■神去なあなあ日常<三浦しをん>徳間書店 20130401
高校を卒業してフリーターでもしようと思っていた「俺」が、母親の陰謀で三重県の山奥の村の林業会社につとめることになる。携帯も届かない。下草刈りをしても何をしてもうまくいかない。ダニやヒルにおびえる。夜になるとやることもない。脱走を試みるが連れ戻される。
田舎に住んでいると「やることがない」という気持ちがよくわかる。そのなかでどうやって日々の喜びを見出すかが、田舎に住み続けられるか否かの分岐点になる。
だが仕事を覚えるにつれて自然の美しさに目がいく。木が成長することに喜びを感じ、これだけ手塩をかけた木を山火事を燃やしてしまう街の人間に腹がたつ。
居候をした家のヨキは女遊びが欠点だが、斧づかいの名人で、まるでサルのように山を歩く。村の人はだれもが何らかの魅力をもっている。最初の反発はある種の尊敬に変わる。
そして、巨木が林立する神去山の神様を恐れ信じる人々を最初はバカにしていたのが、自分もその山の神様を見ることになる、あるいは見た気になる。
自然と山の神と生きる価値に目覚めていく。
そうまるで宮崎駿の世界なのだ。そしてそれはフィクションでありながら現実なのだ。今は私もそう思える。
愛媛県の旧石鎚村に私が訪ねた集落では、神様が宿っているような原生林を切ってしまったことが、ある意味でムラの命脈を断ってしまった。原生林の生い茂る森や山への畏怖をなくしたムラは消えていくのだ。
その逆が能登だ。超高齢化と過疎が進むなかで、神を日常に感じる祭りがあるから集落がつづいている。集落がつづいているから祭りがあるとも言えるが。おそらく祭りを「やめよう」となった時に集落は最後の時を迎えるのだ。崩壊するのだ。
自然の豊かさや神様とのつながりは大事だけど、若者が山の村で住むことに喜びを感じるために必要な要素がもうひとつある。若い女性だ。なぜか神去村の学校には若い女先生がいる。
そういう出会いをどうつくれれば、能登などの豊かな文化を残している過疎地は残るだろう。
林業の技術や描写もきめ細かい。よっぽど勉強したのだろう。
千年の巨木を伐採してその上に男たちが乗り麓まですべらせる、という、最後の祭りの描写も圧巻だった。
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