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瓦礫の中から言葉を<辺見庸>

■瓦礫の中から言葉を<辺見庸>201211 NHK出版新書
石巻出身の辺見氏が震災をどう描くのだろう。「絆」とか「がんばろう」といった言葉の氾濫に違和感を感じ、被災状況の記事が定型化していることにおかしさは覚えるのだけど、どうしても的確な言葉が見つからない。彼ならばどう表現するのだろうと思いながら読んだ。
今回の震災では、関東大震災や敗戦時に比べてはるかに貧困な表現しか生み出していないという。
例えば原爆投下時「濛々と煙る砂塵のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた」(原民喜)「アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム」といった描写が生まれた。それに対して福島第一原発事故では「福島第1原発から出た放射性セシウム137は広島の原爆の168個分」などという記号のような記事ばかりで、「惨状の内面化の作業が、大震災と原発事故でどれほどなされたのか疑問」という。
自主的な表現統制も顕著だった。
関東大震災のとき「ああ愉快と 言ってのけようか。一挙になくなっちまった」(折口信夫)「都が炎上したのは、妖艶な女が天然痘で死んだやうなものだ」(川端?)といった表現が生まれた。東京大空襲の記憶に重ねて串田孫一が幻想した人間滅亡後の眺めは「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」というものだった。堀田善衛は「階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる」と「さわやかな期待」を抱いた。
そこには、絆とか国難とか元気、勇気、やさしさなどという説教くさい常套句はない。でも、こんな表現を、東日本大震災と原発事故ではつかう人はいなかった。「不謹慎」と考えるからだ。
「言論を弾圧する許しがたい敵は、鵺のような集合意識を構成しているわたしたちひとりひとりの内面に棲んでいる気がいたします」と辺見は書いている。
「経験したこともない大きな出来事に遭遇すると、ニュースメディア内部では異論の提起、自由な発想がとどこおり、沈黙と萎縮、思考の硬直とパターン化におちいったりするものです。表現の全分野で自己規制がはじまります」という指摘は、まさにその通りだと思った。
3.11のあの日、震災の映像を見ながら「たいしたことがない」と思おうとした。車が津波で流されても人は乗っていないと信じようとした。正常性バイアスが働き、それを超える事態が起きると、どうしてよいかわからず硬直してしまう。その結果、表現はパターン化していく。よほどの精神力と努力がなければパターン化は崩せない、と実感させられた。

=========抜粋=========
▽17 ふるさとが失われてみて、……その記憶の深さ、大きさ、重さ。いかにそれらが大事だったのか。自分の表現をささえてきた基礎に、あの潮騒、波音、磯の香り、魚臭い空気があったのだということを思い知らされました。……若いときは、なんだ、あんなところと嫌がって、記憶から故郷を排除しようとしたこともありました。……戦場を見て……自分には精神の中心となる場がない。根なし草だと思っていました。わたしにはルーツがないのだとさえ思ってきました。……ああ、わたしは、この廃墟と瓦礫の源となる場から生まれてきたのだなあと思わされたし、わたしの記憶を証明してくれるもおんが、いま壊されてしまったのだという失意が、自分が見積もる以上に非常に大きく重いものだということを、日々、痛いほど知らされているのです。わたしにも「場」があった、ということです。
▽25 ……破壊そのものももちろん大きいけれども、それを言い表す言葉が数字以外にないとしたら、こんな寂しく苦しく切ないことはありません。
▽83 「1984年」 3.11以降の言語表現上の怪現象の多くは、強権的言語統制ではなく、自主的表現統制なのでした。「だれが責任をもってそう命じたわけでもなく、なんとなくそうなっていく」主体のない鵺のような現象。
▽84 「あいさつ」「楽しいなかま」「ごめんね」「思いやり」の語群の刷り込みは、社会生活上の禁止事項の示唆にもなっていった。集団的な過剰抑制。
▽90 関東大震災。戦争でも内乱でもないのに、戒厳令が施行され、朝鮮人、中国人虐殺の背景に也、関係した軍人は軍法会議でさばかれなかった。
……経験したこともない大きな出来事に遭遇すると、ニュースメディア内部では異論の提起、自由な発想がとどこおり、沈黙と萎縮、思考の硬直とパターン化におちいったりするものです。表現の全分野で自己規制がはじまります。
▽102 福島第一1〜3号機から放射性セシウム137は広島の原爆の168個分。ただの記号にすぎない記事。存在をほとんど記号化された役人や記者たちが臓腑から吐いたガスのようなもの。
▽109 「濛々と煙る砂塵のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた」原民喜。惨状の内面化の作業が、大震災と原発事故でどれほどなされたのかわたしには疑問です。
▽118 原爆投下に関する昭和天皇の言葉(1975年10月)「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」 言葉の軽さ。「アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム」と、釣り合うこともつながることも……ない。
▽125 石原吉郎 人は「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである」
▽142 大震災以降……いわく言いがたい表現上のデキレース、言葉の一本調子、全般的不自由感がとくにたまりかねます。
▽147 10万5000人以上が死んだ関東大震災を描いた折口信夫の詩「ああ愉快と 言ってのけようか。一挙になくなっちまった」 いまよりよほど表現の自己抑制がなく、縦横に発想していた。予定調和ではない。
▽152 「都が炎上したのは、妖艶な女が天然痘で死んだやうなものだ」式の直喩を、東日本大震災と原発事故につかう人はいません。「不謹慎」という心的メカニズムが自動的にはたらくからではないか。
▽155 絆とか国難とか元気、勇気、やさしさなどという説教もない。ことごとく今と逆。奈落のなかの「爽快感」でしょうか。
▽174 堀田善衛 人間は他者の死や不幸に、じつは、なんら責任をとれないものだ−−という切ない感情。……しかし、津波にのまれ倒壊した建物の下敷きになった人の顔を思い浮かべて「人間存在というものの根源的な無責任さ」を自分自身に感じたという、堀田の重大な告白に類するような、つきつめた内省の文章は、このたびの大震災では寡聞にして聞いたことがありません。
▽181 折口は関東大震災を見て「ああ愉快と 言ってのけようか。一挙になくなっていまった」。川端康成は短編の登場人物に、関東大震災は人間が絶対かしてきたことを一気に相対化した、ことおなげに言わせた。東京大空襲の記憶にかさね串田孫一さんが幻想した人間滅亡後の眺めというのは、、「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」というものでした。堀田善衛は「階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる」という、「さわやかな期待」をもちました。ふとどきで不謹慎な明るさ。

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