■郊外の社会学<若林幹夫>ちくま新書 20130607
郊外は味気ない風景だ。私も味気ない郊外に育ち、違和感はないが魅力もそれほど感じてこなかった。
筆者は郊外を「あるべきものがもはやない場所」であると同時に、都市中心部では望めない自然環境があり「いまだない良きものが到来すべき場所」でもあると位置づける。そして、「すでにないこと」と「いまだないこと」の細部に目を向けることで、味気ないはずの郊外にさまざまな差異や個性を浮かび上がらせる。
三浦展は、地域固有の歴史、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、全国一律の均質な生活環境が拡大した郊外を「ファスト風土」と呼んだ。それに対して筆者は「底の浅さや薄っぺらさも不可避的に織り込まれながら、その土地とそこに住む人の生の連なりと積み重ねによって、そこに固有の歴史的な厚みのようなものもまた生み出されているはず」と言う。金属バット殺人事件などを例に出して「郊外の幸福」の欺瞞生をつく論に対しても「郊外をめぐる語りの紋切り型」と批判する。三浦は郊外を外から見ているのに対し、筆者は郊外に住む者の立場から見ているのだ。
郊外の人間関係の稀薄さはたしかに問題だが、秋田や高知などの田舎の自殺率が高いのをどう説明するのか−−この本を読んでいて、ふと思った。田舎独特の因習が原因なのか、急激なコミュニティ崩壊が原因なのか。田舎のなかでも自殺率に差があるとしたら、その差はなぜ出るのか。単純な郊外悪玉論だけで「現代の不幸」は説明できない。
都市近郊の農村地帯が郊外化する過程では、旧住民と新住民が混在する場が生じる。私の育った団地も田んぼに建てられたから、小学校では、団地の子と地域の子がまざっていた。自分の家とは雰囲気が異なる地域の子の家に遊びに行くのは楽しかった。
近代の日本では、都市住民の大半は「いなか」や「ふるさと」を持っていた。
70年代に開発されたニュータウンや団地には、神々のいない祭りや、お盆と関係のない盆踊りが広がった。共同体的な社会の記憶があったから、新しい町にふるさとをつくろうと動いた。
80年代半ば以降の第二次郊外化は、パルコに代表されるディズニーランド的な町並みを郊外住宅地へと広げた。そんな町では、クリスマス・イルミネーションという、人びとが共に集うということがない「新しい祭り」が広がった。
第二次郊外化の時代は、郊外はもはや「新しい何か」や夢見られたコミュニティではなく、ごく普通の日常の場所になった。
郊外や団地に暮らすサラリーマン世帯には土地に根づいた「家業」はないから、子どもは親の家を出ていく。自らの労働力を商品として売る労働者が、商品として購入して暮らす土地・建物からなる郊外は、どの沿線か、交通や近隣の環境は、デザインは……と、住居やライフスタイルまでカネで評価される。そんな社会では、人との結びつきよりも、住宅市場での「素敵な街」のイメージのほうが重要なものになる。
かつてそこにあったものも、そこで起こり生きられたことも「忘れゆく場所」であることが、郊外という場の限界であると同時に、その匿名性が人々をそこに引き寄せてきたという。
コミュニティとコミュニタスという視点からの解説もおもしろい。
社会はふつう、地位や階層などで秩序づけられた「構造」として存在しているが、日常の秩序の枠組みを乗り越える限界状態においては「構造」が無化され、平等な集まりとして経験される「コミュニタス」が現れる。町田の革新市政と住民グループによる「23万人の個展」のような祭りが盛り上がった70年代の郊外は、従来の地域秩序が解体されることで、人々の生が全体として活気づけられたという意味で「コミュニタス」の状況にあった。
終戦直後の解放感や、革命後のニカラグアの自由な感覚もそうだったのだろう。あるいは、過疎化によって「構造」が崩れてきた今の能登のある意味で自由な雰囲気も、コミュニタスと位置づけられるかもしれない。
そんな状態も、日常の分厚いふくらみとなって構造化されるにつれ、制度化されていく。あの解放感は、一時的であるがゆえに解放感なのだ。
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▽23 四角い箱が幾何学的に並ぶ団地の風景もモダニズム建築思想が生み出した。
それに対して1970年代半ば以降、モダニズム建築が排除した装飾、風土性、歴史性、遊技性、迷宮感覚を積極的に取り込んだ建築デザインが「ポストモダン」の名の下に提案された。
