■世界の中の柳田国男 <R・A・モース 赤坂憲雄編> 藤原書店
国内外の研究者が柳田国男を論じる論文集。
□ヨーロッパ体験
柳田は新渡戸によってヨーロッパに呼ばれた。信託統治領では、宣教師による教育ではなく、現地人教師による現地語での実学教育をするべきだと考え、委任統治領では、受任国政府の国家主義的宣伝ではなく、土地の人々自身の歴史や文明を教えるべきだと主張した。ユダヤ人差別の問題を知り、沖縄の人々に共感し、朝鮮の人々の活動を抑圧することを、人種的優位の意識から生まれたものだと批判した。ヨーロッパでの職務は、柳田の民族学に人道主義的色彩を加えた。
□民俗学という学問
柳田は民俗学という日本固有の学問をつくりだした。
柳田によると、エリートと大衆の区別は、文書を中心とする歴史学と民俗学の学問領域の違いだった。史料を発掘するために比較民族誌の方法を用いることを主張し、民衆の信じている説話や民間信仰を史料としないかぎり民衆の歴史は描けないと考えた。
民俗学は、ほかの輸入された学問とは違い、国家官僚制支配の外で、研究者みずからが研究領域を開拓した学問だ。だから今なお国立大学に正規の講座がない。
戦争協力した他の学問に比べ、積極的に協力することがなかったことで、柳田は日本独自の学問の創始者として祭り上げられた。1960〜70年代には中央に対する抵抗の象徴となった。だがそれが、急成長を遂げていた文化人類学に比べ、民俗学が停滞する原因にもなった。1970年代には衰退し、その研究分野は人類学・社会学・歴史学によって分割され、柳田の書き残したものを解釈するという作業だけが残された。
□柳田国男と妖怪
妖怪は、神の信仰が衰退し零落し聖性を奪われることで発生した。日常生活が近代的するにつれ、妖怪は信仰の対象から滑稽な笑い者に退化した。柳田にとっての遠野は、近代化する社会に残る前近代のシンボルだった。
妖怪へのあこがれは、妖怪が畏れられる神、少なくとも本当の化け物であった時代へのノスタルジックなあこがれだった。
ポピュラーカルチャーを通じて妖怪への関心が復活してきた。水木しげるは、柳田が民俗学で育んだ、科学と詩の間のあいまいさを表現している。水木は妖怪に命を吹き込みつつ、妖怪たちに迫る滅亡の運命を嘆いている。
外国人が日本の妖怪にあこがれるのは、近代化する日本において遠野が占めていたのと同じ地位を、グローバル化する世界で日本が占めるようになったからだという。
妖怪へのあこがれとは、近代化によって失われた「他者」のある社会へのあこがれといえるだろう。
□柳田国男と井上ひさし
井上が、「遠野物語」のもつステレオタイプに対していかに異議を唱えたかを考察する。
井上が1953年に遠野で出会った人々は、遠野物語の話を柳田に語った佐々木真善の貢献が認められたことが一度もないと嘆いた。
「遠野物語」を読んだとき井上は、下ねたを含めた土臭いユーモアをふくむ物語を採っていないことや、柳田の語調や文体が地元の言葉の自然なリズムをまったくとらえていないことに違和感を覚えた。その違和感を「花石物語」や「新釈遠野物語」で表現した。
□「遠野物語」の文体
35歳で「遠野物語」を記した。
明治後期の文芸の心理的写実主義は、登場人物の思考を細かくたどる傾向があったが、柳田のテクストは個人の精神の領域には踏み込まない。人々の意識に近づくため、内面独白のような技法に頼るのではなく、社会や共同体を覆う意識を表現する。
共有される自我という「遠野物語」の発想は、文学者たちが作りあげた、個としての自我に対置するものだ。柳田は自我と共同体が交差するありさまを探求し、そこから写実的な語りを作りあげた。
□郷土研究と柳田民俗学における桃太郎像
1930年代初頭に、柳田は「郷土研究」を「民俗学」へと改めた。「遠野物語」のような奇妙な話を収集することを、民俗研究には向かないと主張するようになる。
「桃太郎」は戦前には、岡山県と愛知県犬山、四国の鬼無と結びつけられていた。岡山は、1950年代に当時の知事が、桃太郎をシンボルとするキャンペーンを大成功させたのに直接は由来している。だがそのもとは、戦前の郷土研究に端を発していた。高松市の鬼無地域は、地元出身の橋本仙太郎が、故郷の村と桃太郎の結びつきを探求した。古くからある熊野神社が「熊野権現桃太郎神社」へと名前を改めている。(新たな伝説づくり)
□「海南小記」における沖縄の同化
2カ月間の南方の島々への旅行が、柳田に決定的な影響を与え、民俗学への展開を支えた。
柳田は「文字あるものは概して新しい」と言い「記録は有識階級のもの」とする。柳田が探し求めるのは、書かれたものよりはるかに古い過去の痕跡だった。
過去の慣習が消えつつある社会でも、子どもたちのすることが、過去を発見する鍵になるという。大人が信じなくなった祭りは、遊戯として残るからだ。(テレビ後はもはやそうではないだろう)。女性たちも、過去を日々の営みのなかに残している。(女は家の中で「生産」を担うから?)
