■生きていく民俗 <宮本常一>河出文庫 20130607
今ある制度や習慣のなかには、実はずっと昔から受け継いだものがあり、中世以来の制度がつい最近まで色濃く残っていたことがよくわかる。
たとえば「一人前」という言葉は、鍬をつかい、草を刈り、肥桶をかつぐことなどが人並みにできることを意味し、「一人前」という基準ができることで、交換労働もなりたっていた。
子供を売る風習は戦後まで続いており、出稼ぎは、人身売買を受け継ぐ形で、余った労力を売るために生じた雇用形式だった。東京の風呂屋の三助や左官は能登の人が多く、灘の酒蔵の杜氏は丹波の柏原地方から、伏見は越前から来ていた。
中学・高校卒は職安の斡旋が中心だったのは、古い口入屋の伝統につながっており、大卒が縁故採用されて幹部社員になるのは、古い富商たちの雇用形式を受け継いでいた。会社員が「うちの会社」と家族的なイメージで語るのはその名残という。
不漁の年に赤字になる地方の問屋に都市の問屋が資金を貸し付けたことが、都会を成長させた。親方・子方の制度も1年2期勘定の制度による貸借慣習の基盤の上になりたっており、貨幣の動く量はきわめて少なかった。このような関係は戦争中に配給制度になるまでつづいていた。配給制度によって、古くからの問屋がなくなり、すべてが現金で取引されることになった。(何か大事なものを失うことになってないか。革命後のニカラグアのように)
物をつくる職人はほとんどは注文に応じて作り、消費者と直接つながっているため信用第一だった。一方、見知らぬ消費者向けの、露天商や地方の行商が売りさばく商品は粗悪品が多かった。振り売りは良質な商品をもたらすのに、朝市に粗悪品が少なくないのは、昔ながらの日本人の性格なのだと合点がゆく。
金持ちそうな名前や農民っぽい名前、職人っぽい名前というのはつい最近まで存在した。明治の初めまで、左衛門・右衛門・兵衛などのつく者は身分が高く、吉・助・松・郎や数字のつく者は身分が低い傾向があった。
軍隊は、職業の貴賤観のもっとも強い組織だった。軍隊が解体され、肩書が簡単になることで社会の階級意識が弱まったという。軍隊は差別の元凶のひとつだったのだ。逆に、上司を肩書きで呼びたがる会社員は軍隊的なものを引きずっているとも言える。
古い起源だと思っていたのが意外に新しかったのは「墓」だ。中世末までは死者の弔いをしない僧が多く、一般の人は墓も建てなかったという。僧が死者の弔うのは一遍の念仏宗が広まって以降で、それによって、仏教は民間に浸透したという。
◇農民
農家の嫁になりたがらない傾向は、農村の景気がよかった戦後直後にもあった。とりわけ女性の農業への絶望感が強かった。
教師は聖職者から労働者になることで生活が安定したのに対し、百姓は労働者宣言が遅れたことが「古さ」を温存させたという。「農民」という言葉を農業者の中で使いはじめたのは小作人だった。そこには労働者意識の芽生えがあったが、農地解放によって、農民組合は解体してしまう。農業者は経営者でもあるから労働者意識を十分にもつに至らなかった。
いまは逆に労働者意識より自立農民としての百姓意識が必要な時代だ。「古さ」を温存させない、女性が暮らしやすい百姓の暮らしとは何か。内子や木次町で見たような、家ではなく1人1人が財布をもつ自立経営が必要なのだろう。
◇自給のムラと交易のムラ
宝島は、金属類と材木以外はほとんど自給でき、貨幣が流通しない島だった。多くの島民が大工技術をもち、家も学校も舟もつくった。舟をつくってもらう間、頼んだ人は船大工の家の畑仕事をした。労働交換だった。そこには職業の貴賤観はなかった。そうした自給できる自然は、日本の半分ほどだった。農民が農耕に費やす時間は、労働時間の半分に達せず、自給度が高いほど誇りを持っていた。
