■幻の漂泊民・サンカ<沖浦和光>文春文庫 20130624
サンカについての本はいくつか読んできた。蝦夷やクマソにつながる先住民の末裔だとする柳田国男の説はロマンがあってわくわくした。独自の文字と掟をもつ秘密結社のような姿を描く三角寛の論はおもしろいけれど、うさんくささを感じた。先日読んだ筒井功の本は、三角をばっさりと全否定していて目が覚める思いだった。この本はこれまで読んだどのサンカ論よりも説得力とあたたかみを感じた。
沖浦は、全国の被差別部落や賤民とされてきた人々の歴史を調査してきた。
同じ漂泊民の木地師は天皇家につながる由緒をもち、家船の人々も同様の伝説をもっている。サンカはそうした言い伝えがない。古文書にも出てこない。サンカは比較的新しい歴史しかなく、貧富の差が広がるなかで度重なる大飢饉に襲われた江戸末期、貧困層がヤマに逃げ出したのがその起源とみる。
江戸時代、寺の宗門人別改帳によって人々は個人単位で把握されていた。それをもとに明治になって戸籍制度ができ、サンカの定住化もはかられた。
漂泊するサンカは、旦那衆や百姓のいる普通の村はサンカを追いだそうとした。被差別部落でも差別されたが、受け入れたのも被差別部落の住民だった。
サンカは、箕などの竹細工や川魚漁を生業とした。春から秋は天幕で移動して川魚漁に従事し、冬場は箕などをつくる半定住生活をしてきた人の証言も興味深い。被差別部落の側に立ち、さまざまな問題に取り組んできた筆者でなければ当事者の立場に寄り添うこうした本は書けなかったろう。
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▽14 支配的権力から差別されてきた少数派集団は、自分たちのアイデンティティを確立しようとして、近世も後期に入ると、それぞれの集団で由緒書を作成してきた。「家船」と呼ばれた漂海民の集団は「浮鯛抄」という壮大なフィクションで組み立てた由緒書を作成。18世紀末ごろと推定されている。神功皇后伝説からはじまる巻物。
▽22 近世初頭の頃には惣村として成立していた古い村々では、土地持ちの高持ち百姓を中心に共同体的結束が強く、正体のわからぬ「さすらい人」に対する警戒心が強かった。村境には「乞食・遊芸民の類は立ち入るべからず」といった制札が掲げられていた。
▽24 「ミナオシ」箕を軒先にたてかけておくと、いつのまにかちゃんと修繕してあったそうだ。
▽25 市町村史誌に注目。
▽40 サンカに出会ったらいち早く姿を隠した方がよい。もしも目線があえば必ず襲われる……という風聞がまかり通っていた。(中学時代)
▽46 明治期のサンカに関する情報は、無籍者の探索につとめていた警察が握っていた。▽52 サンカ論が再燃したのは、70年代に入って、歴史民俗学と文化人類学のブームが到来してから。「周縁」「底辺」「辺境」「土俗」がキーワードとなって「移動」や「漂泊」も新しい視座から見直されるようになり……五木寛之が85年に「風の王国」を発表し、センセーションに。
▽57 サンカ名称の発生地は「雲伯石の3国」か。
▽58 足かけ7年に及ぶ天保大飢饉の被害が最も大きかったのは、中国山地一帯の農山村。餓死を逃れて山に入り、漂泊する流民となった。「サンカモノ」「サンカ」というネーミングはこの中国地方が起源である……
▽67 天保の飢饉 全国平均では4分作、関八州は3~4分作、五畿内は4~5分作、山陽道は5、6分作、いちばん凶作だった山陰道は2~3分だった。
▽72 ……村民の41.5%が餓死・病死・行き倒れで死んだのだった。……居宅での死亡者の多くは、他出して袖乞いをするだけの体力のない老人と幼少児だった。
▽73 木地屋 惟喬親王の縁起書をもって各地の木地屋を組織したまわった。神札を配って神事の代銭をあつめ、そのかわりに由緒書を与えて職の免許を出した。
ところが小椋谷において勢力争いが起こり、君ケ畑、大君ケ畑、蛭谷の3村に分流し、それぞれが諸国木地屋の支配本所を名乗って争った。君ケ畑の総支配所が「高松御所」だった。
▽74 大飢饉が引き金となって、幕藩体制の社会的経済的危機が激化した。離村する農民が続出。都市には貧窮民が多数流れ込んで、……一揆や打ち毀しが多発した。……一揆に参加して逃散した者が「野非人」となって山野を徘徊していた。
▽93 中国地方でサンカと呼ばれた人たちの生業は、春から秋までは川魚漁であり、晩秋から冬場にかけては竹細工と棕櫚箒づくりだった。
▽101 県の公文書で、サンカは「略奪」「強姦」「殺人」「放火」をおこなう極悪の犯罪者集団であると決めつけられた。……「山家」を「悪漢」と決めつけて……サンカ掃蕩を口実として、警察システムの増強をはかろうとした。……このような視点がやがて警察関係全般に広がり、ジャーナリズムにも。そのような潮流に執拗に抵抗したのが柳田国男だった。