近郊農村だった多摩の丘陵を覆う、模型かテーマパークのような団地群。虚構のような街
都市空間のディズニーランド化…渋谷公園通りや原宿竹下通り、清里駅前のような空間が、80年代を代表するディズニーランド化した都市空間の代表。そんな風景が、生活のリアリズムがより支配的であったはずの郊外の住宅地にまで浸透していった。
▽33 三浦展 「ファスト風土」。「地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した」状態を指す造語。
▽36 (三浦への反論)底の浅さや薄っぺらさも、固有の条件として不可避的に織り込まれながら、その土地とそこに住む人の生の連なりと積み重ねによって、そこに固有の歴史的な厚みのようなものもまた生み出されているはずなのだ。
▽50 金属バット殺人事件などを参照して「郊外の幸福」の欺瞞生をつく語り口。郊外をめぐる語りの紋切り型。
〓(本当に郊外だから不幸な事件がおきるのか。田舎の自殺率が高いのはどう説明をつけられるのか。因習が原因なのか、それともコミュニティ崩壊が原因なのか。田舎のなかでもちがいがあるとしたら、その差はなぜ出るのか。久万と能登のちがいは)
▽66 郊外は「あるべきものがもはやない場所」として見出され、一方で、都市中心部では望めない緑や自然環境に満ち「いまだない良きものが到来すべき場所」として見出される。郊外という都市の周辺であり、都市と農村や地方の間である場所は、かつてあったものが「もはやないこと」と、新たに到来すべきものが「いまだないこと」の間の両義的な場所としてあらわれる。すでに失われていることと、いまだ存在しないこととの間の場所。
郊外が欠如態として語られることは、いま現在のなかに明確な位置と意味をもちえない場所であるということ。
「すでにないこと」と、「いまだないこと」の具体的なディテールを風景に見る。(つまらない風景におもしろさをみつけるには)
▽83 流山市立博物館には、江戸川団地の初期の住居。松戸市立博物館には常盤平団地の一戸まるごとが復元展示されている。この地区においてはすでに郊外住宅地化が「現在」に先立つ「戦後史」のなかに起源をもつものとして見出され、集合的記憶の中に位置づけられている。
▽88 常総ニュータウン 東京という都市の機能を補完する「郊外」ではなく、より自律した「都市」を目指していた。筑波研究学園都市も同様。TXが開業するまでは交通が不便だったのは「もともと東京の機能を分散する目的でつくられた都市であり、東京・筑波間に便利な交通手段をつくる発想はなかった」
独立・自律的であろうとした近郊や遠郊の街や地域が、TXを媒介として東京の求心力の圏内である郊外に組み込まれようとしている。
▽104 都市近郊の農村地帯が郊外化の過程で、異質的で非等質的な社会や場所という様相に。(加茂川周辺も。だからおもしろい。団地ができる前は完全な農村社会だったのだろう〓考えたこともなかったが、たしかに団地の子と地域の子の雰囲気はちがっていた)
▽115 高度成長期のころまでは「文化的」という言葉には、先進性や現代性、未来性といった含意があった。文化的な未来都市と、古くからの町に根を張る地域の生活のどちらも手に入れたいというちょっと欲張りな、だが、郊外の住民の多くが共感するだろう選択理由。
木造校舎を「ぼろ校舎」と呼んだ〓。新校舎への引っ越し。「テッキン校舎」は輝きの響きだった。モダニズムに浸っていた。
▽125 戦前期の都市部は借家が圧倒的だった。
▽128 西川祐子の分析 「「家」家族/「家庭」家族」という家族モデルの二重構造 「いろり端のある家/茶の間のある家」という住まいモデルの二重構造
▽129 近代の日本では、大都市に暮らす多くの人々のルーツは地方にあった。多くの人びとに「いなか」があり「ふるさと」があった。
……(都市郊外で育った)私にとっての「家」家族の家は「いろり端のある家」ではなく「仏壇のある家」あるいは「ホトケサマのいる家」であり、先祖代々の墓を守る家である。「家」家族と「家庭」家族の二重性は、郊外という場所のなかにも畳み込まれていたのである。
盆暮れの帰郷ラッシュは、「家」がそこに存在する「いなか」や「地元」が、現代においても日本人の多くにとって重要な意味をもつことを示している。
(〓ダーチャのような新たな二重生活 往復 が必要とされる?)