また、周縁または孤立した地域は、中心部の人々に比べて、過去を維持する傾向が強いと見て、
「我々がとうの昔に忘れてしまったことを、八重山の人たちは今ちょうど忘れようとしているのだ」と記す。1930年代までは、文化は中央部で創造され絶えず放射状に広がってゆくとする周圏論が支配的だった。
日本が忘れてしまった記憶の保管庫として沖縄を位置づけ、沖縄こそが日本文化の本来の形だと位置づける。そうすることで、沖縄の人々に対する差別感覚や、沖縄の文化を「遅れた」ものとして否定する公的な文化政策に反対の立場を取った。
だが一方で、沖縄を日本にとっての真正さが保存されている場として利用することは、中国や朝鮮半島、ミクロネシアなどの文化的な影響の排除を必要とすることになった。
□「先祖の話」は知識人の信仰告白
「先祖の話」は、1945年の終戦間際に書かれた。柳田はこの仕事を緊急のものと感じていた。
柳田は、特に氏神について、神として祀られた先祖だが、先祖であったことは忘れられたものと推測している。
曽根という村を調査した論文の筆者はこれに異を唱える。曽根の人間関係は、日常生活と、森と海の資源の管理を軸に組織されており、親族の絆の果たす役割は限られている。そんな村では、多くの家の神から単一の氏神が誕生するとは考えにくいからだ。
そして、柳田の考えは、日本は一つの家系に連なるという発想だと批判。純粋で完全な原初の状態から退行して今の社会ができたという、キリスト教などと同じ「神学的な思考」と位置づける。
「先祖の話」は、保守的でナショナリスティクで信仰心のあつい知識人による、情緒的な信仰告白の書であり、混乱した時代に、理想化された古代社会や宗教の秩序を復活させようと図った著作だと切り捨てる。
□民俗研究の壁と可能性
柳田は初期の仕事では日本の文化的多様性を認めていたが、後には日本の主流の人々の「本質」、いわゆる「常民」に言及するようになる。ナショナリズムの唱道者らによって利用され、その後の多数の「日本人論」にヒントを与えてきた。
1970年代、地域特有の伝統が観光の資産と位置づけられ、自治体ごとに地方史が編纂され、市町村が博物館を設置して観光客誘致を図った。そのなかで民俗学も活用された。
民俗学は事実説明のデータは蓄積されたが、データを生かす理論は形成しなかった。日本の民俗学者らは、真の学術研究というより、単純な調査や文書化に注力していた。
民俗学の成果は日本でのみ発表され、それを国際的な文脈に据える努力は見られなかった。日本でしか通用しない学問となり、袋小路にはまりこんでしまった。
今ようやく、これまでの研究を、他の分野の理論的発展に照らして再検討することで、いくつかの問題が見えてきた。
たとえば、コミュニティのアイデンティティの境界の柔軟さへの対応だ。
国内に多様な文化が存在しており、その人々は国境を越えたつながりを持っている。たとえば、カナダのクリー族の狩猟者と東北地方のマタギとは共通の要素をもっているという。
さらに、民俗研究の強みである豊富なデータ提供能力は、グローバリゼーションがもたらすものに対抗する視点や生き方を提示する可能性も秘めているという〓(政治経済部と地方、TPPと民俗)
□時代ごとの柳田の位置づけ
民俗学発祥の記念碑と称される「遠野物語」は、民俗学のなかでは忘れ去られたテクストだった。それが、高度経済成長期の光と影のもとで柳田が再発見され、吉本の「共同幻想論」によって、「遠野物語」は「古事記」と並ぶ古典と位置づけられた。
60年代後半から70年代にかけて、柳田民俗学は、社会変革や天皇制批判のよりどころとなり、「土俗からの反乱」といったスローガンがもてはやされた。
