NHK出版 20071107
あなたはだれ? 世界はどこからきた? という質問から入る「ソフィーの世界」。世界は何からできているか、と問いつづけたエジプトの科学者からはじまり、ギリシャのソクラテスにいたってようやく「哲学」が誕生する。
ソフィーストはあちこちの世界をわたりあるく知識の豊富な人だったが、ソクラテスは終生、アテネの町からでることなく、自分の内側にむかって省察をふかめ、理性を深めた。それが「理性」のはじまりだった。
ソクラテス以前の哲学者は自然界のすべてのものが「何からできているか」ばかりを問題にしてきた。ソクラテスとプラトンは「なにからできているか」ではなく「何であるか」を問題にした。何からできているかを答えても、「何であるか」はわからないことがある。それに答えるのが、現実世界をなりたたせる「型」=イデアというプラトンの思想である。
アリストテレスはイデアの世界は信じず、それぞれの物質・生物が形相と質料という2つの側面をもつと考えた。形相を質料から切りはなすイデアという考えを否定した。
キリスト教の哲学は、神と世界の関係を説明するためまずプラトンを手本とし、自然界内部の変化については、アリストテレスを手本とした。
哲学の歴史を俯瞰すると、ずっとずっと昔から今にいたるまで、プラトンとアリストテレスの思想の間をいったりきたりしているように見えてくる。
デカルトが「私」(主観)に焦点があて、それが大陸合理主義の源流となる。同時に、「まず感覚の中に存在しなかったものは意識のなかには存在しない」というアリストテレスの考え方を基本とするイギリス経験主義が生まれる。
それをふたたび統合するのがカントである。
経験からしかなにも生まれないが、経験を把握する色眼鏡をもっている。それが理性である、と考える。
実存主義にいたると、デカルト的な「主体」を否定して、「私」の本質なんてありえないと考える。キルケゴールは宗教とのかかわりからそう考え、サルトルにいたると、どうせ本質なんかない、状況とかかわるなかで「私」は変化すると考える。
……こうした哲学の流れをちょっとメルヘンチックでシュールで不気味な文体でつづったのが「ソフィーの世界」だった。おもしろいがどうしても理解できない部分や、細かいエピソードの位置づけがわからない部分があった。そうした部分の種明かしをするのが本書である。
だから、「ソフィー」を読む前に読んではいけない。
でも、唯一、この本だけを読んでいい部分が、ハイデカーの項目だ。
--忙しさに埋没して生きていては実存はみえてこない。忙しい今から目を転じて自分の死に思いをはせるとき、「今」が本当に輝きだす。
なぜ私の存在が「今、ここ」なのか、「今、ここ」でなければならなかったのか。わからない。でも、「今ここにある」という不可解な一回きりの事実がわたしに「存在する」ということを実感させてくれる--
といった文章は、著者の思い入れと人間観が浮き彫りになっていて、心を動かされる。
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▽元素が1つか2つか無数かの違いはあるが、永遠不滅なものが自然の変化の根底にあるにちがいないと考えた点でソクラテス以前の哲学者は一致している。無からはなにも生まれないと信じた。存在するものは永遠不変なもの、という考えと、存在するものは変化し移ろいゆく一時的なもの、という2つの概念が認められる。
理性に合うものだけが存在するという合理主義。と、その反発。その後の西洋哲学の葛藤の原型。
▽ソクラテス以前の哲学者は自然界のすべてのものが「何からできているか」ばかりを問題にしてきた。ソクラテスとプラトンは「なにからできているか」ではなく「何であるか」を問題にした。何からできているかを答えても、「何であるか」はさっぱりわからないことがある。それに答えるのが「イデア」。
▽アリストテレスの質料と形相は、何からできているか、と、何であるか、の区別。 ソクラテス以前の哲学者とプラトンを統一したともいえる。
キリスト教の哲学は神と世界の関係を説明するためまずプラトンを手本とし、自然界内部の変化については、アリストテレスを手本とした。
▽無からは何も生まれない(世界はもとからあった)と考えたギリシア人たち、インド・ヨーロッパの思想に、「いつか何かが無から生まれたはず」とするキリスト教、ユダヤ教的な創造説が入ってくる。
双方を両立させたのがアウグスティヌス。プラトンの永遠のイデアを神のものとした。
▽デカルト 認識の確かさ 心身の関係の問題 の2つがテーマ。とことん疑い、夢と現実は区別ができないと考えた。それでも唯一信じていいのが「すべてを疑っていると考えている自分がたしかに存在する」こと。
デカルトは、心(私)の存在、神の存在、延長(ひろがり)の存在の3つは確実と考えた。
▽計測できるものはすべて計測すべき、という風潮のなかで、アリストテレスの考えはじゃまになった。雨や石のなかに、下に落ちようとする形相があるから。物体運動が生命活動のようにみられていたから、植物や動物にも魂があると考えられた。デカルトは新しい自然科学に見合う新しい自然観を打ち立てようと考え、自然界から生命らしきものをすべて排除した。物体も植物も動物もただの広がりいすぎないとされた。
では人間の身体は?
