■中国化する日本<與那覇潤> 文芸春秋 2012022
世界で最初に「近世」に入ったのは、世襲貴族制を全廃し皇帝独裁とした宋朝で、ヨーロッパの近代啓蒙主義は、宋朝で体系化された近世儒学のリメイクだという。そして、宋朝の社会のしくみが全世界で今もつづいているという。
宋時代の中国は火薬も羅針盤も活版印刷も発明しただけでなく、科挙という実力主義の人材登用制度をつくり、徹底的な自由競争経済だった。
中国という近代的なシステムと、日本独自の封建制とが争ったのが鎌倉から戦国に至る中世の動乱であり、中国(=グローバルスタンダード)に背を向けた近世を迎えたのが江戸時代だった。
明治維新は「中国化」を志向し、巨大な格差を生みだして失敗し、「昭和維新」による江戸時代化が進んで戦争になだれこむ。戦後も「江戸時代」がつづく。中選挙区制はまさに世襲制で地域権力を継承できるシステムだった。
だが今、長かった「江戸時代」は終焉を迎え、日本は「中国化」しつつあるという。
中世や江戸時代のとらえ方などが網野史学などと微妙にずれるところが気に掛かるが、世界史の流れのなかで日本独自の封建制の姿をとらえ、新しい歴史観で歴史を解読していておもしろい。
たとえば日本の中世は「武家の時代」のではなく、「中国の貨幣を使っていた時代」という。後白河法皇と平清盛は、宋銭を流入させ既存の貴族から実権を奪おうと試みた革新勢力で、荘園をもつ貴族や寺社と坂東武者が反動勢力だった。源平合戦は、中国化勢力と反中国化勢力の戦い(革新vs.反動)であり、この二極分裂があったから、戦国時代に至るまでほぼ常に内戦状態だった。「反中国」が「中国化」を駆逐して勝利したため江戸時代は安定した。
時代遅れの身分制度が江戸時代に維持されたのは、イネとイエの普及で基本的に食べていける環境が整い、自由市場社会の魅力が薄れたためだ。幕藩体制は「領主も領民も同じ土地(会社)で生きてるんだから、ほどほどで妥協しよう」という体制だった。
ではなぜ幕藩体制は崩壊したか。
江戸時代、家を継ぐ長男以外は、都市へ出て「フリーター」になった。江戸や大坂は太平洋戦争以上の死亡率を誇る職場だった。都市がなく次男三男の口減らしができない薩長土肥から維新の火の手があがった。まさに「希望は戦争」だった。
明治維新とは「日本独自の近世」という旧体制の自壊であり、儒教道徳に依拠した専制王権、科挙の導入、世襲貴族の大リストラ(秩禄処分)、中央派遣の知事による「郡県制」という「中国化」だった。
ところが日清戦争で軍備拡張予算を認めてから「税金をとってもいいから地元に鉄道を」という戦国大名的な土建行政型政治権力が再生する。
大正から昭和にかけて、社会全体の「再江戸時代化」が進む。昭和初期まではホワイトカラーだけが「うちの社員」だったが、戦時中の産業報国会の時代に会社村の正規メンバーとなる。「暗い昭和」の時代、一貫して社会主義政党が伸びたが、既成政党ではなく軍部と連携し、江戸時代のような反動的な体制をつくるのに寄与した。
明治維新は日本社会を「中国化」する試みであり、それへの反動たる「昭和維新」が再江戸時代化への挑戦だった。明治維新は結局失敗し、昭和維新は成功してしまい、戦争への道を走ることになった。
戦後も、中選挙区制、党内派閥、世襲、地元の利権のため選挙をたたかう……という田中角栄の政治は「長い江戸時代」の象徴だった。小選挙区制導入で、党中央の権力が強くなり、選挙と政党のしくみが「封建制」から「郡県制」に変わった。
筆者は最近の「中国化」(グローバル化)をどう評価しているだろう。
「これまで地域や職場ごとに結ばれてきた絆を失ってもなお、私たちは生きて行けるだろうか。中間集団なき流民と化した国民と、生活の手綱を一手に握る国家とが対峙したとき、かつてない専制権力が生まれないだおうか。……私たちが生きていかなければならないのは、1000年も前に『歴史の終わり』を迎えて変化の止まった中国のような世界なのだ」
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▽18 「神」の概念抜きで純粋に人間の理性を信奉する宋明理学の教えが、西洋近世の哲学者たちが中世のキリスト教的世界観を脱するうえでも触媒になった。火薬も羅針盤も活版印刷も、実は宋代中国の発明だ。
ヨーロッパは先進国である中国を近代になって追い抜いたが、それは例外的な時代にすぎず、現在の中国の台頭は、もとの状態に戻りつつあるだけ。
▽31 内藤湖南の中国論 宋の画期的なのは、貴族制度を全廃して皇帝独裁政治を始めたこと、経済や社会を自由にするかわりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみをつくったこと。
科挙という官僚採用試験が採用され、唐まではのこっていた貴族による世襲政治が廃止される。皇帝個人の子飼い同然にして中央集権を徹底する。