1990年代、バブル経済が終わるなか、植民地主義への加担者としてやり玉にあげられ、柳田の神格化も終焉を迎えた。もはや多くの人が柳田の時代は終わった、と感じている。
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▽14 柳田の人気の一部は、その流れるような、文学的かつジャーナリスティックな文体が古い世代の日本人に人気があることに由来している。……柳田は著述において、典拠を示すことで学術的な体裁を整えるという、研究者が通常行う手続きを避けていたため、研究者によってまともに扱われなくなったということもある。また柳田は、常に読んでおもしろいが、その著述において独断的あるいはイデオロギー的な態度を避けている。
□ヨーロッパへの回廊
▽32 新渡戸は、優れた文明の前進は止めることができないと信じていた。彼にとってのフロンティアは台湾、そしてその先にあった。国の外へと向かう拡張主義的概念。彼の膨張主義思想には、植民地の人々の福祉を図るというリベラルな側面も含まれていた。
国連の事務局次長に。
……1930年代初頭にあっても、新渡戸は、満州事変における日本の目的の正当性をアメリカ合衆国の聴衆に納得させ、関東軍による満州国建設を認めさせることができると確信していた。
新渡戸と柳田は、エスペラントに強く期待。2人とも桃太郎に魅了された。新渡戸の桃太郎主義は、フロンティアが本国の国家的性格を涵養するという思想。……新渡戸の桃太郎主義は後に、より好戦的な追随者をひきつけることに。松岡洋右は、桃太郎主義を満州に応用し……
新渡戸も柳田もヒューマニスト。新渡戸が、柳田が国連の常設委任統治委員会委員に任命されるように取りはからった。47歳での受任。
▽38 柳田は、宣教師によって教育が行われることが、部族構成員と遊離した特権階級を生むと注意を促した。研修を受けた現地人教師による現地語での実学教育を対案として示した。また、委任統治領では、受任国政府の国家主義的宣伝活動は排さなければならないとした。
同化を受任国の目標にすべきではないと主張。「愛国歌や君主の名を現地の子供に教えこむこと」を批判し……土地の人々自身の歴史や文明を教えることを提唱した。
▽42 柳田はユダヤ人差別の問題を知り……その後、沖縄の人々への強い共感が生まれ、……日本が朝鮮の人々の自立的経済活動を抑圧していることを、人種的優位の意識から生まれたもので問題だと指摘した。ヨーロッパでの職務は、柳田の民族学に人道主義的色彩を加えた。
□境界の攻防
▽49 民俗学という日本固有の学問の創始者
橋川文三によると、 柳田は人類学にまとわりつく西洋中心的な視点を取り去ることで「人類の科学」という人類学者の夢を実現したのであり、その著作は個別性と普遍性の完璧な融合を表している。
政府の方針(1908年の神社合祀令)に抗議して職を辞した
農商務省の元官僚として、1960〜70年代の知識人にとって中央に対する抵抗の象徴だった。……柳田の著作は多くの左の知識人に援用されたが、柳田本人が生前に急進的とみなされることはなかった。……戦後の日本で、日本国民の独自性を前提とし自民族中心主義的に論じる「日本人論」が流行した際、柳田の著作はその拠りどころの多くを提供した。
▽51 柳田がつくりあげようとした民俗学という学問は、1970年代には衰退の様相を呈していた。民俗学が次第に「柳田学」と同義になっていく間に、その研究分野は、人類学、社会学、歴史学によって分割されてしまった。残されたのは、柳田の書き残したものを解釈するという作業だけだった。