▽112 サンカモノの発生の時期は、天明期から天保期にかけて。土地や恒産をもたぬ下層の民は、餓死を免れるために村を離れて山へ入るなどして……漂泊しながら、川魚漁や竹細工でなんとか生き抜いていった。
サンカモノと呼ばれた漂泊民の存在が、官側で記録されるようになったのは近世後期から。名称の発生の地は、山陽道・山陰道であった。
▽115 1880年までの官側報告書では、サンカは「山家」と表記されていた。それが山に潜む盗賊を意味する「山窩」になった。
▽135 大正9年から翌年にかけての柳田の旅。世に紹介されていない下積みの民衆の生活や民俗を丹念に記録。この頃の柳田は、従来の定説では、その中心的視座が「常民」論へ傾斜していく過渡期とされる。だが「山人」論と「特殊民」論から出発した若き日の柳田の初志は、まだ持続されていたと私は考える。少数派集団について、若い頃に抱いていた熱い思いはなお枯れずにあった。それを実証するのが「ポンの行方」
▽152
▽157 「サンカは犯罪団体」という鷹野の「大胆な断案」に対しての柳田の反発。警察から集めた情報に依拠する鷹野を批判。
▽163 アナーキストとしての山窩
▽172 鳥居龍蔵 日本民族は単一民族ではなく、アジア各地からやってきた6系統からなる複合民族であることを明らかにした。
▽177 柳田は播磨地方の現在の福崎町生まれ。兵庫県は被差別部落の人口では全国1位。83市町村に341部落がある。旧5カ国のなかでも、古代から皮革生産地として全国に知られていた播磨地方に被差別部落が特に多く分布している。
▽196 柳田も、「坂の者」起源説の喜田も、中世起源であると考えていた。私は両説とも破綻していると判断する。
▽206 自分たちの適切な呼称を獲得するまでには、支配文化と対抗していく長い闘争の前史が必要だった。自分たちの集団のアイデンティティを確認していく作業が先行しないと、適切なネーミングを見つけることはできない。(〓マヤやウタリ)
……人間の認識活動は、まわりの事物や現象の名づけから始まる。この名づけによって、さまざまの対象を区別しながら、それを順次自分たちの知識体系の中に組み込んでいく。
権力を握り文化機構を占有している集団によって、少数派集団の名付けがなされていった。多数は集団とどこがどう違うかという点が強調され、その差異を際だたせるように、こちさらに負のイメージを帯びた文字が当てられた。「賤民」「非人」「穢多」も「山窩」もその例だ。そして「差異」は「差別」に転化していく。
▽218 全国的に「山窩」という漢字が当てられるようになるのは、明治中期に入ってから。警察情報をネタにした新聞報道によって一挙に広まっていった。
▽227 「倒語」芸能界の言葉との類似性 芸能人の出自故?
▽233 家船中には「日本書紀」に出てくる「神功皇后伝説」や「平家物語」で語られている「平家落人説話」を基にして、家船の由緒と来歴を物語るかずおおくの口碑が伝えられていた。
▽238〓〓〓
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▽14 支配的権力から差別されてきた少数派集団は、自分たちのアイデンティティを確立しようとして、近世も後期に入ると、それぞれの集団で由緒書を作成してきた。「家船」と呼ばれた漂海民の集団は「浮鯛抄」という壮大なフィクションで組み立てた由緒書を作成。18世紀末ごろと推定されている。神功皇后伝説からはじまる巻物。
▽22 近世初頭の頃には惣村として成立していた古い村々では、土地持ちの高持ち百姓を中心に共同体的結束が強く、正体のわからぬ「さすらい人」に対する警戒心が強かった。村境には「乞食・遊芸民の類は立ち入るべからず」といった制札が掲げられていた。
▽24 「ミナオシ」箕を軒先にたてかけておくと、いつのまにかちゃんと修繕してあったそうだ。
▽25 市町村史誌に注目。
▽40 サンカに出会ったらいち早く姿を隠した方がよい。もしも目線があえば必ず襲われる・・・という風聞がまかり通っていた。
(中学時代)
▽46 明治期のサンカに関する情報は、無籍者の探索につとめていた警察が握っていた。▽52 サンカ論が再燃したのは、70年代に入って、歴史民俗学と文化人類学のブームが到来してから。「周縁」「底辺」「辺境」「土俗」がキーワードとなって「移動」や「漂泊」も新しい視座から見直されるようになり・・・五木寛之が85年に「風の王国」を発表し、センセーションに。
▽57 サンカ名称の発生地は「雲伯石の3国」か。