下北半島など物資の交換を中心に生活をたてるムラは職業が分化し、「親方」が存在した。白山麓では、食糧自給のため焼畑を営み、蚕や雪鋤・鍬棒で現金を稼いだ。荷物を取り扱う親方が介在するため利益は少なかった。山中の土地の多くは親方が所有し、共有地はきわめて少なかった。
交易を必要とする生活者は一般に貧しく、当初は物乞いだったのが物売りをはじめることが多く、交易というよりも、買ってもらうという気持ちが強かった。
=========以下/抜粋とメモ==========
▽11 戦前は女のつとめ場が少なく、大半の娘は家で嫁にもらわれるのを待っていた。だから農家でもどこでもよかった。・・・共働きといっても、野良から帰ってくると炊事の支度もしなければならない農家の嫁には、しだいに来るものが減ってきたのである。そしておそらく今日農業ほど若い者たちにきらわれている職業はないだろうと思われる。。
・・・昭和二二年は農民のはなやかな時代であったが、そういうなかで、すでに若い娘の中には古い様式の農業に対する反感というものが生まれつつあった。
昭和35年「農家の女はほんとにみじめです。いくら働いても楽になるときがないのです。・・・子供たちにはさせようとは思いません」と女たち。
農業に対する絶望感は女のほうが強いのではなかろうか。
(個人としての女性の収入がなかったことが大きい?〓内子や奥出雲の井上さんの例)
▽17 教師は聖職者から労働者になることによって、その生活安定の方向を見だしたのであるが、百姓はみずから労働者宣言をすることのおくれたたために取り残されることになった。
もともと農業にしたがうものを百姓といって、農民とはいわなかった。農民ということばは、農業者以外のものが使用していたが、農業者の中でこれを使用しはじめたのは小作人である。小作人組合をつくるようになってから、これを農民組合と名付けた。農民といえば小作人と同義だった時代がある。
ところが農地解放がおこなわれるとほとんどの農民組合が解体してしまった。農民組合運動は、小作人組合運動から農業人一般の組合運動に発展すべきものであっただろうが、農業者は経営者でもあるという二重の性格を持っていたことから、いわゆる労働者意識を十分にもつに至らなかったのであろう。
▽19 近世初期に武士をやめて城下町などに集まったものは多く商人になっている(士農工商といいながら百姓にはならない)
第二次大戦までは、古い時代の職業意識が新しい職業にも多分にもちこまれていた。とくに官尊民卑の風は強かった。江戸時代の農民と武士の関係にも似たものが尾をひいていた。
・・・職業の貴賤観のもっとも強かったのが軍隊だった。階級だけでなく、兵種によっても差がみられた。・・・軍隊がなくなって、階級意識を弱めた効果は実に大きかった。
階級を意識づけた肩書きが簡単になってきたことも、階級意識をこわすことに大きな役割をはたしている。(肩書きで呼びたがる会社員〓)
▽26 宝島 鍋釜鍬鎌のような金属類と材木以外はほとんど自給できた。塩もたばこも芋焼酎も。カネが流通しない島。
私が島に渡ったころにも、まだ50人をこえる大工技術を身につけた人がいた。その仲間が家をたて、学校もたてた。造船技術を持つものが17人いて、板付舟をつくった。技術を持たない人が舟をつくってもらうと、その間だけ、船大工の家の畑仕事にいく。労働交換。島には鍛冶屋が1軒あった。百姓は、打ち直してもらう時間の2倍あまりを、鍛冶屋の畑で働く。鍛冶をのぞいては、職業は分化していなかったのである。
職業について貴賤観もなく、階級の上下もみとめられなかった。島津氏琉球征伐のとき、琉球からつれてきたという者の子孫が残っていて、その者のみ、村ではすべて半人前に扱われていたのである。
▽29 宝島のように自給できる自然は、日本の半分ほど。一方交換を中心に生活をたてなければならない世界も広かった。下北半島。
(ヒバ(アスナロ)とアテはいっしょ?)