▽134 ニュータウンの納涼祭 新しい町に新しい地域の文化をつくろうという志向があることを示している。……色紙の花で飾った御輿をかつぐ子(ふるさとづくりの志向〓、絆づくり=団地祭り)
▽139 町田の革新市政と住民グループによる巨大な祭り「23万人の個展」 郊外化が何か新しい可能性を開きつつあるようにもみえた、祝祭的な時代の記憶(=サンディニスタのニカラグアの開放感〓)
▽144 コミュニティがコミュニタスだったころ。社会はふつう、地位や階層などで秩序づけられた「構造」として存在している。だが、儀礼のなかの境界状態、つまり日常の秩序の枠組みを乗り越える限界状態においてはそうした構造が無化され、平等なひとつの全体として象徴的に経験される「コミュニタス」が現出するという。70年代の郊外は、それまであった地域の秩序が解体され、そうした構造を人々がよりどころにできなくなることにより、むしろ人々の生が全体として活気づけられたという意味での「コミュニタス」のような状況にあったのだといえるだろう。(〓戦後直後の解放感、革命のニカラグア、あるいは今の能登)
郊外が日常の分厚いふくらみとなるにつれ、「郊外の神話」は地域という構造のなかで年々繰り返される「制度化された祝祭(コミュニタス)」になっていった。
▽156 新しい共同体をつくることが欲望された。多く人々にとって未知の社会であり、また多くの人々のなかに共同体的な地域や社会の記憶があったからこそ、そこでは来るべきコミュニティが神話としてのリアリティをもちえた。いま私たちはそんな郊外の神話時代の後の時代と社会を生きている。同時に、新しい郊外が今もまたあらわれつつある。
▽166 パルコは「モノを売る」のではなく「新しい文化を売る」というイメージを作っていった。パルコは周囲の都市空間を「おしゃれ」で「先進的」な場とすべく街路に名前をつけたり……「都市空間のディズニーランド化」。1980年代半ば以降の第二次郊外化は、そうしたおしゃれな町並みを郊外住宅地へと広げていった。
▽170 カタカナでわけがわからない住宅商品
▽175 渋谷パルコ的な「虚構」の演出が80年代以降から現代につらなる都市のまぎれもない現実を作っていったように、現代の郊外においてはそれがひとつの「現実」として生きられるものであるからだ。私たちの「日常」がそれを参照することで現実化し、方向づけられてゆくという意味で、現代の神話なのだ。
▽179 郊外住宅地のクリスマス・イルミネーションは「新しい祭り」。70年代に開発された団地やニュータウンに、神々のいない祭りや、お盆と関係のない盆踊りが広がっていったように、第二次郊外化は出窓や小人やガーデニングや庭でのバーベキューパーティーと一緒にクリスマス・イルミネーションという新しい祭りを普及させた。だが、この祭りには、人の共同や協同がない。家族をこえて人びとが共に集い、働き、時間と場所を分かち合うということがない。
・・・そこにあるのは共同や恊働ではなく、サルトルや見田宗介が「集列身体」と呼ぶような、ばらばらな人びとが孤独なまま共にあるというあり方に近い集合性なのだ。
60から70年代にかけての都市社会学者たちによる都市コミュニティの調査研究は、新しい地域社会の現実と可能性を探ることを目標としていた。
▽185 祝祭だった市民祭の定型化と普及は、郊外やニュータウンというコミュニタスが、第一次郊外化の時代の最盛期を過ぎて、ターナーのいう「構造」の局面、つまり日常的な秩序の局面に入ったことを示している。第二次郊外化の時代、郊外はもはや新しい何かではなく、すでに存在しているもの、かつては祝祭的な夢の空間であったけれど、いまやごく普通の日常があるに過ぎない場所になった。
・・・郊外は、かつて夢みられたコミュニティではなく、商品化された住宅や住宅地に生きる人々の暮らしを、さまざまな商品とそれに付与されたイメージを通じて意味づけ、形作っていく「意味創造」と「文化変容」の場所として「成熟」していった。……ガーデニングという言葉も、80年代後半から「園芸」や「造園」といった言葉に代わって使われるようになった。
▽187 「いろりのある家」と「茶の間のある家」の二重構造に代わって、現在では、「リビングのある家」と「ワンルーム」の二重構造があるという西川祐子の議論。子どもたちが個室をもつようになり、家のなかで個々の成員が閉じた領域をもつようになる。
