MENU

魚津フォーラム米騒動を知る

■魚津フォーラム米騒動を知る <NPO法人米蔵の会>
▽米蔵の会理事長 慶野達三「米騒動は今日の国民一人一人の生活、基本的人権を求めた先駆けであり、歴史的に大きく評価されます」
▽大成勝代 編集長 魚津の米騒動は社会に混乱をもたらしたという目に見えない根深い負い目をこの町は負わされてきました。一人一人の人生に降りかかった痛みでした。それを口にすることはタブーに近い長い年月がありました。……米騒動によって、その後「すべての国民の生活を最低限度保証しなければ国や社会の発展はない」という社会保障の発想へ私たちの社会が目を開いた、言えるのではないか。
米蔵は水産会社の所有で今も倉庫として使われています。……100年もの間使われつづけてきたから、この蔵は残ってきた。米騒動の米蔵を考えるとき、米騒動の時点だけを切り取るのではなく「町があって、この蔵が今も使われている」ことを大切に考えたい〓
▽麻柄一志 魚津埋没林博物館長。富山市生まれ。
横山源之助も出身。米騒動は展示物がない。
「教科書からも米騒動の魚津の町の名前が消えた」といわれるが、中学の教科書からは消えたかもしれないが、高校の教科書にはのっている。
……大正7年7月23日の事件・米騒動の魚津の記事がインパクト。8月3日には「女房軍いよいよ猛る。また現れた新集団」
富山県は8月7日に高岡新報の夕刊を発禁処分に。14日には寺内内閣は米騒動に関する一切の報道を禁止する命令を出しています。大阪朝日新聞をやり玉に挙げ……12月1日大阪朝日新聞は紙面で全面降伏。
……明治以降魚津では米価が急騰すると、貧しい人たちは自衛手段としていろいろなところへ押しかけたりして、役場、米国商、町野有力者の所へ行ってなんとかしてもらい、何らかの成果があった、という実績があった。
……当時の十二銀行の倉庫から船積みに出そうとするのを止めてしまった。
……大町公民館から黒部側へ2,300メートルに米騒動発祥の地という建物が残っている。
米蔵から北海道や樺太へ送る米を積み出していた。農家から米を集めて北海道へ送るという業務まで銀行がやっていた。
……米騒動の時は米は投機の対象だった。金融商品としての位置づけがあった。米がどこかへ行ったというより、マネーゲームとして米価が上がったと言われます。
▽現地見学会 大町公民館。大町海岸公園の横山源之助碑。
▽紙谷信雄 魚津在住。魚津歴史同好会会長。
はしけで汽船へ運搬する。女の「なかせ」(仲仕) 米が食べられないと腹が減って、大きい俵を女仲仕がはしけへかついで積み込む仕事ができなくなる。……買ったときの値段で売ってください……とお願いする。
……8月5、6、7日ぐらいは富山県の海岸地帯のほとんどの町で騒動が起きるようになってしまっていた。9日くらいになると名古屋、10日になると京都……。
……米騒動は社会運動の分野とか労働運動であると考えられてきているが、最近は、それだけでなく、米騒動をもとにして民主主義的な基本的人権、その当時得られていなかった権利などを要求しているというように考えられるようになってきた。……役場が米を買い、安く売って救済する……社会福祉というものが重要であると大きく認められるようになった。〓
普通選挙権獲得の運動も大正7年に起きた。滑川の島屋という旅館へ集まって、滑川普通選挙期成同盟会を全国にさきがけて開いた。米騒動の直接の影響だった。
……米騒動によって、次第に民衆をあまり無視できないような時代になって行く。言論の自由とか集会の自由とかもなかったが、米騒動の影響で今日の基本的人権も認められる方向へ向かっていった。
▽西頭徳三「米騒動の背景」 静岡市在住
地租改正。西南戦争の軍事費でインフレに。明治14年に「松方デフレ」。それで生活苦になった人が金持ちにカネを借りる。そのときに担保として「地券」をあずけた。松方デフレが終わるころ、農村で金持ちとそうでない農家に別れる。このころはまだ小地主。
……大正6年にロシア革命が起きた。シベリアへ軍隊を派兵するという噂が広がった。当然米が不可欠ということで、米の値段がどんどん上がる。これで米騒動につながる。これから先に小作争議が続発する。
日本経済が坂を上りつめたのが大正7,8年。このあたりで「米騒動」が起きた。地主と小作の対立、労働者と資本家の対立とかの内部矛盾がたまっていった。
昭和4年世界恐慌、昭和5年農業恐慌。大正のはじめ、満州・台湾・朝鮮で米をつくってもってくるという政策を進めた。その効果があらわれ、国内生産量が減っても値段が上がらなかった。これが農業恐慌のひとつの原因。そして満州事変、つづいて東北地方の凶作。昭和13年には国家総動員法……。(植民地支配が招いたファシズム〓)
▽立花雄一 法政大 東京在住 米騒動と横山源之助。
……米騒動について最初に論文を書いたのは横山源之助。……米騒動は起きただけでなく、すぐに手当をはじめた。社会保障みたいなものが全国的に始まった。