「封建制」→「郡県制」。農民に貨幣を行き渡らせ、商売にめざめてお金の味を知る。自由市場ベースの経済が発展して貨幣がもうかれば自由に移住するから、領民を囲い込む自給自足的な荘園経営はなりたたなくなる。
▽35 自由競争で振り落とされたときの保険のために「宗族」という、同族が助け合う父系血縁ネットワークが生まれた。だから、結婚しても姓を変えずに父親と同じ姓をなのる。
▽37 皇帝(中国、米国)の周囲に権力が集中したときの生き延び方。徹底してほめる。「その理念に恥じないだけの政治を頼みますよ」とお願いする。宋朝以降の中国でほめる際の道具として使われたのが朱子学。聖人とは……といった政治哲学。みずからの正統性を朱子学におく以上、皇帝は、単なる恣意的な専制者ではありえない。皇帝も官僚も、それにふさわしい振る舞いを求められる。
▽42 科挙の全面導入を可能にするくらい、豊富な紙と進んだ技術を完備していたのは、宋朝だけだった。
紙が貴重品で印刷技術もない同時代の日本ではできないから、上流階級の家ごとに統治機構の内部でのポジションを割り振って家庭内で後継者を育成する。官位の家職化、家産化が進行。
▽44 中世は、院政の成立からはじまる。日本中世は「日本人が中国の貨幣を使っていた時代」
宋銭を流入させ、農業と物々交換に立脚した古代経済を一新し、荘園制に立脚した既存の貴族から実権を奪い取って行く。宋朝のしくみを導入しようとした革新勢力が、後白河法皇と平清盛のタッグだった。
そうしたグローバリズムへの反動が、貴族や寺社の既得権益勢力(権門)と、国際競争に適した主要産品がない坂東武者たち。(東北は金を輸出できるから競争力が強い)
源氏は、いわば利権屋ヤクザ集団。
▽47 源平合戦は、中国化勢力と、反中国化勢力の戦い。このような二極分裂があったから、戦国時代に至る中世は、ほぼ常に内戦状態だった。
「反中国」が「中国化」を駆逐して勝利したがゆえに、江戸時代は長期安定社会が実現した。
▽48 近世中国の5大特徴。権威と権力の一致。政治と道徳の一体化。地位の一貫性の上昇。市場ベースの秩序の流動化(字自給自足的な農村共同体をモデルとした秩序が解体)。人間関係のネットワーク化(近く深い地縁よりも宗族に代表される広く浅いコネクション)
その正反対が日本の「この国のかたち」になる。
日本人の「グローバル・スタンダード」への適応不全は、1000年前のチャイナ・スタンダードの受容を拒否してからはじまっている。
いま問われているのは、「日本史の終わり」。中国と同様のグローバルな秩序に飲み枯れる事態の可能性。
□
▽56 モンゴル帝国 シンプルな間接税を導入し、世界規模の市場交易を活性化した。全世界楽市楽座。元寇とは、モンゴル帝国主導の自由貿易経済圏に日本も入れ、という要求を「鎌倉男子」たちが蹴ったために引き起こされた、文字通り「しなくてもよかった」戦争。朝鮮の高麗王朝は、モンゴル騎馬軍団の浸入を許したが、国家としては滅ぼされていない。国難と騒ぎ立て、排外主義を煽動し、和平の余地などないかのごとくに偽装して、国民を戦争へと駆り立てた無能な軍閥政府こそ、かつて平氏を葬ってグローバル化の道を閉ざした鎌倉幕府。
自給自足経済に固執して、単に「中国大陸からの撤兵」に過ぎない要求をあたかも米国の奴隷になるかのごとく煽りたてて無謀な開戦に踏み切った「あの戦争」は元寇の後継者と見るべき。
▽57 モンゴルは銀を世界通貨としていたが、銀の絶対量が不足し、紙幣を発行した。その普及を促すため銅銭の国内使用を禁止する。そこで余った銅銭が日本にも流出し、鎌倉末期の日本では年貢の銭納化がすすむなど、怒濤の経済革新に見舞われる。
統治はガタガタに。
後醍醐。宋朝の皇帝専制を日本に導入しようとした。だが、御家人の筆頭である「反中国化」勢力の足利尊氏の助力を借りたのがあだになって追放される。小泉が自民党という政権基盤を切れずに「改革」が中途半端に終わったのと似ている。
▽61 中世日本は、「時々中国に似た政権が樹立されるがおおむね短命に終わる」。近世中国はその逆。「しごく稀」な例外の1つが、モンゴル帝国後の明朝。
1400年代前半の鄭和の大遠征のような海外拡張政策が継続されていれば、ヨーロッパの大航海時代など出現せず、中国はとうの昔に世界経済の支配者になっていたはず。
モンゴル帝国の衰退は、銀不足で紙幣に依存して経済が混乱したためとみられる。一般人が銀との兌換をあきらめきれない状況の場合、紙幣が銀に交換できないことは帝国の正統性を揺るがしてしまう。
人類が金本位制を完全にあきらめたのは大戦後であり、最後の兌換紙幣だったドルと金の交換が停止されるのは1971年。モンゴル帝国は、進みすぎていたがゆえに滅びた。
明朝は「反グローバル化」政策をとる。「里甲制」で移動の自由を廃止して、各戸ごとに生産物資を国家が公定して世襲させ、徴税も物納方式にもどし、海外貿易は朝貢形式しか許さない。=江戸時代化