▽191 郊外化は、特定の土地への帰属を欠き、特定の土地の建築様式や生活様式とも異なる、標準化され、工業化された住居と生活様式からなるものへと置き換えていった。団地も分譲住宅地も、そこに暮らす家族も特定の土地に根ざしたという意味でのローカルなものではない。確かにある場所に存在するけれども、どこにあってもいい、どこにでもある場所や存在なのだ。
▽195 土着性や地域性をもたないことが「郊外」 (大地性のなさ〓)
第一次の時代は、郊外住民の多くが地方の農村地帯の出身であり、旧住民もまた地域が近郊農村だった時代の出身であったことも「新しい場所と時代」を共有している感覚を人びとに与えたのだろう。
だが、団地や郊外のニュータウンも普通のものになって分厚いふくらみを形成してしまうと、団地や郊外であることは何のローカリティも固有性も意味しなくなる。
……第二次における家々の「演技するハコ」化は、見えなくなった団地や郊外と、やはり見えなくなった家族を共に可視化しようとする欲望とともにある。にもかかわらず、そのような演技をすればするほど、そこでのローカリティのなさが露呈してしまうというアイロニーがそこにはある。
▽198 人々が地元商店街からロードサイドへと流れるのは、経済的な合理性や選好だけによるのではない。「どこでもいい場所」への積極的な志向もある。宮台は、地域と結びついたコミュニティ形成を指向してきたことを批判して、そうした指向には「人々は一般にローカリティを求めるはず」という単純な想定があるが、それは「大きな勘違い」であり、実際には多くの人はコンビニやファミレスなどの「匂いのない場所」を背景に「名前を欠いた存在」になりたいのだ、と述べている。(〓カフェのない町の居心地の悪さ。ファミレスに行きたくなる気持ち。匿名性をもとめる人々。なるほど。県庁所在地と3万人の都市のちがい)
▽207 戦後の東京でこれまでつづいてきた郊外化が終焉。都心に流入した若い層がこれまでのように郊外に流出しなくなった。……全国的に少子化が進行すると、子どもたちの多くは親の家を継承することが可能になるので、東京などに上京しようという動機づけや社会的圧力が低くなる。
▽209 高度経済成長期に造成された住宅地や団地は、高齢化の波を凝縮された形で体験しようとしている。……郊外や団地に暮らすサラリーマン世帯には土地に根づいた「家業」はなく、サラリーマンである子どもたちは、核家族向けにつくられた親の家を出て、自分たちの住処をほかに求める。3世代が住めない環境。行政や建築家の責任であると同時に、郊外生活者たちがみずから望んできたことの結果でもある。
▽216 自らの労働力を商品として売ることで生きる雇用労働者とその家族が、商品として購入して暮らす土地や建物からなる郊外は、「ブランド」と親和性が高い。どの沿線か、交通や近隣の環境は、デザインは……と評価され値付けされる。どこのどんな家に住んでいるのかが、勤め人の所得や価値観やステイタスを表してしまう。
▽219 住居やライフスタイルまで商品として購入されるこの社会では、住み続けることによる結びつきよりも、住宅市場やマスメディアのなかでの「素敵な街」のイメージのほうが、ときに身近で重要なものになる。住み続けてゆくことのなかに、アイデンティティの問題としても、資産価値の維持という点においても、ブランド的なものへの希求がともなう場所。それが私たちの郊外なのだ。
……その共異体=共移体としての移ろいやすさゆえに、そのなかに積み重なる層を集合的記憶のなかに定着させることなしに忘れ去り、そこに住む人々や地域は互いに交わす視線ももたぬままに、収縮する未来を迎えようとしているかのようだ。
……かつてそこにあったものも、そこで起こり、生きられたことも「忘れゆく場所」であること。互い互いを見ない場所や人々の集まりや連なりであること。そこに郊外という場所と社会を限界づけるものがあると同時に、人々をそこに引き寄せ、固有の神話と現実を紡ぎださせてきた原動力もある。そんな忘却の歴史と希薄さの地理のなかにある神話と現実を生きることが、郊外を生きるということなのだ。
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