▽イギリス経験主義
魂が生まれる時、イデア界からもっていた生得観念など存在しない。心は外から情報を得なければ何も知ることができない、というのが経験主義者の共通の考え。「まず感覚の中に存在しなかったものは意識のなかには存在しない」というアリストテレスの考え方が基本。
▽カント
デカルトから大陸合理主義とイギリス経験主義にわかれる。それがカントで1つになる。
人間のみることのできる唯一の世界は、わたしたちの直観の形式にしたがう。それまでの、認識は外的世界の写しだという説明を逆転させた。時間と空間だけでなく、原因と結果を考えるという因果律もそうした「サングラス」のひとつ。
科学で自然をとらえるというのは、「空間、時間、因果律その他のカテゴリー」で世界をとらえるということ。
認識には質料と形相ではなく、知の素材と形式が必要。死後の生や神についての問いは理性で推論はできるが、そもそも知の素材がないのだから、正しい答えがでるはずがない。(感覚で経験できないから)
世界は始まりがあるか、ないか、ということに、理性では決着がつけられない。理性にとっては、どちらもとらえどころがないから。
▽サングラスの理性を「理論理性」、道徳を命ずる理性を「実践理性」とカントは呼ぶ。理論理性は、材料を提供してくれる感覚と協力しなくては、正しい知識を生み出せない。道徳はちがう。感覚を交えない「純粋な理性」の声にしたがえ、ということになる。感覚から手を切り、理性を純粋にもちいることが人間を自然界から自由にしてくれると説いた。
▽ロマン主義
ロマン主義者は、自然を生物的にとらえるアリストテレス的な自然観に共感をよせた。デカルト・ホッブスらの機械論的自然観に反発。人間の芸術も自然の生命活動の一環。
▽ヘーゲル
ロマン主義の汎神論を受け入れた。ロマン主義者は、カントが知ることができないと言ったものを、神秘的な直観でとらえたと主張した。それを「精神」とよんだ。ヘーゲルは「精神」を神のようなものとはとらえず、広い意味で人間がつくりだしたものと考えた。
・超歴史的真理はない
・歴史は合理的な方向に向かっている
・歴史は対立を通して前進する
▽実存主義
キルケゴール
ヘーゲルを批判。大事なのはいたるところにある「世界精神」ではなく、ここにしかない「わたし」。どこにでもある真理、客観的真理ではなく、「このわたしにとっての真理」を追究した。
サルトル
人間以外のものは自分にべったりくっついて自分から距離をとれないもの(即自存在。人間は自分から離れて自分に向きあうことができる(対自存在)。ものは存在するが人間は実存する。
人間の存在はいつも自分から抜け出しているから、「自分はこういう人間である」というふうに一般的な言葉で自分をつかもうとしても、無理。つかまらないという意味で人間は自由だ、という。
ペーパーナイフは、それをつくる職人の頭のなかに本質がある。本質存在(…である)が現実存在(…がある)に先行する。
が、人間の場合、神が人間の創造者だと考えると、神は自分がこれからつくりだす人間の本質をあらかじめ知っていなければならない。西欧哲学者は神の概念を捨てたが、依然としてどこかに人間の本質、普遍的な本性があると考えた。個々の具体的人間の生き方に先立って、人間性一般が前提された。カントの「道徳律」やへーゲルの「世界精神」はそのいい例。ニーチェは「神は死んだ」といったが、理性とか精神といった神の代用品をも否定する宣言だった。
サルトルは、人間にあっては、現実存在が本質存在に先立つ、実存が本質に先立つという。
〓レヴィストロースはこれに反論した。贈与論も。「人間の本質」を提示した。
ハイデガー
存在者のは存在をリアルに感じるいちばんの方法は、その存在者がなくなることを考えればいい。時間の考え方。人間は現在にだけ生きてるのではない。常に将来のことを考えながら今を生きている。常に未来のために現在があるという形。しかし、未来の未来の未来と考えていくとその先には死がある。死に直面して初めて私たちは、今ここにあることを、とびきり特別なこと、貴重なこととして経験できる。自分の過去も、自分しかもつことができなかった特別な過去としてリアルに受け止められる。ハイデガーが人間の実存を時間的な存在というのはそういう意味においてだ。
忙しさに埋没して生きていては実存はみえてこない。忙しい今から目を転じて自分の死に思いをはせるとき、「今」が本当に輝きだす。
なぜ私の存在が「今、ここ」なのか、「今、ここ」でなければならなかったのか。わからない。でも、「今ここにある」という不可解な一回きりの事実がわたしに「存在する」ということを実感させてくれる。〓
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