■NHK出版新書241117
筆者は、江戸期の伊藤若冲らの絵を再発見した「奇想の系譜」の辻惟雄の弟子だ。江戸期の縄文的な美術の価値をほりおこした師匠の知見を踏まえ、日本の美術を「縄文と弥生のハイブリッド」と断じる。
装飾的でエネルギッシュで自由奔放な縄文の造形に対し、弥生の土器は、調和のとれた美しいフォルムが特徴で、機能的にも無駄がない。こうした弥生的な美が「日本的美」の特質とされ、学校で教わる日本美術の名品は、洗練・シンプル・静的・淡白だった。弥生的な美が主流になることで、縄文的美はゲテモノあつかいされてきた。日光東照宮はまさにそのターゲットにされた。
日本の美術は、水墨画やわびさびといった弥生的なものが主流となるが、桃山時代の豪華絢爛たる絵画や東照宮、若冲といった縄文的な芸術が地盤の奥底から間歇的にふきだしてきた。
明治以降、西洋美術の流入もあって、「流派」からはずれる若冲らの奇想の系譜はわすれられた。弥生的な桂離宮を評価したブルーノの意見をもとに東照宮は下品と評された。「縄文土器はシンプルな弥生土器よりおくれている」とか、「陽明門は桂離宮などにくらべて品がない」という内容が教科書にも載るようになった。
そうした評価をくつがえしたのが岡本太郎であり、辻惟雄だった。
一方、21世紀になるころから縄文ブームになり、弥生的なシンプルなものを下にみるようになってくる。筆者はそれには異を唱える。
日本美術は、縄文と弥生の「ハイブリッド」であり、外来の刺激を換骨奪胎して独自の美に昇華してきたという特質がある、と考えるからだ。
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▽3 赤瀬川原平との「日本美術応援団」は2000年。そのころは日本美術の展覧会は閑古鳥が鳴いていた。それから20年、「日本美術の逆襲」。
ネットの影響。
2000年、京都国立博物館で「特別展覧会没後200年若冲」展は、ネットによる口コミで広まった。これがブームの引き金。
▽18 若冲のような絵師を教科書でとりあげてこなかった理由のひとつは、日本の美術史が「流派」の歴史として編まれてきたことにある。
▽20 学校で教わる日本美術の名品は「洗練」されていて「シンプル」、あるいは「静的」で、どちらかというと「淡白」
端正で繊細な優美さこそが日本美術の正統とされてきた。
▽21 装飾的で、エネルギッシュな縄文時代の造形に対し、弥生時代の土器は、調和のとれた美しいフォルムを特徴としています。機能的にも無駄がない。こうした弥生的な美が「日本的美」の特質であるとされてきた。
縄文的美をときにゲテモノあつかいしてきました。そのターゲットにされてしまったもののひとつに、日光東照宮。まさに縄文的建築美の代表。その評価は20世紀に入って急降下。
1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮を「モダニズム建築の造形美に通じる」と絶賛し、東照宮は「権力を誇示するだけの俗悪な建築」と切り捨てました。
▽27 利休の佗茶は絢爛豪華な桃山時代だからこそ成立し得た。……黄金の茶室をつくった秀吉を、わずか2畳の薄暗い庵に招き、漆黒の茶碗で茶を献じた。無類の派手好きだった天下人をギョッとさせた。……過激な思想のもとに体現された。
利休が長谷川等伯を秀吉に引きあわせたのも、2人が縄文的なエネルギーをみなぎらせた成り上がり者だと熟知していたからでしょう。
▽30 岡本太郎や辻惟雄らの再評価によって、かつて「流派史の寄せ集めに過ぎない平板で無機的な編成」と先生が嘆いた日本美術史は、少しずつ書き換えられてきました。
▽31 縄文的美の復権はかなり進みました。しかし今度は、弥生が割を食っている気がします。
▽41 縄文という時代区分が定着したのは、終戦以降。戦前の歴史観では、古墳時代より前は、いわば「神話」の時代。その時代の遺物は、先住民族の手によるもので、天孫降臨に起源する大和民族の作ではありえない、ということになります。
戦前の美術史学者が日本美の頂点としたのは、仏教伝来以降の、洗練された王朝美術でした。
▽49 高松塚古墳の壁画を、岡本太郎は「手先だけの職人芸」と酷評し……
▽52 日本の美術史は長らく「弥生」の側からのみ語られてきました。……飛鳥時代から奈良時代にかけて、大陸スタイルを丸ごとコピーしたような、均整のとれた仏像がつくられたのはその好例でしょう。……「高松塚古墳」の壁画も、遣唐使が大陸からもたらした文化を完璧に再現した一級品です。