▽58 足かけ7年に及ぶ天保大飢饉の被害が最も大きかったのは、中国山地一帯の農山村。餓死を逃れて山に入り、漂泊する流民となった。「サンカモノ」「サンカ」というネーミングはこの中国地方が起源である……
▽67 天保の飢饉 全国平均では4分作、関八州は3~4分作、五畿内は4~5分作、山陽道は5,6分作、いちばん凶作だった山陰道は2~3分だった。
▽72 ……村民の41.5%が餓死・病死・行き倒れで死んだのだった。……居宅での死亡者の多くは、他出して袖乞いをするだけの体力のない老人と幼少児だった。
▽73 木地屋 惟喬親王の縁起書をもって各地の木地屋を組織したまわった。神札を配って神事の代銭をあつめ、そのかわりに由緒書を与えて職の免許を出した。
ところが小椋谷において勢力争いが起こり、君ケ畑、大君ケ畑、蛭谷の3村に分流し、それぞれが諸国木地屋の支配本所を名乗って争った。君ケ畑の総支配所が「高松御所」だった。
▽74 大飢饉が引き金となって、幕藩体制の社会的経済的危機が激化した。離村する農民が続出。都市には貧窮民が多数流れ込んで、……一揆や打ち毀しが多発した。……一揆に参加して逃散した者が「野非人」となって山野を徘徊していた。
▽93 中国地方でサンカと呼ばれた人たちの生業は、春から秋までは川魚漁であり、晩秋から冬場にかけては竹細工と棕櫚箒づくりだった。
▽101 県の公文書で、サンカは「略奪」「強姦」「殺人」「放火」をおこなう極悪の犯罪者集団であると決めつけられた。……「山家」を「悪漢」と決めつけて……サンカ掃蕩を口実として、警察システムの増強をはかろうとした。……このような視点がやがて警察関係全般に広がり、ジャーナリズムにも。そのような潮流に執拗に抵抗したのが柳田国男だった。
▽112 サンカモノの発生の時期は、天明期から天保期にかけて。土地や恒産をもたぬ下層の民は、餓死を免れるために村を離れて山へ入るなどして……漂泊しながら、川魚漁や竹細工でなんとか生き抜いていった。
サンカモノと呼ばれた漂泊民の存在が、官側で記録されるようになったのは近世後期から。名称の発生の地は、山陽道・山陰道であった。
▽115 1880年までの官側報告書では、サンカは「山家」と表記されていた。それが山に潜む盗賊を意味する「山窩」になった。
▽135 大正9年から翌年にかけての柳田の旅。世に紹介されていない下積みの民衆の生活や民俗を丹念に記録。この頃の柳田は、従来の定説では、その中心的視座が「常民」論へ傾斜していく過渡期とされる。だが「山人」論と「特殊民」論から出発した若き日の柳田の初志は、まだ時ぞkうされていたと私は考える。少数派集団について、若い頃に抱いていた熱い思いはなお枯れずにあった。それを実証するのが「ポンの行方」
▽152
▽157 「サンカは犯罪団体」という鷹野の「大胆な断案」に対しての柳田の反発。警察から集めた情報に依拠する鷹野を批判。
▽163 アナーキストとしての山窩
▽172 鳥居龍蔵 日本民族は単一民族ではなく、アジア各地からやってきた6系統からなる複合民族であることを明らかにした。
▽177 柳田は播磨地方の現在の福崎町生まれ。兵庫県は被差別部落の人口では全国1位。83市町村に341部落がある。旧5カ国のなかでも、古代から皮革生産地として全国に知られていた播磨地方に被差別部落が特に多く分布している。
▽196 柳田も、「坂の者」起源説の喜田も、中世起源であると考えていた。私は両説とも破綻していると判断する。
▽206 自分たちの適切な呼称を獲得するまでには、支配文化と対抗していく長い闘争の前史が必要だった。自分たちの集団のアイデンティティを確認していく作業が先行しないと、適切なネーミングを見つけることはできない。(〓マヤやウタリ)
……人間の認識活動は、まわりの事物や現象の名づけから始まる。この名づけによって、さまざまの対象を区別しながら、それを順次自分たちの知識体系の中に組み込んでいく。
権力を握り文化機構を占有している集団によって、少数派集団の名付けがなされていった。多数は集団とどこがどう違うかという点が強調され、その差異を際だたせるように、こちさらに負のイメージを帯びた文字が当てられた。「賤民」「非人」「穢多」も「山窩」もその例だ。そして「差異」は「差別」に転化していく。
▽218 全国的に「山窩」という漢字が当てられるようになるのは、明治中期に入ってから。警察情報をネタにした新聞報道によって一挙に広まっていった。
▽227 「倒語」芸能界の言葉との類似性 芸能人の出自故?
▽233 家船中には「日本書紀」に出てくる「神功皇后伝説」や「平家物語」で語られている「平家落人説話」を基にして、家船の由緒と来歴を物語るかずおおくの口碑が伝えられていた。
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