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花石物語<井上ひさし>

■花石物語<井上ひさし> 文春文庫 20130515
「世界の中の柳田国男」という評論集にこの本が出てきた。柳田は遠野物語できれいな話ばかりを集めていて、土のにおいのする下ネタは意識的に排除している。それを皮肉る内容が含まれている、と書いてあった。
この本では「鶏先生」が、柳田の歩いた遠野近辺で猥談を収集する役目をはたす。高校教師「マドロス先生」は女の陰毛を集めるのが趣味だ。どろどろした民衆のエネルギーを筆者がいかに大切にしているか、「吉里吉里人」でもこの本でもよくわかる。
鶏先生の集めた資料を、「専門家の先生」が横取りしようとするエピソードも、佐々木喜善のた話を利用して「遠野物語」にしたてた柳田への当てつけだろう。
この本の主題は柳田ではない。上智大学に進学し、東京で方言のコンプレクスに悩まされて母の住む釜石(作品では花石)にもどってきた筆者の体験をもとにしている。
主人公・小松青年の母は歓楽街の狭い部屋に住み、屋台の飲み屋をやりながら一人で自立して生きている。吃語症になってもどってきた主人公を非難するでもなく「のんびりおし」と、軽く受け止める。この母の存在が主人公の再起に向けての基盤になった。
貨物船に積み込む荷物を点検するバイトをしていたら、苦学生が荷物をくすねる現場にでくわし見逃してしまう。そしてクビになる。荷物を背負って山のムラを行商して歩くアルバイトも、トラブルをおこす。目の前で盗みを見つけて、犯人の情にほだされて、見逃したうえにクビになるなんて、まさに「寅さん」だ。
川本三郎の解説を読んで、なるほど、と思った。「正義」を貫くとはかっこのよいものではない、「正義」とは、そうしたぶざまな形でしか表現できないのだ、と井上はあきらめているのだという。
「不正義がはびこる現代社会で『正義』を貫こうと思ったら、ひとはだれよりも先にぶざまになることを一人でひきうける他ないだろう……小松青年の……傷だらけの青春の姿は、その意味で実に現代的であり、どこか物悲しい。本書は、久しく『正義』というものを語ることを忘れてしまった現代人に対する心やさしい批判の書ともとれる」と川本は書く。
屋台を営む母も娼婦のかおりも「個人」としてたくましく生きている。苦学生(偽東大生)は、自分の犯行を見逃してくれた小松青年にお礼として焼き鳥のたれの作り方を教える。それが感動的なのは、そこに「個人」どうし友情が表現されているからだという。
「東大」や「都会」という「個人」を超えたものにコンプレクスを抱いていた小松青年は、さまざまな出逢いを通じて「個人」として歩きはじめる。川本によると、戦後民主主義の一つの理想像がこうした「個人」なのだという。

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