・・・物資の交換を中心にして生計をたてていく村には、その世話をする親方の家が存在しているものである。
・・・交易を中心にした社会には、すでにいろいろの職業が分化発生しつつあることに気づくのである。
そして日本には、早くからこうした自給中心の村と交易中心の村があったと思われる。
▽白山麓 焼畑は食糧を自給したかったから。現金は、蚕や雪鋤・鍬棒をつくった。・・・その生活はまったくみじめなものであった。焼畑でつっくる食糧も食うに足らなかったし、鍬棒つくり稼ぎももうけはうすかった。交易によっていきる村には、その中間に荷物を取り扱う親方がどうしても介在せざるをえなかったからである。
山中の土地はほとんど親方の持地で、共有地はきわめて少なかった。
・・・鍬棒を製造するものと、これを運ぶボッカと、そうした物資の取り扱いをする親方との3つの職業と階層が見られた。
・・・明治に多くの製糸工場ができたが、大正終わりには生糸価格が暴落して製糸場がつぶれ、蚕を飼うものはなくなった。そこで炭焼をはじめる。
▽40 中国地方の山地 生活のたちにくい所だった。それでもなお住まなければならなかったのは、砂鉄を精錬するために多くの木炭を必要とするから。
▽44 海に生きる 沖家室島 今は200戸あまりだが、かつては800戸をこえていた。阿波で一本釣りの技法をならい、テグス使うようになった。つり漁が盛んになり、よそから漁民がら住みついた。西は九州の五島から東は香川の塩鮑諸島まで広範囲を移動したから小さい島に密集して住めた。
漁民は魚をおって移動移住した。日本の沿岸に分布している海部・海府・アマなどの地名をみればわかる。いずれも古く海人(あま)が住んでいた。(ヘグラの変化〓)
▽54 山に生きる 明治維新までは人口は3000万人ほどで、長い間増加がとまっていた。そのころまでは野獣が多かった。
マタギと木地屋 木地はほとんど問屋にわたすから、農民と直接取引をすることはなかった。だから、一般民衆の目につかぬところにいがちだった。それで木地屋は食糧だけは何とか自給するように工夫した。かつて木地屋が住んでいたところには、「畑」という地名がついている。彼らが木地物をつくるかたわら、焼き畑を耕作したものであることを物語る。
白山の鍬棒つくりの村も、一種の木地屋部落ということができる。
奈良・大峰山の西麓の天ノ川の御師(神人)たちは、曲物桶をつくることが巧みであり、矢にする竹を平野地方に売り出していた。
▽67 塩 塩尻という地名は、海岸から塩をのぼす最後の地点を意味する言葉であった。
▽ 日本の中には比較的自給度の高い生活を営んでいる温暖多湿な地帯の住民と、どうしても交易を主にしなければならない寒冷地対・山間・海岸居住民の2つになる。交易を必要とする生活者の生活の方が一般に低くて、単なる交易というよりも、物乞的な色彩を持つことが多かったといってみたかったのである。
▽68 東北地方の北上や下北は古くから鉄の産地だった。・・・平泉を中心とした藤原3代の文化 都の文化をそのまま移植したものといってよく、都の文化を受け入れるほどの財力を藤原氏はもっていたことを物語る。その文化を取り入れるために、どれほど多くの財宝を都に運んだであろうか。金売吉次のはたした役割。
▽74 東日本は馬が多く、西日本は牛が多かった。当時の日本馬はきわめて小さく、乗馬としては利用できても輓馬としては適しなかった。
▽86 日本の農村には借家住まいはほとんど見られない。(例外は田部家の出雲など?)たいていの人が自分の家に住んでいる。
▽91 農民は同時に職人。農耕に費やす時間は、すべての労働時間のうち半分には達していなかったと思われる。そして自給度が高いほど誇りを持っていた。
▽92 物の貸し借り 膳椀をそろいで持っている家は少なかったから、吉凶のときは借りに行った。返礼の意味で親方の家へも手伝いにいかねばならぬ。農具なども大家へ借りにいった。土臼・トウミ・千石どおしなどは、親方か大家でなければもっていなかった。上限関係。。
▽94 鍛冶屋は、河内から来たと答える者が多かった。(うしつは?)