明朝が自由市場を規制したのは銀不足だから。そこに、石見などの日本の銀山と、ポトシ銀山などがあらわれる。全世界の銀が中国へ一方的に流入する、1500年代後半の「銀の大行進」。
超高級品が中国から世界にあふれでていく。かくして戦国時代の16世紀は、全世界が戦国乱世になる。
この大混乱をどう収拾したかが、それぞれの地域の将来を決定することに。1600年ごろに作られた社会が今日までつづいている。
日本は江戸時代、中国は清朝、欧州は宗教戦争を収束させた「ウェストファリア体制」=近代主権国家のレジーム。
中国では、遠隔地の取引はコンパクトな銀ですませ、重たい銅銭は日常業務だけになる。その結果、日本に銅銭が入らなくなる。その結果、一度は銭納化された年貢を米で納めるという逆行現象が生じて、究極の自給自足的農業政権である徳川幕府ができる。
一方ヨーロッパでは、南米からぶんどった銀で、中国から高級品を買いまくった。ぜいたくをつづけるには、中国に何かをうりつけないといけないから、イノベーションへの欲求が生まれる。銀の大量流入によってインフレが起きたが、中国ではインフレはおきない。それで投資のチャンスができる。長期のインフレは、借金をしても返済時には負債が目減りするということだから、大規模に資本を投下して起業しようとなる。こうして産業資本主義が生まれ、文明の中心たる中国を追い抜くことに。
▽70 世界中に通用する汎用性の高いシステムとして、近世中国の社会制度は設計され、それを中国人は「ナショナル・プライド」としてきた。
清朝は、ほとんど政府が社会のために何もしない究極の自由放任政策をとった。社会に活気がうまれ、好景気に。一方で国が再分配機能を放棄しているから、絶大な格差がうまれる。親族ネットワークのメンバーを増やしてサバイブしようとするから、空前の人口増となる。それが近代における一時的な衰退を導くことになる。
□江戸時代
▽75 内藤湖南「日本史を1カ所で切るなら、応仁の乱の前後で切れる」 中国的な社会がつくられる可能性があった時代と、中国的な社会とは180度反対の日本独自の近世社会のしくみが定着した時代、という意味だと(筆者は)考える。(網野の場合とちがう 貨幣経済による分割?〓)
▽78 西洋の城は私的所有物だが、日本の城は「公共建築」 自民党のボス議員は、戦国大名の末裔。震災後に「自力救済(略奪)」に走ることなく、現代版の城郭=小学校や公民館へ避難できたのも、戦国時代の合戦にまでさかのぼる伝統があったからともいえる。
中国人は、「遠くにいるけどつながっている人」を頼りに危機を乗り切る癖がついたのに対して、日本人は「今一緒の地域で暮らしている人」どうしで結束する道を選んだ。
▽80 織田信長の最大のライバルは、本願寺。石山戦争は、「日本はいかなる原理にもとづいて近世社会を再建していくか」をめぐる争いだった。本願寺が勝てば、中国の朱子学体制とか、東南アジアの仏教王権とか、インドネシアのイスラム政体のような、宗教ないしは思想によって統合される近世社会を迎えた可能性がある。
ところが、信長以下の大名たちの「とりあえず飯は食わしてやるんだから、地元は黙ってついてこい」式のシステムが圧倒してしまう。「無思想な国民」をつくり出したのが織田信長ともいえる。
▽84 隣国で600年前になくなっている身分制度を維持しつづけた江戸時代。なぜあえて身分制を選んだのか? 徳川最初の100年で、イネとイエが全国に普及。中世までの日本は畑作の比率が高く収量が低い。農業だけでは自活できないから、自給自足を強制する荘園公領体制に不満を抱き、「中国化」政権を支持してきた。江戸時代の稲作普及によって、基本的に食べていけるという環境が整ったから、中国式の自由市場社会の魅力が薄れて来た。
水田農耕は、手間がかかるから、小規模経営にならざるをえない。中世までの大家族制が崩壊し、核家族に近いコンパクトなイエが農村でもあたり前になる。
イエとイネの好循環こそが、戦国時代のどん底から復活を果たした理由。
イネによってふくらんだ経済のパイをイエ単位ごとにばらまいたおかげで、身分制度の維持を、「昔は荘園領主限定のものだった特権の分与」と受け止めたのではないか。
▽89 中国「郡県制」><「封建制」江戸
領主も領民も同じ土地(会社)で生きるしかないんだから、ほどほどで妥協しよう、となる。(企業内労働組合も同様)だから、江戸時代の一揆は、春闘的な微温的なものとなった。
▽92 日中両国の特徴を混ぜて使う「混合体制」は、一番危険。
日本の「イエ」方式で長男に継がせるやりかたでは、その子が無能だったらおしまい。だから、現代の戦国大名たる自民党なぞはそれで政権を失った。(韓国や中国ならば、父系血縁ネットワーク全体から一番優秀そうな人材を選んで継がせる」
□徳川自壊
▽98 江戸時代、家を継ぐ人以外の男子は嫁をとれない。次男以下はオンナができない。モテないニート。実家に飼い殺してもらえる次男坊はよいほうで、多くの農家は余裕がないから、都市へ出て働け、となる。フリーターになる。岐阜県のある村から江戸時代最後の100年間に都市へ働きにでかけた男女394人のうち、奉公の終了理由として最多は「死亡」の126人。