▽53 縄文の価値が認められはじめたことと、若冲に始まる日本美術ブームの時期が重なるのは偶然ではありません。たとえば、縄文の造形において重要な表現に「穴」があります。目や口、鼻など、体に開いているたくさんの「穴」。外と内との結界であり、祖となるものを内に取り入れる扉でもある。若冲の絵にも「穴」の表現が随所に見られます。
▽84 曾我蕭白 明治以降、アカデミズムからゲテモノあつかいされてきた。
▽87 白隠 50代半ばから本格化し、60代をすぎたころから、作風はどんどん自由に、型破りに。名品とされるもののほとんどは70台以降。
▽89 禅宗絵画の歴史は、中国から水墨画が伝わった南北朝時代にさかのぼり、室町時代には雪舟をはじめとする名手が腕をふるっています。しかし、江戸初期の白隠の画は、従来の禅宗絵画とはまったく次元の異なるものです。……弥生という地層の下にある縄文プレートをギリギリと動かし、のちの絵師たちが縄文的なるものに覚醒する、いいきっかけとなったのではないでしょうか。
▽89 北斎も縄文的
▽97 魚沼市の曹洞宗の西福寺。開山堂の天井の立体的な彫刻装飾。〓縄文の彫刻美を継承しているように見える。
▽105 熊本市現代美術館の「相撲生人形」
▽111 三越本店の「天女像」佐藤玄々
▽116 雪舟の真価をよみとくキーワードは、アカデミズムが漠然と持ち上げてきたような「精神性」などではなく、「逸脱」と「乱暴力」だと私は考えてします。
▽140 利休がつくった茶室「待庵」。2畳のスペースに、頭を垂れ、這うようにしなければ入れない躙口……秀吉を招き入れ、何の造作もない真っ黒な茶碗でふるまいました。
……成り上がりの戦国武将の美意識を、おそらく半分はバカにしていたのだと思います。……削る美をひとつの思想としてきわめた千利休は、命をも削ってこれを貫いたのです。
▽147 龍安寺の石庭で外国人が「テツガク」したがるようになったのは、1950年代に鈴木大拙がアメリカに禅の教えや文化をつたえ、これに影響されたジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグといったヒッピーカルチャーの旗手が「ZEN」を持ち上げたことが一因。
日本人が龍安寺にいくようになったのは国鉄が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを展開した70年代以降。意外に最近のこと。
▽146 狩野派は室町時代後期から明治のはじめまで、400年以上も命脈を保ち続けた日本絵画至上最大の画派です。
……狩野探幽は、幕府の主立った造営事業で障壁画制作の指揮をとりました。公共事業を独占するゼネコン的な組織には、永徳の頃のように執拗に描きコム余裕はなかったはずです。探幽が志向した余白の美は、「省エネ画法」だったのではないか。
……ゼネコン化した江戸狩野派は、絵には面白みがなくなっていきます。
▽168 国宝の縄文土偶5体のうち、最も注目しているのは「仮面の女神」です。「太陽の塔」に煮ていると思いませんか。出土したのは2000年だから岡本太郎は見ていない。
▽169 大阪万博で太郎は「ベラボーなものをつくってやる」と宣言し、すでに丹下健三が設計していた大屋根を突き破る、高さ70メートルもの塔をたてるという構想をぶち上げました。丹下は太郎の構想に激怒し、取っ組み合いの大げんかになったという逸話も。
万博のテーマは「人類の進歩と調和」。丹下の大屋根も、技術の進歩が人類にバラ色の未来をもたらすという趣旨に沿ったものです。「人類は進歩なんかしていない!」と太郎はマッコウから否定し、未来志向の優雅な大屋根を突き破り、奢り浮かれる人間を睥睨するかのような、ベラボーな巨像をつくったのです。...大地から湧き出た巨大な縄文土偶だ……
▽198 狩野一信の「五百羅漢図」 きわめて縄文的で、奇想度もダイナマイト級 増上寺
▽202 世界的名声を手にしえた日本人画家は、めいじから昭和を通じて藤田嗣治ただ一人と言っても過言ではないでしょう。
そんな状況が大きく変化したのはここ20年ほど。村上隆、草間彌生、杉本博司など……
▽207 自分の目で観る。知識で頭がいっぱいになっている人は、絵を観ていません。
……絵を観る前に、解説ボードを読むのはやめていただきたい。
▽210 江戸時代の美術にとって不幸だったのは、明治期にうけた西洋美術の洗礼に加えて、敗戦後、「
GHQが徳川治世下の美術を封建制の遺産として目の敵にしたことでした。日本人もこれにならって、特に幕府の御用絵師だった狩野派の絵は、戦前とは比較にならないほど価格を下げることになってしまいました。
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