▽96 僧と神主 死者を扱うことは一般にきらわれていた。村でゆとりがあれば、必ず僧を雇ったものだ。どんな田舎を歩いても堂・寮・庵などの名のついた小さい寺がある。無住になっているが、もとは誰かが住んでいた。旅からやってきた僧が住み着いて死人の世話をしたり、占いをしたりして、一生を終えると無住になる。そのうちまた誰かが住みつく。坊さんの宗旨は何宗でもよかった。死人の始末さえしてくれればそれで事足りた。たまたまやってきた僧が才覚のある者であると、庵を大きくして普通の寺にまで高めていくことも少なくなかった。
▽105 門付するものが、その初めは単なる物乞から、物売などして生計をたてていくようになっていった。したがって、正当な交易というよりも、買ってもらうという気持ちが強かった。
▽116 葬式坊主 古くは、死者を葬ったり、法要を営んだりしない僧が多かったが、念仏宗の発達に伴って、僧が死者の弔いをするようになる。仏に導かれて死後、極楽へゆくようにするためには、念仏の功徳に待たねばならぬという考え方が念仏を普及させ、また僧が死者の埋蔵に立ち会うようになってくる。
仏教を民間に浸透させ、僧が死者の埋葬に結びつくようになったもっとも大きな役割を果たしたのは一遍であった。
・・・一遍の流れをくむ念仏行者たち。中には野辺の白骨を供養し、その骨の一部をもって高野山へもって参るものもあった。高野聖はこうしてうまれてくる。多くは時宗、すなわち一遍の流れをくむ人々であった。
・・・念仏僧が不幸な死をとげた者のために祈ることえ、人々の死者に対する埋葬のしかたにもおのずからひとつの型ができてきた。・・・そして不幸な死をとげた者ばかりでなく、あたりまえに死んだ者に対しても、法要がていねいに営まれるようになる。それまでは死者があっても、一般の者は墓を建てるということはなかった。だから中世末までは墓はほとんどたてられていない。残っているとすれば不慮の死をとげた者の供養のためのものが多かった。
・・・それが江戸時代になると、不慮の死などということなしに墓が建てられるようになる。
▽123 販女(ひきぎめ) 都会ではほとんど見かけなくなったものに、魚売がある。(〓今もある能登の振り売り)
▽133 屎尿処理 大阪平野では菜種・綿・野菜の栽培で肥料をつかった。市民の屎尿をくみとって肥舟で運んで使用した。
・・・東京や大阪では屎尿をくみ取るには町家に金を支払っていたが、地方の町では農家から米や野菜を持って行くのが普通であった。・・・大阪でも昭和20年ごろまで、まだ農家から米をもらっていた町家があったが、それは周辺部でのことで、中央部では逆に汲み取り料を町家から取り立てるようになっていた。
大阪の海側では、漁師の目を盗んで海の沖へ捨てにいった。香川や岡山にもっていくようになる。
▽139 子供を売る その風習は戦後まで見られ、会津山中の子供たちが関東平野に売られていたのが新聞で騒がれた。
▽141 出稼ぎは、人身売買についであらわれた雇用の形式。
▽143 行商は、中央では消えてしまったが、地方にはその風習が残った。富山の薬売り、越後の毒消し、福井県早瀬のせんばこきの行商・・・
越後の毒消し 浦浜村(現、巻町)
▽148 はじめは人身売買が主だったが、その後、余った労力を売る出稼ぎに。
▽151 江戸市民が100万をこえると、米の消費量は百万石をこえる。米搗き人足だけでも5、6000人は必要だった。
・・・東京の風呂屋の三助は能登からたくさんでている。左官も能登からでている。これは鋳物師の人夫で、夏は鋳物ができないので、その間江戸で左官をやった。(左官は鋳物のあるころからやっていた〓)能登中居の鋳物師も、古文書によると河内からきたことになっている。中居から越中の高岡に枝村をだし、越後三条などにも中居からわかれた鋳物師が住んでいた。
酒造りも。池田・伊丹や西宮の酒造に働いた蔵人たちは、はじめは近くの農民だったが、後には山地に入って丹波の柏原地方から大量にでかけるようになる。丹波杜氏。
伏見あたりにきたのは越前杜氏。山口県の祝島、愛媛の越智大島・伯方島などにもよい杜氏がいた。九州の五島の六島も。
北陸では、越前のほかに能登・越後などに杜氏の村が見られた。能登は上戸(珠洲市)が中心であった。そこに甚三郎という者がいて、明和3年、近江八幡に出て「能登屋」という出稼ぎ部屋をはじめ、主として酒造人夫の世話をした。ここの杜氏は美濃・尾張の方へ出稼ぎした。