江戸や大坂は、太平洋戦争以上の死亡率を誇る職場。つくづく徳川日本は美しい国。
「姥捨て山は偽の江戸、孫捨て都市は真の江戸」。若者の将来のために老婆が犠牲になるのではなく、イエを長男に継がせたジジイやババアが生き残るために、次男・三男を都市に捨てた。今も同じ。年金制度。
▽105 徳川日本の身分制は、「地位の一貫性が低い身分制」(身分の上のものが名を取る分、下のものが実をとる社会)その反対が近世中国=特定の勝ち組がすべてを独占して「敗者にはなにもくれてやらない」社会。
5公5民とは「石高の50%」。この石高は1700年ごろに測量されたデータで固定されていた。「検見取りお断り」は百姓一揆の絶対貫徹要求。封建制という「日本型労使協調体制」では増税を強行できない。名目税率にかかわらず、幕末期には農家の実収入に対する税率は20%台まで下がっていた。
▽107 「己が分をわきまえる生き方みんなが心得ていたことで、上位者も下位者もいたわり慈しみあう日本情緒が生まれた。譲り合いの美徳あふれる共生社会」ととらえることもできるし、逆に、「あらゆる人々が完全には自己充足できず、常に何かを他人に横取りされているような不快感をいだき、鬱々悶々と暮らしていたジメジメして陰険な社会」とも言える。(戦後日本やキューバの評価〓)後者のような感じ方をする人が増えてきたから明治維新が起きた。
▽110 北朝鮮経済崩壊の理由。極端な指導者崇拝で、金日成本人が全国を巡回し、場当たり的で気まぐれな業務改善命令をくりかえしたこと(李氏朝鮮の国王巡幸の慣習に由来) 全国を小規模の管区や生産単位に分割して、徹底的に自助努力による自給自足を要求した結果、需給バランスが崩壊して経済効率が悪化。
江戸時代も、天明飢饉の前後から、類似した状況がある。大飢饉が発生すると、藩を越えた食料の移出入が禁止され、自力での窮民救済が強いられる。小単位ごとの自給自足体制ゆえに統治機構のトップに解放者としての期待を託してしまう。北朝鮮と似ている。
▽112 松平定信の寛政の改革。朱子学を学問の基準と指定し、限定的ながら「学問吟味」というプチ科挙的な試験をはじめ、儒学熱が武家社会全体に広がる。「将軍は天皇陛下から支配権をお預かりしている」という大政委任論……すべて裏目に出る。必死に儒教の経典を読み解いた下級藩士は、徳さえ身についているなら身分は本来関係ないことに気づいてしまう。……「この腐りきった今の日本を根本から変えなくては」という跳ね上がり組が増殖する。大政委任論も、「陛下」の権威さえ振りかざせばいくらでも徹底的にコキおろせる、となる。
ずっと世界標準に背を向けて、独自規格(ガラパゴス携帯)でやってきたが、「どうせならグローバルスタンダードに」と儒者にいわれて、無理やり携帯にアンドロイドをインストールしたら暴走して動かなくなってしまった。ブロン。
対外政策も、以前はポルトガルなどの特定諸国に来航を禁じただけで、それ以外の国については規定していなかったが、定信は「原則来航禁止、ただし例外的な国だけ個別に許可」としてしまう。これが後に対米開国の際に「幕府は自分の出した法令も守れない」という印象をあたえ、討幕派を勢いづかせた。
▽116 都市がないので不平分子の口減らしができず、過剰人口が滞留していたのが、西日本。だから維新の火の手は薩長土肥からあがった、と速水融氏。奇兵隊の主力は農家の次男以下だった。彼らは「希望は、戦争。」の人たち。
1800年以降、「春闘」としての百姓一揆のマナーが崩れ、「若者主体の一揆」「武装集団による一揆」「放火を伴う一揆」が頻発する。「悪党のじだい」に。
▽121 「攘夷」を掲げて幕府を攻撃しながらその後あっさり「開国」に転向した討幕派の牛耳る維新政府は史上最大の公約違反政権。明治維新を気取った民主党と同じ。
明治維新とは、耐用年数の切れた「日本独自の近世」という堤防が内側から決壊したことで、「中国化」の濁流に一気におしながされただけだったのでは。「新体制の建設」というより「旧体制の自壊」にすぎない。
▽124 藩主のもとで不合理なまでの低身分・低賃金に甘んじていた下級武士層。彼らが藩政を乗っ取り、ラディカルな革新にすすむ。
▽129 明治維新とは西洋化ではなく中国化。「学問のすすめ」の平等は「機会の平等」であり「結果の平等」ではない。「勉強しないようなバカは自己責任だから将来貧乏になってもぐだぐだいうんじゃねえぞ」
儒教道徳に依拠した専制王権、科挙の導入、世襲貴族の大リストラ(秩禄処分)、中央派遣の知事による「郡県制」
▽131 明治維新=壮大な規制緩和。官有事業の払い下げ。現在よりもはるかに「新自由主義的」で「市場原理主義的」だった時代の雰囲気。