▽52 関啓吾 民俗学がほかの「輸入された」学問とは違い、絶大な力を持つ国家官僚制支配の外で発達したことを主張。
民俗学は、研究者みずからが研究領域を開拓し、自らの力によって樹立した科学。こんにちなお国立大学に正規の講座をもたず、わずかに2、3の大学で講義がもたれているにすぎない。
民俗学研究者のほとんどが、大学で形式的な概論を聴講する軽々をもたない。……体系だった論著も研究も少ない。
▽67 あからさまに「戦争協力」したほかの学問に比べ、民俗学が周縁的な立場にあったことで、逆説的に、戦後、柳田は日本独自の学問の創始者として祭り上げられることになる。同時にそれは、急成長を遂げていた文化人類学に比べ、民俗学が絶望的に停滞する原因ともなった。
▽70 柳田の著作では、エリートと大衆の区別は、歴史学と民俗学の学問領域の違いであった。……柳田民俗学がめざすものとは、エスノロジーの方法を用いてナショナル・ヒストリーを書くということであった。そのため、周縁を代表したいという願望(エスノロジーにおける口承の重視)と、国家全体を代表し権威をもって語りたいという願望の間で、板ばさみとなった。
……史料を発掘するために比較民族誌の方法を用いることを主張し、この方法に拠らなければ社会的エリートの歴史の研究にしかならず、民衆の歴史はわからないと述べている。……民衆の信じていることそのもの(説話や民間信仰)を史実をみなさないかぎり、民衆の歴史を書くことはできないと述べる。
▽72 歴史研究のエリート主義や、人類学の「時期尚早」な世界主義を、一貫して批判しつづけた。それはある種の保守的ポピュリズム、あるいは「声なき多数の人々」に重きをおくナショナリズムと結びつきやすいものでもあった。
□21世紀から見る柳田国男と妖怪
▽86 妖怪は日本文化の真正かつ消滅に瀕した部分を象徴するという柳田の考え方が、いまや妖怪に対する現在の世界的見解の根幹となっているという点、それゆえ妖怪は、ポピュラーカルチャーにおいて想像上の原日本という「異界」をあらわすものになっているという点である。
▽88 急速に消えゆく妖怪という「他者」は、日本人の永続的な「自己」を定義するために欠かすことはできない。……柳田が、地方を消えゆきつつある「他者性」の宝庫とみなしたこと。
▽91 妖怪の採集と分布の把握、お化け(妖怪)と幽霊の区別、「妖怪の発生を神の信仰の衰退とみなす」という零落論。
▽99 かつて真剣な信仰の対象であったものが退化あるいは零落し、その聖性を奪われて妖怪になる。
▽100 人類が進化し、日常生活がどんどん近代的になってゆく以上、妖怪が真剣な信仰の対象から滑稽な笑い者に退化していく。……妖怪へのあこがれは、真正な過去へ立ち返りたいというノスタルジックな衝動であった。それは、妖怪が滑稽な昔話の登場人物ではなく、畏れられる神、少なくとも本当の化け物であった時代へのあこがれだった。
▽102 ポピュラーカルチャーを通じて妖怪への関心が復活した原因。水木しげる。
常にいたずら好きとしてふるまう水木は、柳田が民俗学のために育んだ、科学と詩の間のあいまいさを自然と受け入れているようだ。……妖怪に命を吹き込みつつ、水木は妖怪たちに差し迫る滅亡の運命を嘆く。
▽108 柳田にとって遠野が、近代化する世界に残存する前近代の風景の表象であったのと同じように、想像上の日本が、奇怪で不思議なものすべての象徴的な故郷となっている。・・・近代化する日本において遠野が占めていたのと同じ地位を、およそ百年の時を経て、グローバル化する世界で日本が占めるようになった。
(妖怪へのあこがれとは、「他者」のある国・地域へのあこがれ〓?)