越後は高田付近が杜氏の産地。
▽156 熊野のソマ人 ソマは熊野と木曽がすぐれていた。屋久島の杉をきりはじめたのも熊野のソマであった。
▽165 中世の町 政治的な町や港町をのぞいては、細々としたもので、町の文化が農村を支配するようなものではなかった。町らしい町が発達するのは、江戸時代に入って新しい封建制が確立してからのことであった。それすら、江戸・京都・大坂をのぞいて、人口10万をこえる町はなかった。
▽173 商業的な座は、貴族や社寺の権威にたよって特権をふりまわすことから、織田信長が楽市楽座として自由に交易させることにした。しかしこれは十分成功せず、職人集団を解体することはできず、彼らはやがて仲間組合をつくっていく。神社の氏人を中心とする座の解体はなされなかった。宮座と呼ばれるものは今日まで残っている。もっとも濃厚に残っているのは近畿地方。島根出雲地方は近畿におとらぬ分布を見せており、九州では福岡北部に多い。
宮座の中には、村の中の特別な家筋が参加している
場合もあり、そのような氏子と、一般の氏子の区別されている
所もあるが・・・。
芝居小屋の座がつくのは、劇場そのもののことではなく、役者仲間のことだった。
▽180 カステラを焼くとき下に敷く紙い、わずかにカステラがついているのを、駄菓子がわりに売っている・・・
▽182 刃物の類は石が利用された。黒曜石は壱岐・大分県姫島・隠岐・長野県和田峠などに産し、それらの地を中心にして一定の分布圏をつくっているのは、交易が見られていたのではないか。
▽184 市は月に6回開くものが多く・・・中には1年に1回の市も少なくなかった。・・・地方の農具市yは種物市などは、今年注文しておくと来年持ってくるという有様だった。(大瀬)
▽194 力のある百姓であれば、秋の稔りを見なければ去年の米には手をつけなかった。しかしそのような百姓は村の中で5分の1もなかったろう。時には種もみまで食ってしまうようなことが起こってくるので、能登時国家では、毎年付近の農家の種もみをあずかっていたという。
・・・自分の力だけでは調達しきれないところでは町の有力者を親方に頼む風習はいたるところに見られた。オヤカタ・
オカタ・オヤッサマ・オオヤなどと呼ばれているが、困ったことがあれば頼っていった。それに対する返しは必ずしなければならなかった。
オヤッサマの家は坐食しているのではなくて、農業以外のいろいろの商売を営み、問屋のような仕事をしているものも多かった。
▽196 同業者 中世は座といったが、近世に入ると、組仲間とか株仲間になった。これらは外に向かって自分たちの権利を主張したり守ったりするだけ。。内側の結束をはかるために親睦を目的とした講が組まれた。大工や左官に太子講があるように、商人仲間では恵比寿講が組まれた。百姓仲間ならば、いろいろの信仰に基づいて、伊勢講・金比羅講・念仏講などの講組が組織された。
▽198 頼母子は、貧家の急場しのぎだけでなく、船をつくり、屋根のかやを集めたり、膳椀をととのえ、畳を買うようなときにもおこなうことがあった。
力のある者を力のない者が親に頼んだ。したがって、オヤッサマといわれる家には多くの子方がついていた。子方が多い家ほど勢力があった。〓
▽200 漁業は必ず豊凶がある。不漁の年には問屋は赤字になる。そうしたとき都市の問屋が資金を貸し付ける。このような方法で都市は交換経済を維持することができ、この組織の完成がしだいに都会を成長させた。このような関係は戦争がはじまって配給制度がとられるようになるまでつづいた。配給制度は問屋をなくしたばかりでなく、すべてが現金で取引されることになった。配給物質をうける場合に貸借は許されなくなった。(ニカラグア 流通の目詰まり〓)
・・・親方子方の制度も、実はこのような1年2期勘定の制度による貸借慣習の基盤の上になりたっていたといってもよく、交換経済といっても貨幣の動く量はきわめて少なかった。
▽202 農業は、鍬をつかうこと、草を刈ること、肥桶をかつぐことなどが人並みにでき、さらに牛を使うことができれば一人前とされた。一人前であるということによって交換労働もなりたつ。
・・・人を賃金を出して雇うとき、その一人前が基準になった。村の中で生産面における協力体制をつくり出したのは、この一人前の考え方があったから。(〓へぇ)