▽133 「中国化」の時期を1000年近く遅らせたぶん、日本人は「西洋化」のために社会のしくみを一変させなければいけない時期と、歴史の必然である「中国化」のタイミングを合わせることができた。中国や朝鮮はすでに、すでに西洋と同様の社会を実現していたから、「西洋化」のタイミングを逸した。
▽138 自由民権運動 自由競争政策への不満と、江戸時代の不自由だが安定した社会への回帰願望。秩父事件なども、市場競争で没落した貧民層の破れかぶれの暴発だった。
▽139 江戸時代の庶民の識字率が高かったというのは、俗説。庄屋(村役人)や、日常的に行商人との交渉があった人など、仕事柄文字を扱う人だけは中世から読み書きができただけ。
リテラシー能力の格差が、近代以降の市場競争に適応できる人とできないひととの相違を準備していた。明治時代の自由化によって一気に表にでた格差こそが、日本史上最強の格差だった。(編野史学とのちがい〓)
▽140 殖産興業。官営時代の富岡製糸場は高コスト体質で赤字つづきのお荷物法人だった。明治政府の殖産興業政策は失敗。
▽145 明治の半ばごろから、江戸時代にもどりはじめる。
▽146 明治憲法
伊藤と師のローレンツ・フォン・シュタインは、君主権を制限し、国王の恣意的な政治介入を抑制する一方で、衆愚政治に陥りがちな議会にも権限を与えず、君主・議会の双方から相対的に独立した行政部に権力を集中させるべきだ、と一致した。
が、大宰相主義だとして反発を招く。
その結果、明治憲法には条文に「内閣」という言葉すらない。議員内閣制が規定されていない。首相に「他大臣の罷免権」が与えられなかった。だから大臣の一人がごねだしたら、最後は閣内不一致で総辞職せざるをえない、というリーダーシップをふるいにくい内閣制度になった。とくに「陸相、海相」のような「統帥権の独立」を背景に反論する大臣と対立した場合は、総理の側がゆずるか総辞職しかない。明治憲法の首相の権限は、江戸時代の殿様以下。
リーダーシップの弱い指導者の下、大臣から議員までみんながごねまくる日本政治の構図は明治憲法が作ったのであって、戦後憲法は、ゴネて得をする人の範囲を前より広げただけ。
▽151 中国化の時代だった明治初期、野党は、小さな政府、を要求していた。ところが、日清戦争で軍備拡張予算を認めたことが呼び水となり、戦後は「政府は税金をとってもいいから、オレの地元に鉄道を引いてくれ、工場をたててくれ」という戦国大名的な土建行政型の政治権力が再生する。
▽153 明治半ばから、政友会(自民党)をつうじて地盤に補助金を分捕るという江戸時代の「封建制」のやり方が定着していたが、官僚制度の方は、知事や警察署長を派遣するという近世中国風の「郡県制」のしくみのままだった。「日中間のブロン」
▽156 「政府の現実主義と民間の理想主義」 一見独裁的な専制政府よりも、在野の民主化勢力の方がほとんど常に外交問題に関してはタカ派かつ強硬的。「民主化勢力が影響力を発揮するにつれて、従来の『結果重視』のバランス思考が民間世論の『動機重視』の強硬一辺倒路線に飲み込まれて勝算のない戦争へ押し流された」という側面がかなりある。「自由民権うんどうや大正デモクラシーはすばらしいが藩閥専制や軍部独裁はだめだ」とする従来の見解とはまったく逆の視点。
「反日デモ」的な感情に支持されて議会の多数派を占める政権が誕生した場合、日本に対する姿勢が比較にならないぐらい強硬になるんじゃないか、という不安。「明治の日本を知りたければ今の中国をみよ」
□昭和の再江戸時代化
▽164 ヨーロッパ人がもはや「父親」に頼らず「組合」をつくって乗り切ろうとした近代の危機を、日本人は「父親」中心の「イエ」の結合によって突破しようとした。大正から昭和にかけて、社会全体の「再江戸時代化」
ヨーロッパの組合は、企業や地域を越えた同業従事者どうしで結束する。日本は会社別だから最後はお互い妥協する。「封建制」の江戸時代の百姓一揆といっしょ。……欧米の組合は、徹底するから、へたしたら企業が倒産することも。GM倒産も全米自動車労組の交渉力が強すぎたからともいわれる。
あらゆる企業を「藩」に見立てたがごとき会社別組合の導入。会社の「村社会化」
農家の次男三男も都会で結婚して家庭をもつことができるようになる。戦争と軍需景気のおかげで「都市の蟻地獄」が緩和された。
昭和初期まではホワイトカラーだけが「うちの社員」でブルーカラーは「所詮よそ者」扱いだったのが、戦時中の産業報国会の時代に、会社村の正規メンバーとなる。
盲点。女性労働者を単なる家計補助要員とみなし、女性の社会進出は抑制される。本物の江戸時代に「イエ」の周囲に存在した「ムラ」というセーフティネットが取り払われた。夫が亡くなると生きて行けなくなる。家族賃金慣行と専業主婦化が定着した大正末期から親子心中が増える。昭和時代はいわば「親子心中の時代」
▽174 第一次大戦後は、どの国も、社会主義的な再分配志向の政権運営が常態化する。