□「遠野物語」の表と裏ー柳田国男と井上ひさし
▽118 井上が、「遠野物語」のもつステレオタイプや憶測のいくつかに対していかに異議を唱えたかを考察。
▽127 昭和時代の後期にあっても、東北の小学校の教師は、生徒に地元出身教師の方言を聞かせないため、音読する際にはあらかじめ録音したテープを使うように強く勧められていた。
▽130 井上 上智大学へ。強い訛りによる劣等感に苦しみノイローゼに。1953年に遠野を訪ねて出会った人々は、佐々木真善の貢献が認められたことは一度もないと嘆いた。
「佐々木喜善は「また先生にとられる」と言ったらしいですね。」
「遠野物語」を読んだとき井上が強く感じたのは、土臭いユーモアをふくむ物語を採っていないこと、柳田の語調や文体が語り手の用いる地元の言葉の自然なリズムをまったくとらえていないということだった。 「花石物語」「新釈遠野物語」
▽141 井上の目的は柳田の業績を貶めることではない。ほとんど忘れられてしまった遠野の英雄佐々木真善の貢献を讃えるとともに、いかなる文学的表象においても、その背後に必ずや埋もれてしまう地方文化の豊かな多様性が存在することを浮き彫りにすることなのである。
「単一民族神話の起源」小熊英二
□写実主義文学として「遠野物語」を読む
▽149 35歳で「遠野物語」
▽159 柳田が作品全体を一貫して用いる文語体は、ジャーナリズムや学術の分野で広く好まれた文体でもあった。……あくまで簡潔。
▽162 「佐々木夫人」とか「佐々木の母」とすれば、共同体の外に対して彼女の立場を説明することになる。それを、この話(遠野物語)では単に「母人」と呼ぶ。このようなくだけた呼び名が用いられることで、読者は一時的に共同体の中の一員として彼女尾と結びつき……
柳田は「である」が「圧倒的多数の口語体小説が最終的に選んだ繫辞」となっている時代環境で、意図的に文語の動詞語尾を用いている。西洋文学から取り入れた文体上の革新を示す繫辞「である」は……英語における”it is”の現在時制を模倣したもの。
▽167 明治後期の文芸に見られる心理的写実主義は、登場人物の思考を細かくたどることに集中する傾向があった。対照的に、柳田のテクストは個人の精神の領域には踏み込まない。個人の意識は私的領域に属するという考え方に、正面切って反対しているとすら言うことができる。柳田は人々の意識に近づくため、内面独白のような技法に頼るのではなく、社会において、あるいは共同体において構築される意識を提示する。……遠野の世界を覆う共同体と自己の融合をほぼ文字どおりに表現している。(近代的自我ではなく構造主義的?)
▽169 死の世界を想像する時ですら、松之丞はそれを彼が属した共同体が再現されるものとして思い描く。それは、彼が実際に暮らす近隣の土地に、親族の亡霊たちが住む世界である。
▽173 遠野物語は「1910年時点のいかなるジャンルの規則にも従っておらず」……
▽175 共有される自我という、柳田が『遠野物語』において押し出した発想は、仲間の文学者たちが作りあげた、個としての日本人の自我に、取って代わろうとするものである。……柳田は自我と共同体が交差するありさまを深く探求し、そこから写実的な語りを作りあげていった。そうすることで、より社会に関与する文学を創ろうとした。
□郷土研究と柳田民俗学における桃太郎像
▽192 1930年代初頭に、柳田は「郷土研究」の語を「民俗学」へと改めた。
▽205 「遠野物語」のような種類の話をこそ、柳田は1930年代になると、民俗研究には向かないとして絶えず警告するようになる。……柳田が奇妙で風変わりな話の収集に警告を発していたのは、少なくとも一部は自身のかつての著作である「遠野物語」と、そこに示されている方法に対する警告だったのではないだろうか。……「遠野物語」が1935年以降に人気を獲得したのは、むしろ、学問分野としての民俗学の領域で急速に閉ざされつつあった、研究者の自由な発想が、そこに示されていたから。(客観学問と化することで硬直化?)
▽208 「桃太郎」 戦前には、観光産業と郷土研究により、桃太郎は岡山県、愛知県犬山、四国の鬼無と結びつけられていた。岡山は、1950年代に当時の知事が、桃太郎を県のシンボルとして用いたキャンペーンを大成功させたのに、直接は由来している。だが元を辿れば……がそれ以前におこなっていた調査に端を発している。
高松市の鬼無地域は、地元出身の橋本仙太郎が、故郷の村と桃太郎の結びつきを探求した。(桃太郎の郷土研究的アプローチ 新たな伝説づくり?)
……鬼無では、古くからある熊野神社が「熊野権現桃太郎神社」へと名前を改めている。
▽211 柳田の研究は、日本の統一的なアイデンティティを見出し定義する一助になることを意図したものであったが、帝国主義や戦争と直接結びつけたわけではない。……1930年代以降の郷土研究者らの仕事こそ、その活動がローカルなものだったにもかかわらず、より直接的にナショナリスティックだった。
□上代日本の幻想 柳田国男「海南小記」における沖縄の同化
▽217 「南日本の大小遠近の島々に、普遍している生活の理法を尋ねてみようとした」この2カ月間の南方の島々への旅行は、柳田とその作品に「決定的な影響を与え」たと見られている。
「柳田の紀行文が、やがて民俗学へと展開していくときの主要素となっていることは明らか」(宮田登)。旅行は史料を収集し、地域文化を体験し、文化圏を規定する主要な方法として、民俗学にとって鍵となる方法論的重要性を担ってきた。
▽221 柳田は、書かれない現象のほうが、過去に対して情緒的かつ創造的な接近を可能にすると主張する。「文字あるものは概して新しい」と言い、「記録は要するに有識階級のものである」とする。柳田が探し求めるのは、書かれたものよりはるかに古い過去の痕跡であり、階級ではなく民族という、より広い枠組みに基づく視点に立つものである。
▽228 柳田は、過去の慣習が消えつつある社会でも、子どもたちのすることが、失われつつある過去を発見する鍵になると主張する。その根拠とされるのは「大人が信ぜぬようになれば、祭りの式はおいおい遊戯になってゆく」というおとである。(〓テレビ後はもはやそうではない?)