▽208 丁稚奉公 長男はきらわれた。町育ちより田舎の子が喜ばれた。丁稚になると、小僧あるいは坊主と呼び捨てにされた。このような小僧は店屋が会社に発達してもそのまま引きつがれ、そこでは給仕の名で呼ばれて終戦まで存在した。
・・・かなり立派な町家の子どもでも、丁稚奉公に出るのはあたりまえとされた。「他人の飯を食う」ということは、つい最近までは若い者の当然経なければならない体験の一つとされた。
▽217 職人たちのつくる品物もつくっておけば誰でも買ってくれるというようなものは少なく、たいていは注文に応じて作った。消費者と生産者の間には密接な関係があり、信用を第一としていた。しかしわずかなお得意を相手にしていたのでは生活がなりたたないので、見知らぬ世界にいる者の消費をねらった商品もつくったが、それらは粗悪品であり、市や地方の行商によって売りさばかれた。したがって露天商人から買うものや行商の持ち歩くものには粗悪品が少なくなかった。
・・・仲間の間では、正直と義理が何より大切だったが、仲間以外の世界では人は何をしてもよかったと考えていた。「旅の恥はかきすて」「商人と屏風は直(すぐ)うちゃ立たぬ」という言葉は本質的に一つのものだった。
▽221 堺 分家の主人が本家の前を通るときは、中に人がいようがいまいが必ず頭を下げた。分家の主人は市長をしていたが、それでも本家への礼儀を失ってはならないとされた。〓〓
▽224 明治の初めまでは、人名のつけ方にも職業や身分がほぼうかがわれた。左衛門・右衛門・兵衛などのつく者は村の中でも身分の高い者に多かったし、商人であればかなり大きい経営を営んでいる者であった。そして、左衛門がつく者には本家筋が多く、右衛門のつく者には分家筋が多かった。身分の低い者には吉・助・松・郎や数字のつく者が多く、神主や中世以来の旧家には右京・左京・右近・左近・右門・左門あるいは国名をつける者もあり、大夫のつく者もあった。また、漁村などでは左衛門・右衛門などとつくものはほとんどなくて、蔵・郎・吉が非常に多くkなっている。
▽230 中学・高校卒業者までは職安の斡旋が主になる。古い口入屋のn伝統に立っているものだ。しかし大学出の就職は縁故者によるものが少なくない。それは古い富商たちの雇用形式が受け継がれていることになる。いきなり手代なり番頭なりの地位につくわけだ。縁故入社であることによって幹部社員になることが約束され、昔の一家一族的な気風はそのまま持ち越されている。大きな会社の社員でも「うちの会社・・・」と家族的な雰囲気で自分の属する企業を見る。昔とちがうところは、その下に職安を通じたり、一般公募したりした社員層の労働者意識に基づくつきあげが見られるようになったことである。(〓うちの会社、という言い方)
▽234 次男以下は、嫁ももらえず分家も許されず、兄の家で一生を終えるものも少なくなかった。山村ならば明治末まではいたるところで見られた。
土地はもらわなくても、家だけたててもらえば、どうにかやってゆけるようになったのは、村の中に農以外の仕事が増えたり、町や遠くへ働きに出れば働き口があるようになったからだ。
▽239 島原・天草などでは、古くから長崎へ奉公に行く者が多かった。それもシナ人の家に奉公する方が賃銀もよかったという。親が公然と許すということはほとんどなく盆正月などに帰ってきた娘としめしあわせて出ていったものだという。
……女郎は各宿場にいて、飯盛女の名で呼ばれていたが、そういうことも奉公の中で、下女奉公とたいした区別はしていなかった(性に寛容〓)
明治になると、九州・中国地方の女たちで海外へ渡航した者がすくなくなかった。多くがだまされてでていったのであるが、女たちが町家へ水仕奉公に出る慣習のあったことが、このような現象を生んだのであった。
▽243 若い女たちの方が時勢にはいつも敏感であった。不利な立場におかれていただけに、いつもよりよい世界を求め続けていた。その上、男のように受けつぐ家はなかった。次に新しく住みつく家が同じ村にあるとしても一度は広い世間を見たかった。まして男を選ぶ自由があるならば、今よりよい境遇を相手の男、家に得ようとした。
古い村の伝統が今急に断ち切られたような形になってきはじめたのは、若い娘の離村がもっとも大きい原因をなしている。女のいない所では、長男も都会へ出ていかざるをえなくなる。
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