▽176 江戸時代の武士は無駄な公務員で、浪費省の官僚と同じ。意味もない公共事業に税金(年貢)を投じたおかげで、御用商人や宿場町にカネがまわり、徳川日本は戦国時代のどん底から景気回復を果たした。
……江戸時代に帰りたいと思っているそばから、世界の秩序が丸ごと江戸時代みたいな状態になり、江戸時代にひきもどされたのが、「あの戦争」へと至る「暗い昭和」の実像。たとえば議会政治は江戸時代にはないから、「再江戸時代化」すればその機能は大幅に低下する。
……江戸時代の枠組みにフィットする形であれば日本人は戦前から社会主義が好き。……「天皇制廃止」さえ撤回すれば釈放されることもあり……今でも経済政策は赤旗なのに文教政策は産經新聞という方々がけっこういるのは、この時代の名残。
▽181 二大政党制の崩壊。二大政党制の唯一の強みは、一党独裁にだけは陥らないという点にあるのに、昭和の日本人は「ふたつよりひとつがいい」と大政翼賛会をつくってしまった。ドイツやイタリアは、小党分裂が、独裁者による安定した統治への欲求を生んだケース。
戦前の暗い時代は、一貫して社会主義政党が伸びていった時代。「江戸時代には議会がなかった」という弱点。社会主義実現のため、既成政党ではなく軍部と連携する道を選ぶ。
「軍部がやる社会主義」のことを軍国主義と呼ぶ。集団ごとの「垣根でわけられた社会主義」=江戸時代由来の「封建制」と「勤勉革命」
▽184 ロシア革命以降の一国社会主義は、「垣根で分けない社会主義」で国家単位で丸ごと経済管理や住民統制をおこなうぶん、副作用が猛烈に強い。日本の社会主義は「会社」というムラごとに分割された封建社会主義だから、一揆がおきても営業がとまるのはそのムラだけで、副作用が最も少ない社会主義になった。
戦時中でさえ、全議席の5分の1弱は非翼賛の候補が当選した。中選挙区制で、地元に強固な地盤を有していた議員は推薦なしでも当選できたから。封建領主が皇帝独裁に歯止めをかけた、といえる。
軍国主義下の思想弾圧はすさまじかったが、社会主義国だったと思えば相対的にはマシ。
▽185 戦前以来、「貧乏人は自己責任」の自由主義者に対して、社会主義者は「進歩的」と思われていたが、共産党などの例外をのぞくと、戦時中はそちらの方が主に軍部と手をにぎって、江戸時代のような「反動的」な体制をつくるのに貢献してしまった。
戦後、社会主義者はその反省から平和主義に転じるが、自由主義者からみると「戦争中はあおったくせに」となり、感情的な反発が生まれる。……
明治維新は日本社会を「中国化」する試みであり、それへの反動たる「昭和維新」が再江戸時代化への挑戦だった。あらゆる教科書が教えているのとは逆に、明治維新は結局失敗し、昭和維新が成功した(してしまった)。
□中国に負けた日本
▽192 創氏改名の本質。日本民族に吸収するための同化政策ではない。朝鮮の親族体系は近世中国と同じ父系血縁ネットワーク式だから「夫婦別姓」。このような社会は、市場中心的で流動性の高い行動様式につながりがちなので、「再江戸時代化」の進んだ昭和日本の統治構造に組み込みにくい。「イエ」を単位として動員をかける近世日本以来の政治権力が支配しやすくなるように、新たな氏をつくって父系血縁集団を分割・弱体化するのが主眼だったとみられる。「同化」というより「江戸時代化」を強制した。
▽194 植民地経営は、統治コストの増大で「持ち出し」になる可能性も高い……「宗主国はかならずもうけている」というのは、実証的な根拠はない。確実なのは、植民地主義とは根本的に「大きな政府」の政策だということ。低賃金の朝鮮人労働者が内地に流入すると日本人の職が失われて困るから、現地に雇用をつくるために、総督府が公共事業を打った。
▽196 いつまでも鎖国外交。「江戸時代程度の外交ならできるが、それ以上は無理」。
▽198 江戸時代、米を大坂に運んで金にかえるという不自然な財政構造。満州は、広範な地域の住民が少数の中枢都市にでてきてそこで物資を売買して暮らすという江戸時代の大名のような慣行があった。だから、都市を押さえることで支配できた。
ところが中国は、社会の底辺まで自由市場取引が発達しており、農村で都市を包囲する毛沢東型の戦術でないとダメだった。
重慶爆撃は、一般市民を無差別爆撃することで降伏に追い込む戦略爆撃のハシリ。人類史上に誇る独創的な発明。そのツケは、やがて東京大空襲や原爆投下という形で払うことに。
▽200 中国は文官優位の社会で、日本と異なり武人への敬意にとぼしい。徴兵制は機能せず、徴兵逃れの希望者から金をとって替え玉になり……となる。日本人が粛然として徴兵されたのは、地域社会における隣近所の目線があるからで、中国には近世以来そんなものはない。替え玉兵士を「非国民」として非難するどころか、やり手の商売上手ともてはやすのが、当初は中国の世論だったとさえいわれている。
個別の戦闘では日本軍が勝つが、当の中国人ですら掌握できない社会をまともに管理できるわけがない。