……女性たちも、過去を日々の営みのなかに残していると柳田は言う。ノロやユタを務めたり……「昔はまだ老女の間に、はっきり遺っている」。(女は家の中で「生産」を担う。だから昔を遺す、と言えるのでは?〓)
▽231 柳田によれば、周縁または孤立した地域に住む人々は、中心部の人々に比べて、過去を維持し反復する傾向が強いとされる。(〓能登(=文化も生態系も)や出雲)
柳田は「我々がとうの昔に忘れてしまったことを、八重山の人たちは今ちょうど忘れようとしているのだ」と結論づける(能登〓)
福田アジオは、1930年代までは、文化は中央部で創造され絶えず放射状に広がってゆくとする周圏論が支配的だったことを指摘している。(いまはちがう?)
▽232 沖縄のさまざまな要素に過去を見出したとする柳田の主張の問題点の一つは……沖縄は、日本との関係においては、全土をまとめて日本がとうに忘れてしまった記憶の保管庫として扱われがちである。柳田が沖縄の保管庫のなかに見出している過去とは、単に沖縄の過去というだけではなく、日本の過去としても意味づけられている。
▽236 柳田は、日本と沖縄が共通の系譜を引くと主張することで、当時の日本で広範に広まっていた、沖縄の人々に対する社会的な差別感覚に反対の立場を取ることになると認識していた。(多様性を認めるという立場ではない?)……柳田が沖縄と日本の人ははるか昔には「同胞」だったと考えているためである。その共通の起源を忘れたことが影響して、現在の疎遠な感覚が生じている。
▽237 1609年の琉球王国への薩摩藩の侵攻には、柳田はとりわけ憤りをかんじていた。ほかの政治的扇動者たちが、この侵攻を、姉妹関係にある二つの文化の再統合であると論じたのに対し(1879年の琉球処分に対する批判の矛先をそらす目的があった)、柳田は、薩摩藩の侵攻によって、奄美と沖縄本島の間には人工的な境界ができ、シャーマンの階級制度に楔が打ち込まれ……薩摩藩が琉球人を「異国の民」としたことは、江戸期とそれ以降において、琉球人をよそ者として認識する原因になったともされる。
……薩摩藩によって江戸に遣わされた琉球使節が「中国風」であった事実に反して、柳田は、琉球王国では日本式の文化が圧倒的に支配的だったと主張する。「中国風」の使節を披露することが薩摩藩主の指示だったことからうかがえるのは、沖縄の「日本らしさ」を議論する際の最大の障害が、沖縄と中国の緊密な結びつきだということである。
……一見中国化されたと見える物の裏側には、より古い在来の物や慣習があり……道ばたやT字路の「石敢当」も、古くからの在来の宗教的信仰に後から付け加えられた外皮(一種の落書き)であるとする。
▽242 当時は沖縄の人々は「非日本的」のレッテルを貼られ、広い範囲で差別の対象となっていた。
柳田は、(沖縄で見出されたものは)単に日本文化と足並みがそろった同化可能な文化というより、日本文化の本来の形式である、と主張。沖縄は同化の対象ではなく、沖縄の人々は「すでに」日本人であるとされる。
公の文化政策では、沖縄の文化は「遅れた」ものとして否定され、同化の方向はあくまで一方的に、沖縄が日本を目指すものだった。
柳田の同化の考え方は、どちらが正統なんおかについて見方が反対になっている。沖縄は本来の日本としての正統的地位を占め、日本はその本来の姿から離れてしまったとされる。
……柳田は、いかにしても「日本的」だとされる文化的起源を見出そうとしている。しかし、沖縄を日本にとっての真正さが保存されている場として利用すること自体、中国や朝鮮半島、ミクロネシアなどの文化的な影響の排除を必要としている。
□柳田国男「先祖の話」 日本固有の社会科学のモデルたりうるか
▽251 「先祖の話」は、1945年の終戦間際に書かれた。柳田はこの仕事を緊急のものと感じており、さまざまな信仰や習慣について少しでも早く書いて、戦後の人々に知らせたいと願っていた。(戦死者への追悼のあり方、加藤典洋?の「敗戦後論」との共通点〓)