……1軒から1人出ることになっておって、町内がつーつーになるように非常に機動性があった。
……ばあさんたちの行動パターンも同じで「米を安くよこせ」と言っているだけで「ただでよこせ」とは一言も言っていない。立派なもんだ。
▽浅生幸子 元富山市議 富山市笹津在住。女性史研究家。富山県は「男は女よりすぐれていると答えた人が多い上位県。
……男は漁に行って魚をとってくる。稼いでくるのが仕事。おんなたちはその魚を分配したり、陸地の暮らしや台所や地域の暮らしを。
……女沖仲仕として働く女たちは、おとっちゃんたちが漁に出かけている間、役場との交渉ごとももめごとも解決する能力を持っていたのではないか。ネットワークを持った地域のおかかたちのことを、当時の研究者は見落としていたのではないか。
……大正7年の米騒動のあと、女性の組織化がはじまる。今では婦人会というと古い保守的のイメージがあるが。大正時代にはじめて女性団体として富山県連合婦女会がつくられる。地域の中心的女性たちが「妻や娘に知恵をつけてしまう」「あすこへは絶対に家の女を出すな。読めも出さん」という大変な妨害にあいました。
▽斉藤正美 ジェンダー、メディア研究。
…米騒動は夜起きている。夜中に、女房どもが子どもを連れて動き回っていた。昼働いているから米騒動は夜おきる。つまり主婦ではなかった。
…日本に主婦という言葉が定着したのは戦後の高度成長期以降のこと。…「女一揆」と言おう。「米騒動」という表現では誰が何のためにやったかが見えてこない。富山の抵抗運動は他の地域とは違って、米の移出反対と生活の援助だけを求める運動であって、別個であり騒動ではなかった。女たちが連帯して地域の問題解決に当たったことを私は誇りに思いたい。
▽寺崎茂 魚津町上口生まれ。大町公民館長など歴任。
…今も残っている旧十二銀行の米蔵は、能登産の大谷石でつくられていて火に強い。能登通い、といって船の定期便が2日に1便ほど。能登からは小豆・瓦・大谷石など。
▽栗三直隆 滑川氏生まれ 浄土真宗本願寺派光明寺住職。
軍事優先の米政策はアジア全体の米穀需給関係を崩壊させ、日本の米騒動の原因となり、アジアの民族意識を高揚させ、中国の五四運動、韓国の三一独立運動などに結びついた。
1930年代には、韓国産米の50%以上が常時日本に送られた。当時の日本人の1人当たりのの年間米消費量は平気1石1斗、韓国人1人あたりは5斗で、米不足のため常に飢饉にさらされていた。
▽八木光昭 魚津在住。富山の文学を研究対象に。
横山源之助「日本の下層社会」小作人の生活事情の記述は、魚津の小作人がテーマ。
物価の変動があまりないもの、時代ではやり廃りのないものを一つあげなさいと言われると…私が利用しているのは、東京のそば屋さんのソバの値段。明治20年代は1杯1銭、30年代になると2銭、40年代になると3銭。覚えやすくて端数がない。
…宮沢賢治は「雨にも負けず…」で「質素な生活をしていきたい」といいながら、1日4合の飯と書いている。今ではとても食い切れない。昔は普通の人よりも質素な食生活をして4合の飯なんですね。
▽上野幸夫 文化財建造物保存技術協会など
土蔵は富山県内にたくさん残っているだけでなく、福野、福光、城端方面ではいまだに新しい土蔵がつくられつづけている。そんなところは全国にはほとんどない。それも昔ながらの造り方で4,5年かけてつくられている。〓〓
…岩瀬。背後に川を背にした方が有力な方々の住まい。川を背にしたほうはほとんど廻船問屋。
…漆喰は「白漆喰」が一般的と思っておられるでしょうが、「黒漆喰」という真っ黒な漆喰がある。富山県で見られるのはほとんど「黒漆喰の本磨き」という最高級のもの。
▽麻柄一志 魚津埋没林博物館長
県内の主な新聞で15紙。乱立時代。…水橋のことも、すべて高岡から電話なり電報なりで全国の新聞の方へ内容を提供している。8月8日までの全国紙の記事のすべては高岡がニュースソース。
…大阪朝日の記事。「白虹日を貫けり」 王朝が倒れるといういみにとられて、発行禁止処分を申し立てられる。朝日は12月1日つけで全面降伏。
…この事件以降、大手新聞は「大本営発表」的な記事しか書かなくなっていく。
…横山源之助。
▽北原俊郎
「戦争に行ったら、魚津の出身やというて、お前らお上に逆らった、と往復びんたを食わされた。だから我々は何もしゃべらんようになった」という発言があった。
▽金沢敏子 元北日本放送ディレクター
…「横浜事件」富山県泊町、現在の朝日町が事件の端緒の地。泊事件とも呼ばれる。今もある料理旅館「紋左」〓〓で撮影した写真を神奈川県警の特高が入手して、共産党再建の会議があったと決めつけて、写真に写っている全員を検挙した…。すべての人が凄惨な拷問を受けて4人が獄死した。この事件のキーマンとなったのが細川嘉六という国際政治学者。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次