……中国社会を統治するには、清朝満州族がやったように、中華の伝統となっている世界普遍的な道徳の体現者としてふるまうしかない。逆にいえば、いくら首都や国土を失っても、この中華の原理さえ手放さなければ最後は絶対に勝てる。
国民政府の中国空軍は1938年、西日本の領空に侵入しながら、爆弾ではなく反戦ビラをまいて帰還する作戦を敢行した。当時は中立だったアメリカでも中国評価が一気に高まる。蒋介石も毛沢東も、グローバルな正戦論で日本の江戸時代型軍事動員を凌駕しようとした。そして実際に凌駕し、対英米開戦に追い込まれる。「あの戦争」とは、日本と中国のふたつの近世社会が命がけて雌雄を競った戦いであり、日本はアメリカに負ける前に中国に負けた。
▽206 「大東亜解放」。戦国時代以来の無思想で内向きな日本人が、めずらしく世界で普遍的に通用することをめざした政治理念を掲げるという流れのなかで、日本社会の一部に「中国化」の流れがよみがえる。知識人の政治参加。近衛文麿が日本初のブレーン・トラストをつくり「賢人政治」「御用知識人」が幅を利かせるようになる。陽明学社の安岡正篤。明治初期に切り捨てられたはずのパンクロッカーが政権中枢に返り咲いた。
経済社会の構造が「再江戸時代化」していったのに対し、政治権力の面では「中国化」が進展した。だが独裁者東条といえども中国皇帝にはなれなかった。戦争半ばで総辞職。無謀な戦争の遠因となった「長い江戸時代」の制度や思考様式が、一方で確かに独裁政治に対する歯止めとしても機能していた。
□戦後日本
▽212 当初「唯一戦争に反対した人々」として出獄かなった共産党員の知的権威は圧倒的だった。
▽214 戦時下で日本社会に生じていた巨大な変化が、戦後も一貫して持続した、と歴史学は考える。総力戦体制は本来、社会主義と相性がよい。
吉田茂の日本自由党が市場経済志向の保守政党として最右翼にあり、これと日本社会党とのまんなかに、文化的には保守だが、経済的には再分配を重んじる民主党があるという3大政党制だった。ドイツと同じ。
片山政権までが戦後世界のグローバルスタンダードに即した政治の展開だった。自民党が作られなかった戦後史のほうが、西側陣営における「普通の国」のかたちだった。2009年の民社国連立政権などは、ようやっと自民党ができる前の状態に戻したにすぎない。
▽218 戦後の絶対非武装主義は、戦中の一億玉砕思想の裏返し。動機だけを見て結果は考えない「気分は陽明学」の系譜。
「9条を守るだけなら3分の1の議席で十分」だったから社会党は困らなかった。自民にとっては、改憲さえあきらめれば常に過半数を社会党がゆずってくれた。1955年以降、護憲の理想を社会党ほかの野党がとり、政権の実益を自民党がとる、棲み分け状態としての「55年体制」が成立。憲法9条という形で「中国化」した理念が残る一方、「武士が富を商人に、商人が権威を武士に」譲りあった江戸時代のごとく「政権選択では自民党が勝ち、憲法論争では社会党が勝つ」地位の一貫性の低い政界の構図が固定化した。
▽221 江戸時代並みの外交しかできない日本人 わたってこれたのは、冷戦構造のなか3つしか選択肢がなかった(アメリカかソ連か中立非同盟か)から。熱戦が展開されたアジア世界で唯一、「安保条約を結んでアメリカと組むが、憲法9条を維持してアメリカの戦争のおつきあいはしない」という、一番おいしい居場所を占めることができた。
▽224 農地改革によって、小作人時代には無産政党を支持した零細農家は農協という新しい村請制に組織されて、地方農村は保守政党の強力な基盤。高度経済成長路線は、地方のムラの人々を会社という「都市のムラ」へと引っ越させる政策だったから、自民党は自分で自分の地盤を切り崩してきた。高度成長を通して、3分の2から過半数ライン近辺へ議席数を減らす。その窮地を「より徹底した再江戸時代化」によって救った人物こそ田中角栄。公共事業で経済成長の成果を農村に還流させる。その結果、72年の前後から都市部への人口流入が止まり、経済成長率も鈍化する。鎖国という貿易規制によって沿海大都市の発展に歯止めがかかる一方、内陸諸藩の地方都市が中途から繁栄した江戸時代をなぞりなおすもの。
中選挙区制。党内の派閥、世襲の地縁、地元の利権を売りにして選挙をたたかう。田中政治とは「長い江戸時代」の象徴。
▽230 本当の江戸時代が、次三男にきわめて冷たかったように、新しい江戸時代も、正社員になれなかった男性や離婚した女性にはつれない制度だった。……昭和日本の栄光と悲惨のすべては江戸時代とともにあった。
▽232 オイルショックとは、久しぶりにイスラーム世界の側が欧州から歴史の主導権を奪い返した大事件。
チリのピノチェットは、20世紀としては画期的な独裁者で、国民に政治的な自由は一切与えないが、経済活動はすべて市場の自由に任せる政策をとる。ヒトラーやスターリンや毛沢東らとちがって、政府からの見返りが何もないような独裁政治。近世中国と同じ。