▽255 お盆に先祖が帰ってくることに示されるように、生者と死者の間にはたしかな連続性がある。しかしこの関係が機能するには、新仏が正しいやり方で送り出されることが不可欠である。新仏は、最初のお盆を迎えるまでは危険な存在たりうるものと見なされる。潜在的な危険を除くため、新仏は少なくとも一度、死後の最初のお盆の際に遠くへ送る必要がある。(筆者が調査した)曽根のこうした慣習は、柳田の解釈とうまく合致しない。柳田によれば、魂を遠くに送る儀式は、土着の起源を持つものではないという。これらの儀式が生と死、生者と死者の連続の観念と矛盾しているからだとされる。
▽256 柳田は神なるもの全般、特に氏神について、神として祀られた先祖なのだが、先祖であったことは忘れられたものだ、と推測している。(筆者はこれはおかしいという立場)
▽258 曽根では、広い意味での親族関係を基盤にした「同族」のようなまとまりは存在しない。曽根の村としてのアイデンティティは、地域の歴史や祭祀、宮座、村の神社と寺によって保証されている。地域社会の人間関係は、日常生活と、森と海の資源の管理を軸に組織されている。親族の絆の果たす役割は限られている。
このような状況の下では、多くの家の神から単一の氏神が誕生したとする柳田の仮説は受け入れにくい。
▽260 柳田は家族を強調したため、人の結束や社会のさまざまな形態を事実上無視することになった。
▽263 神と先祖との区別。一方は神社を中心とするもので、自然崇拝的な雰囲気を強く持っており、「アニミズム」的性質とも無縁ではない。ところが先祖崇拝は、この自然崇拝的な世界観にはまったく関わってこない。自然崇拝と先祖崇拝はともに曽根の宗教の一部をなしていて、補完関係にあるように見えるものの、二つは厳然と区別されている。(マヤの宗教は? 先祖崇拝と自然崇拝が混合しているのでは?〓)
▽265 氏神と先祖との区別を柳田は無視している。多くの日本の地域において、二つの信仰の体系が並置されつつ独自の発展を遂げてきたことも無視している。
▽272 柳田の方法論的問題
▽274 日本の文化的独自性についての柳田のとる立場は、日本は何千年も昔にまで遡れる単一の社会的単位であり、一つの家系に連なるものだという発想と結びついている。神話に依拠した反歴史的な立場だが、戦前のイデオロギーの下で一般に信じられていた立場だった。
▽275 柳田は神学的 世界または社会は、純粋で完全な原初の状態から退行してきたと見る、キリスト教をはじめ多くの宗教に見られる思考。
▽277 はじめは純粋な国の宗教が存在していたが、それは主に仏教の混入によって純粋ではなくなってしまった、という見方。
柳田は、日本人全体が一つにまとまっていて、誰もが同じ原初の文化を共有しているのだと強調しているようだ。柳田がすべての日本人を指して「常民」という用語を使っていることに明らかである。
▽281 「先祖の話」の欠陥。推論を重ねていること。事実と結論の関係が証明されていないこと。……階級や不平等、歴史を無視していること。日本文化の本質的な独自性と、その基盤となる日本人の絶対的な独自性を信じていること。
「先祖の話」は、保守的でナショナリスティクで信仰心のあつい知識人による非体系的な書物、情緒的な信仰告白の書である。混乱した時代に、理想化された古代社会や宗教の秩序を復活させようと図った著作。社会科学のモデルとして受け入れることはできない。
□日本の民俗研究の活性化のために
▽288 「島国根性」 日本人は世界から隔絶されていて特殊であるという感覚が蔓延。学問の体裁を取った「日本人論」というジャンルに絶えず人気がある。その前提にあるのは、日本人とほかの国民の間には本質的な違いが存在するという仮定。
▽289 柳田は初期の仕事では日本国内の文化的多様性を認めていたが、後には日本の「主流の」人々を結びつける本質について言及するようになる。いわゆる「常民」(=普通の民衆)。近代化されつつある社会への密かな批判として柳田が意図的に打ち出した側面もあると目されている。しかしそれは、ナショナリズムの唱道者らによって利用されることになる。多数の日本人論の断定にヒントを与えてきた。
