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作業中)異形の王権<網野善彦>

■異形の王権<網野善彦>平凡社 20121120
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□異形の風景
▽18 「非人」の衣装の流行は社会にひろがる。鎌倉時代になってからも繰り返しこれを禁じている。童、童子、牛飼童、猿楽田楽法師・・・も。
平安末期の摺衣と博戯、飛礫の輩との不可分の関係は、鎌倉時代になって「結党の悪徒」の風俗として明瞭になってきた。まさしく「京童」の姿、広く諸国に活動しはじめた「悪党」の服装もこれに重なる。
建武新政期「婆娑羅」の風潮が世を風靡した。そのなかに、茶花能などの源流のひとつが求められる。こうした芸能もまた「非人ん」とみられた人々の風俗に関わりをもっていた。
・・・応仁の乱で、貴族たちから忌み嫌われながら活躍した足軽たちも、こうした人々と深い関わりがあろう。
▽23 「異類」「異形」 鎌倉後期以降、否定的・差別的な意味で用いられるようになってくる。ただこのころ「異類異形」といわれた人々は、社会的に差別された人々とは言い難く、むしろ恐れ、畏敬の目をもって見られる場合すら見出しうる。
▽28
▽35 かつて山僧たちから「異類異形」と罵られた禅僧自身の口からこの同じ言葉が発せられたとき、驚くべき差別的悪口、罵倒となった。一休も。被差別民をまとめて「異類異形」ときめつける見方が露骨にあらわれてきた。豊臣の時代になるとさらに露骨に。「乞食、非人、鉢供、唄門師、猿使、盲人、・・・え多、皮剥」と並記したのち、それらを「イルイ異形、有雑無雑」と言い放っている。
社会的差別の進行を示し、同時期、摺衣と婆娑羅の流れをくむ「かぶき者」も「異類異形の出たち」とされ弾圧の対象となり、姿を消していった。
特定の人びとを「異類異形」と一括してとらえる見方がはっきりしてくるのが、南北朝の動乱をこえた室町期ごろから。
南北朝の動乱期は、「非人」の衣装の爆発的な噴出。鎌倉期まで、公家・武家・寺家が維持しようとしてきた服装の禁忌は、完全に崩れ去った。
・・・庶民が烏帽子を用いなくなってきた。源平藤橘などの姓や貞国・時国などを公式の文書で用いなくなる事実とあわせ、庶民の社会的な地位の変化を考えるうえで注目するべき。
▽52 古代・中世の京都を中心とした社会では、子供は自由で「天衣無縫」。「このような子供の世界のあったことが、今日昔話とよばれる童話を数々生んだのではないか」。こうした子供の自由さが「庶民の物見高い習性となって」「大人の間へ生かされた」「子供が自由であったのは単に幼くて、その行為に責任がなかったというだけでなく、子供たちに一種の神聖なものがあると考えられていたためであると思われる」(宮本常一)
▽66 「京童」少なくとも南北朝動乱まで社会的に意味をもっていた。童形の人が社会的に賤視されるとすれあ、それは乞食非人に対する差別が固まってくる室町期以降ではないか。その時期にいたると、童はその「聖」なるものとしての性格を失い、次第に「子供」そのものになっていくのではないか。
▽84 参籠通夜 男女が広い本堂の畳で一夜をすごす。密通の場になりえたのは間違いない。少なくとも鎌倉時代まで、参籠者の男女の間では性の解放された場と考えられていたのではないか。
▽90 「御伽草子」 1人旅をする女性は、性が解放されていたのでは。1人で旅する女性が、男に「捕られる」ことを当然とする慣習があったのでは。
ルイス・フロイス 「日本では娘たちは両親にことわりもしないで、1日でも数日でも、ひとりで好きなところに出かける」「夫に知らせず好きな場所に行く自由をもっている」「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉を失わなければ、結婚もできる」
▽95 色も匂いもあり、音も聞こえるような生き生きとした
歴史、人類の未来の中で日本人の果たすべき真に個性的な役割を明らかに示しうるような歴史、そして人の心に、いきるための力、まさしく日々の生活を変革する力をよびおこいうるような力強い歴史を叙述することは、歴史学を学ぶものにとっての義務といわなくてはならない。