1978年鄧小平は「経済だけは自由化させる」方針に。新自由主義は、英米中3国で同時にはじまった。アングロサクソンのやり方がグローバルスタンダードだとするあんら、ここで中国が日本を追い抜いた。
欧州のルネサンスは、イスラムが保存してくれていたギリシャ・ローマ古典の再輸入にすぎない。……中国やイスラームのような「本当に進んでいた社会」が歴史の担い手として再浮上してきたの1979年。
▽237 IT技術進展によるものづくりのモジュール化。漢字とコーランは、人類史上最古にして最強の無ジュール製品。
▽239 第一次大戦が世界を「江戸時代化」させる効果を持ったのに対して、第4次中東戦争以降の世界は顕著に「中国化」しはじめていた。ケインズの世紀がハイエクの世紀に。
▽240 バブル 自社株の発行でなく銀行からの借り入れ(間接金融)中心の慣行が、戦時の40年体制下に成立し、戦後も、「預金はするが株はもたない」生活を送ってきた。ところが預金は株よりインフレに弱い。では株でももとうとしても、日本には十分な株がない。だから土地に向かい、地価高騰となった。
▽247 小選挙区制導入で、党中央の権力が強くなり、日本の選挙と政党のしくみが、「封建制」から「郡県制」に変わった。……細川政権で導入された「郡県制」の政治システムをはじめて巧みに使いこなしてみせたのが小泉氏の権力の源泉だったというのが政治学者の見解。
▽259 小泉の自由競争政策が、格差を拡大したという批判。あの幕末維新の「中国化」熱が冷めた明治後期と同様に、民意は「江戸時代」への郷愁にひきもどされはじめる。
▽260 格差拡大の原因は、家族構造の変化にある。どこかの「イエ」に入ればなんとか食っていけるという江戸時代以来の「封建制」のセーフティ・ネットが破綻してしまったのが、90年代半ば以降の格差社会化の最大の要因。
〓平安時代まで荘園やイエといった「封建制」の特権にあずかれたのは貴族だけで、鎌倉時代でそこに武士が加わる。江戸時代になると、イネの普及によって百姓もイエを持つようになるが、そこから排除された次男三男の不満が明治維新をおこす。大正以降は重化学工業化のおかげで彼らにもイエを持たせてやれるようになり、企業の長期雇用と低い離婚率によって、みんなが「封建制」の恩恵を受けられるようになる。とはいっても、フリーターやシングル女性は「自己責任」ということにして面倒はみない。
▽266 基本的人権や議会制民主主義が、中国になくて欧州にあるのはなぜか。実は、法の支配や基本的人権、議会制民主主義などは、中世の貴族の既得権益だった。身分制という「遅れた」時代に生まれた特権が、実は現在の人権概念の基礎をなしている。ヨーローッパの近代化とは、貴族の既得権益を下位身分のものとわけあっていくプロセスだった。中国には宋朝時代に特権貴族なんかいなくなっていた。
日本には江戸時代という「封建制」があり、既得権益や生活保障の担い手として、ムラやイエといった集団が貴族の代わりをした。土地は「家産」だからとりあげられない。ムラぐるみ直訴すれば最低限の要求は聞いてもらえる……これらのしくみが明治以降も中選挙区制や終身雇用企業や会社内組合や近代核家族といった形に再編されることで、、なんとなく、西洋近代的な議会政治や社会福祉ができているのかなあ、という状況をつくりだしてきた。しかしそれは「西洋的な近代化」ではなくあくまで「再江戸時代化」にすぎない。
▽274 公務員バッシング 大正期の「政治主導」は、政治家も官僚もボロボロになり、軍部に油揚をさらわれるだけにおわった。
▽277 集団ごとに現状を維持してあげる護送船団方式的「封建制」がもはや機能しないからこそ、組織に属さない人々にも政府直轄で給付がいきとどく「郡県制」の社会保障が必要とされる。農協行政にかえて戸別所得補償を導入したのと同様、時代の流れとしては必然なのだが……(ベーシックインカムなども)
▽283 北朝鮮 日本の天皇制、ロシアのスターリニズム、毛沢東主義……などのごった煮。政治と思想は中国様式、経済と社会は日本様式という形で戦時期に実をつけた昭和日本のブロンが、かの地域でそだちつづけたとみることができる。
▽290 儒教なみに現実離れしているけれども、妙に高邁でスケールの大きな憲法を持っているのだから、この際それを「ジャパニズム」の核にすればいい。独立宣言やゲティスバーグの演説が「アメリカニズム」のコアにあるのと同じ。
▽296 これまで地域や職場ごとに結ばれてきた絆を失ってもなお、私たちは生きて行けるだろうか。中間集団なき流民と化した国民と、生活の手綱を一手に握る国家とが対峙したとき、かつてない専制権力が生まれないだおうか。……私たちが生きていかなければならないのは、1000年も前に「歴史の終わり」を迎えて変化の止まった中国のような世界。
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