▽291 経済成長がつづいたこともあって、民俗研究は一定の威信ある水準を達成するに至った。特に1970年代には観光業の勃興に伴い、地域に特有の伝統は経済資産となった。自治体ごとに体系的な地方史が編纂され、国中の市町村が博物館を設置して観光客誘致を図った。
個々のコミュニティ(自治体)に対して個別に取り組むという戦略によって、事実説明のデータは蓄積されたが、そのデータを生かすために必要な理論は、形成されなかった。日本の民俗学者らがこの学問の発展の第二期に行っていたことは、真の学術研究とは言いがたく、むしろ単純な調査や文書化などと言った方が当たっている。
▽ 民俗学の成果は日本のみを対象とし、成果は日本でのみ発表され、それを国際的な文脈に据えようとする努力は見られなかった。日本社会のほかの分野がグローバル化しつつある中で、この学問分野だけが内向きであった。……日本でしか通用しない一種の学問。深刻な袋小路にはまり込み、未だにそこから抜け出せずにいる。
いま、この学問分野は、第3期の入り口に足を踏み入れている。……これまでの研究を、他の分野の理論的発展に照らして再検討することで、見過ごされてきたいくつかの問題が特定された。
▽294 コミュニティのアイデンティティの境界は恣意的。
境界を再編成するか、さらに可能ならば、その境界を変動可能な柔軟なものとできるかどうかに、将来の日本の民俗研究はかかっている。日本の国境線の内側には、豊かで多様な文化が存在しており、その人々は国境を越えて広がり他者や異文化を包含している、と認める必要がある。たとえば、カナダのクリー族の狩猟者たちと日本の東北地方のマタギとは、互いに共通の要素をもっている。その共通点はそれぞれのグループが属する国家のほかの市民らとの共通点よりもむしろ多い、と言えるだろう。
▽297 民俗研究にできる最大の貢献は、その説明能力と、豊富なデータ提供能力であろう。
▽299 宮崎駿の「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などは、民間伝承へのさりげない言及を豊富に含んでいる。環境保護主義や近代社会の軌道への懸念に関係していることから、日本の民間伝承への関心を改めて呼び起こしている。
グローバリゼーションが「西洋の」アイデアや態度や前提の拡大を駆り立てるにつれて、民俗学者にとってますます重要になるのは、これに代わる視点や生き方を提示するおとである〓(政治経済部と地方、TPPと民俗)
□柳田国男を携えて、世界のなかへ
▽305 民俗学の発祥の記念碑などと称される「遠野物語」が、じつは学としての民俗学の展開のなかでは、むしろ忘れ去られたテクストであることを再確認することに。
▽306 高度経済成長期の光と影のもとで、柳田が再発見されてゆく。吉本の「共同幻想論」によって、「遠野物語」は「古事記」と並べられるような古典として再発見された。
60年代後半から70年代にかけての政治の季節に、柳田民俗学はつかのまの間、社会変革や天皇制批判のよりどころとなり、土俗からの反乱といったスローガンがもてはやされた。
1990年代、バブル経済が終焉を迎えるなかで、突然のように、柳田批判の嵐がはじまった。植民地主義への加担者としてやり玉にあげられた。この嵐のなかで、柳田の神格化もまた終焉を迎えた。
もはや多くの人が柳田国男の時代は終わった、と感じている。
▽309 柳田のテキストの群れは百科全書となった。……なにか未知なる問題に突き当たったとき、わたしは柳田のテクストに戻ってゆく。たいてい、柳田はその問題にたいして最初の鍬入れだけはすませており……。
▽312 「遠野物語」を呼んだアラスカの学生が「不思議」「懐かしい」という。不思議はわかるが、なぜ文化的な背景をまったく異にするアラスカの若者たちが「懐かしい」とノスタルジーをかき立てられるのか。
この地球上のだれもが「外国にある人々」になろうとしている時代にあって、柳田のテキストのいくつかは、「世界の古典」としての役割を果たすことができるのかもしれない。
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