーツのインストラクターをしながら、女性を虐待する男を殺す青豆という2人の主人公の話が交互につづられる。
 どこにでもある日常の1984年が、ある時から、警察官のピストルが高性能のものにかわり、米ソが月面基地をつくり、自衛隊が左翼テロリストの鎮圧に出動し……と少しずつ現実からずれていく。あるとき青豆が空をみると月が2つある……。「1984」からパラレルワールドである「1Q84」へ、日常が少しずつずれていく不気味な描写にひきずりこまれる。
 幼いころに父母と決別し、暗殺者となり、それをまぎらすために中年とのセックスをもとめる青豆。宗教団体「さきがけ」で虐待をうけた経験を小説にしるした女子高生ふかえり。子どもころは神童と呼ばれたが、夢中になれるものを失い、目立たないように、つつましやかに生きてきた天吾。登場人物はいずれもなんらかの欠落を抱えている。欠落をもった人同士が出会い、何かがおこり、なにか大事なものに気づいていくという筋書きだ。「なにか大事なもの」とは何か? ひとことでいえば愛ということになるのだろうが、それをいかに陳腐にならないように描くのだろう。
 天吾は、ぱっとしないけど人の思いを受け止めることができる人物として描かれる。
 そういう、人知れぬところでだれかのために地道に働く夜警のような人の存在の大切さを村上が書いていると、内田樹は説明していたが、ここまで読んだかぎりでは天吾がその役割を果たしているのだろう。

 入村の際に財産の寄付を求められる農場コミューンに新左翼のグループが入り、そこから別れて山梨に「さきがけ」というコミューンをつくる。武闘派グループが別れて「あけぼの」というコミューンを新設する。彼らは武装し、警察や自衛隊との戦闘でつぶされる。「さきがけ」はなぜかその後に宗教団体になり、閉鎖性を強めていく。
 ヤマギシやオウムなどをモデルにしている。そうした現代の闇をどう解き明かして行くのだろう。薄っぺらな解釈では安っぽくなるだけだ。村上がどこまで深みに迫れるのか、楽しみだ。
 そしてすべての問題の中心になっていると思われる「リトル・ピープル」。これはオーウェルのビッグブラザーと関係があるのだろう。ビッグブラザーはスターリニズム、あるいは見えない力で相互監視社会をつくりだすシステムをあらわしていたが、リトルピープルはいったいなにを象徴するのだろうか。

■1Q84(3,4)<村上春樹>新潮文庫 20150522
 「君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合、目には映らない。心の目で見るしかない」
 自分のつくった物語の世界に、現実が巻き込まれていく。日本で蝶がはばたいたら、ニューヨークで嵐がおこる、という複雑系の考え方を思わせる。そこでは、観察者もまたプレイヤーにならざるを得ない。最新の物理学は、「客観的な観察」やユークリッド幾何学さえ否定している。「愛がなければ……」というのは実は本当なのかもしれない。
 リトルピープルという悪は強大な力をもつが、彼らが力を使うほど、その力に対抗する力も高まる。それが娘のふかえり(絵里子)だ。そうやって世界が微妙な均衡を保つとするならば、リトルピープルが青豆に殺されるとき、娘の絵里子も生きていけないことになる。
 光が明るくなるほど影が濃くなるように人が自らの容量を超えて完全になろうとすると、影は地獄に降りて悪魔となる。大事なのは善であることではなく、善と悪とのバランスを維持することなのだ。「カラマーゾフの兄弟」の主題がそういう相対主義であったことを思い出した。
 「絵里子」という存在は、個人的に偶然ではないように思えた。つい最近亡くなった「えりこ」の存在感と何か通じてしまうのだ。そう思って私が行動すれば、それは偶然でなくなるのかもしれない--そんなことを考えてしまう。
 言葉では説明がつかないが、なぜか印象に残って忘れられない風景がある。中学時代、台風で氾濫し海のようになってしまった荒川の河川敷を目にしたとき激しく心を揺さぶられた。2歳ぐらいのとき障子の向こうの闇にうごめいていた泥棒の影。中1のとき、高知の旅館での夜に当時3歳下の女の子と目を合わせて異様にドキドキしたこと。
 何かを感じて印象に刻まれている。その「何か」に説明をつけるために生きているのではないか、と、この本を読みながらふと思ってしまった。
 これまた脈絡がないのだが、リトルピープルの透明な不気味さは、宮沢賢治のクラムボンの不気味さと透明感に似ていると感じた。

■1Q84(5,6)<村上春樹>新潮文庫 20150524
 友達になった婦人警官は、セックスを気分転換とした末に渋谷の円山町あたりのラブホテルで絞殺される。これは東電OL事件をベースに置いている。現実の事件や団体がベースにあるからおもしろい。
 天吾も青豆も牛河も、スポーツ選手として認められることが、自立するためのほとんど唯一の手段だった。登場人物のだれもが何らかの欠落をもち、「根っこ」がない。つながりがない。
 ベッドに横たわる意識のない父に天吾は語り続ける。絶対にわかってもらえない「無」や「穴」に語っている。「他者」にむかって、わけもなく語り祈ることで何かが微妙に変化する。それを体感する感覚を養うことが、根っこにつながる。それが宗教の役割なのだろう。
 深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する「猫の町」(つまり1Q84の世界)から抜け出すには、だれかと手と手を取り合わなければならなかった。論理が力をもたない世界で、厳しくつらい孤独をくぐって、お互いを見つけ出す。
 絶望的な孤独をくぐり抜けたうえで「少なくとも私たちはもう孤独ではない」と実感する。そうなるためには、自分ではどうしようもない「他者」、あるいは死者、あるいは神への気づきが不可欠だった。自分の存在が世界と密接にかかわっている、複雑系としての世界への気づき、とも言えるかもしれない。
 根っこのない現代だからこそ、この小説は共感されるのだろう。

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