□異形の力
▽128 一揆のいでたち 一揆する百姓たちが箕笠をつける。これは非人乞食の姿だったのは明らかだろう。
▽132 柿色の衣も。なぜ簑笠や柿色の衣が非人・乞食の服装となったのか。日本の古い信仰で簑笠を着ているのは鬼であり、・・・
簑笠の衣装は、本来、人ならぬもの、聖なるもののつけるべきものであった。
柿色の衣も、山伏の衣裳だった。山伏の異形性「非人性」の重要な要素だった。
▽136 かつての神の姿、聖なる衣裳が、次第に忌むべき人ならぬ人のそれとされていく過程。鎌倉末・南北朝期はその過渡期だった。悪党のみならず、異形中の異形というべき「ばさら」を肯定する風潮が世をおおったのもこの時代だった。
しかし室町戦国期、「異類異形」という言葉じたい「動物のさまざまな種類」(邦訳日葡辞書)とされ、奇怪な生物、妖怪変化
の意味に近づいてゆく。それは、山伏・禅僧が俗化の進行する時期であり、簑笠や柿色の衣が非人・乞食の服装とみられるようになっていく過程でもあった。
まさしくそのころから、一揆する百姓たちが意識的に、乞食・非人の衣裳を身にまとう
ようになる。
無縁の人の衣裳を身につけることで、行動の「自由」と、抑圧者と闘う
不退転の決意を表明したのではないか。それが「一揆の衣裳」として普遍化していくところに、近世社会の地底に脈々として進行する「無縁」の思想の自覚化の過程を見出すことができる。
自由民権運動は「簑笠を盾に・・・」というスローガン。それは江戸時代の百姓一揆の伝統を見事に受け継いでいるだけでなく、民俗の奥底に伏流する民衆の思想の凝縮された表現でもあった。
日本の社会と民俗のなかから生まれた、自覚的な「無縁」の思想の萌芽を、そこにみることができる。民権運動からわれわれのうけつぐべきもっとも大切なものの一つがそこに姿を見せている。
▽148 飛礫が鎌倉時代までは決して単なる遊戯でなかったことは明らかだろう。……千早城から「石礫」をもって寄手を売った楠木正成も「異類異形」の悪党。
南北長期を境にして、飛び礫は、社会外的性格を強め、遊戯化の傾向を明らかにする。
▽157 礫打はつい最近まで生き残っていた。子どもの石合戦、一揆などでの石礫、天狗礫などの超人的なものにかかわるもの。銭形平次のような飛礫の名手も。
▽179 鎌倉末・南北長期には、悪党・悪僧的、非人的な武力として、飛礫は歴史の本舞台で縦横に飛んでいた。それは後年の一揆・打ち恐しの飛び礫につながるゲリラ的な武器だった。近世の百姓たちが非人の衣装を身につけ、非人的な武器である飛礫をもって一揆をしたことに、注目するべき。
……武器として使われた飛礫は、弥生時代から中世前期までは西国において卓越したのでは。縄文時代以来の発達した弓矢の伝統をくむ東国では、鎌倉後期以前には飛礫を武器とすることは余なかったのではないか。

□異形の王権 後醍醐・文観・兼光
▽199 後醍醐の特異さを説き明かしたのは佐藤進一。後醍醐の驚くべき専制的な体制のモデルは、宋朝の君主独裁政治ではなかったか、と佐藤は推測。(「中国化」の論も〓)
異常な性格の後醍醐。
▽216 天皇の居所の内裏のなかに、物売りや「聖俗いずれとも判断のつかない者ども」が出入りした。後者のなかに、覆面をつけ、足駄をはいた非人・「悪党」のいたことは確実。「婆娑羅」の風が噴出する。後醍醐は文観を通じて、「異類異形」といわれた「悪党」「職人」的武士から非人までをその軍事力として動員し、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。「異類異形の輩」の中心は後醍醐だった。
▽219 後醍醐は現職の天皇でありながら、自ら法服をまとい真言密教の祈祷をおこなった。
▽224 後醍醐は人間の深奥の自然、セックスそのものの力を、自らの王権の力にしようとしていた、といえるのでは。……この時期、非人を「周縁」に追いやろうとする力が強く働き、「性」も暗闇に押し込めようとする動きが著しくなっていた。それへの反発力を王権の強化のために最大限に利用したのではないか。……後醍醐の直面した「危機」の深刻さがその背景に。
……天皇家は幕府に押され、内部からも古代以来の天皇制を瓦解する可能性すらはらむ深刻な危機。
▽234 ……商人が内裏に出入りできたほどの商工民の重視、宋元風の文物・制度の大胆な摂取に目を向ければ、義満の政治を先取りした一面もある。……元の制度にならい、銅銭鋳造のみならず紙幣まで発行しようとした。
▽237 ……だが3年で没落。東西の王権・権威が二つながら一挙に瓦解した。頼るべき権威がないなか、武士、商工民、百姓にいたるまでの各層から、自治的な一揆、自治都市、自治的な村落が成長する。(惣村)
……鎌倉期までの天皇家領はほとんど例外なしに、「独身の皇女」の名義にされていた。「聖なる管理者」としての役割が負わされていた。が、南北朝動乱後は、こうした機能は消え去った。
天皇にうかがわれた「聖なる存在」としての実質はほとんど失われ、大きく変質した。後醍醐の「異形の王権」の倒壊がその決定的な契機であった。
天皇と結びついていた大寺社の権威も低落。聖なるものの権威の低落は、その「奴婢」として特権を保持していた、供御人、神人、寄人の立場にも影響を与える。それゆえ、多くの商工民、芸能民はそれぞれに世俗的な権力に特権の保証を求める一方で、分化してきた職能を通して実利を追求し、冨の力によって「有徳」になる道をひらいていった。自治的な都市はこうした人々によって形成される。
実利の道に進めなかった芸能民、海民、非人、河原者などは、社会的賎視の下に置かれることになった。聖から賤への転換。遊女も、神仏につかえる女性として、貴族との婚姻も普通だったが、賤視にさらされるようになる。
▽242 南北朝動乱は社会のあり方を大きく転換させた。社会を統合する権威自体の構造の大きな変化と結びついた転換。「聖」なるもののあり方がここで大きく変わった。
▽243 14、5世紀、東日本でも、西日本とは別の権威が模索されつづけていたと思われるが、この頃、沖縄が琉球王国として列島主要部とは別個の権威を確立し、北方にも「夷千島王」を自称する人が現れてくるのも、こうした権威の構造の大転換と無関係ではあるまい。
転換後の権力の分散と、一向一揆、キリシタンなどの宗教を暴力によって統合・弾圧した織豊政権……
後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。
▽261 真宗が被差別部落の寺院としての役割を広く果たし、真宗門徒の村には、伝統的な民俗行事が稀薄といわれ、真宗門徒は寺院とともに、江戸時代後期、集団的に移住している。

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