■サンカの真実 三角寛の虚構<筒井功>文春新書 20130618
サンカといえば三角寛。「秘密結社のような集団で、独特の文字と掟をもち、厳格な階級と秩序が存在する。普通社会とは全く異質の慣習、信仰、婚姻法、葬制などを伝え、彼らにだけ理解できる隠語を使う」という。それらがすべてうそであると。証拠をあげていくぜ。
三角の本名は三浦守。朝日新聞の記者をつとめた。荒垣秀夫と同期だが、荒垣が出世を約束された「練習生」で、はじめから本社勤務だったのに対して、三角はサツまわりばかり。その焦りがあったのか、とばしや、として知られた。危うい記者だった。
戦後、学術論文を書いて博士号をとる。が、すべてが捏造。関東のいちぶのサンカとつきあいがあったが、その写真を全国各地のサンカであると詐称する。撮影の年代も場所もいんちきだった。
埼玉県中部域を回遊していたニナオシのグループを、虚構の支えに利用しつくした。撮影時期も場所も偽って、取材が長期にわたり、かつ広範囲に及んだようによそおったのだ。
サンカ文字、もつくりごと。秘密分布表もうそ。「全日本箕製作者組合」も実在しなかった
共同通信記者を42歳でやめて民俗学の取材をはじめた。
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▽5 三角の著作はつくりごとでうめつくされている。そのことを立証するのが目的。
▽33 普通の農民が箕の製作、修繕にたずさわることはなかった。それは技術上の問題であるとともに、箕にかかわる仕事が差別の対象になっていたことにもよっている。(アマメハギの箕づくりは? 風車づくりは〓)
▽59 写っているテントも女性が身につけている袖なしと腰巻きも、みんな三角が撮影用に用意したものだった。自分が構想したサンカ民俗に合うような服装をさせた。
本当は、ありあわせの衣類をまとっているだけであり、暑い季節には成人女性でも上半身、裸のこともあった。
▽73 「焼湯」と同種の風呂はげんじつに存在した。
▽94 「サンカ」は、西日本の一部地域でのみ使われていた言葉で、……それを研究者が採用して、類似の非定住型の職能民集団を総称するいあわば学術用語に転用している。
非定住の箕づくり集団の呼称としては、東日本ではミナオシが広く通用していた。そのほか……テンバなどの言い方も。(あんたがたどこさ、の歌)
▽96 定住生活に移った元ミナオシや、その家族ならば平成10年代の今日でもいくらでもいる。
▽107 箕の製造を主たる生業にしていた村落は全国各地にあって、東北地方にもほんの何十年か前までは1県あたり1~5カ所くらいの割合で存在していた(能登は?島根は〓)
昭和30年代の半ばごろを境にして、新箕の需要も修繕の注文も急減する。箕作り村の住民は、農業や出稼ぎなどで新たな生き方をえらぶことができたが、ミナオシのとくに年配者は文盲が多いこともあって、困窮をまぬかれることがむつかしかった。
▽157 「三角のサンカ研究は、おおかたが本当だ」と発言しつづける「信者」がいまも少なくない。
▽179 三浦記者の飛ばし。本社が人を派して、その真偽をいちいち確かめさせる。……「同僚や後輩に人気がなく、上司には、なぜか評判がよかった」という社会部の後輩の証言。
(筆者は、三角のことを記者として許せないのではないか。そういう気持ちがあふれている。ルサンチマン)
▽184 荒垣は、入社当座から本社の机に座っていて、外回りの記者が電話で送ってくる原稿を受け取って文章を整える仕事についていた。今日ではあり得ない。勤務時間も早出と遅出に、きっちり分かれていた。
・・・朝日新聞の身分制 社員・準社員・雇員の3段階にわかれていた。大学を出て入社試験を受けて入った社員試用は、練習生ともいった。これが一定の期間を経て正社員となる(練習生、という言葉は90年代にも)
▽191 三角一家は板橋署の裏にあった警察官の官舎に住んでいた。その程度のなれあいは珍しくない時代だった。
▽196 サンカの語源は、私見では「坂ノ者」だと思う。「サカンモン」が「サンカモン」に転化したという説。
▽216 箕作り村 ほとんどの世帯が箕の製造を生業にし、それによって家計のおおかたを支えている集落のこと。
両刃のナイフを使っているのを見つけたが、「そういうものは見たことがない」と頑強に拒否する。
▽223 村はずれに一族の3戸が、まわりの農家とはちょっと違った町家風の住宅を建てて住みつづけている。いまはもう、箕は作っていないが。「昔は、Sさんたちのことを新平民と呼んでいましたよ。このへんの者は、あの人たちとは縁組みをしませんでしたよ」
こうした聞き取り調査は、民俗学のフィールド研究というより、事件取材に近い。アカデミズムに身を置く専門学者は、こういう調査が苦手ではないか。案内を立てたり、紹介を得たうえでないと、フィールドに出ていけない先生方が少なくないような印象を受ける。(元記者としての誇りが見える記述〓)
▽234 きびしい差別を受けてきた人々のもとをふらりと訪れ、あれこれ尋ねることなど、並の神経の者には、できることではない。これが、サンカ関連のフィールド研究が、ないにひとしい理由である。サンカの名で呼ぶべき集団が、いなかったからではない。
▽242 松島きょうだいに関連して会った人たちは、何百人ではきかない。四女がかつて働いていた飯場がどこか、いつからいつまでいたか確定するのに何カ月もかかっている。住民票を閲覧し、不動産の登記簿謄本をとり……
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