■日本の歴史をよみなおす(全)<網野善彦>ちくま学芸文庫20120214
われわれの原体験につながる社会は、室町時代ぐらいまでさかのぼれる。
集落を形成する「惣村」も、港や河原、中洲などに市が立って商工民や芸能民が集住した「町」も14世紀後半から15世紀に生まれた。そうした「大転換」は南北朝動乱期にあった。ではいったい何が「大転換」したのか--さまざまな切り口から解明している。
筆者によると現代は、当時できた村や町が崩壊といってよいほどの変化にさらされる「大転換期」だという。そんな時代を生きるためににも14、5世紀に学ぶ意味は大きいという。
□文字について
江戸時代後期の識字率は平均40%。村は自治的に年貢を請け負い、文字と数字を使える人が町や村にいることを前提にした世界でも特異な国家だった。江戸時代の文字の普及は、行政を文書で行う厳格な文書主義によるもので、いわば「上からの識字」だった。
鎌倉仏教は、庶民に布教するためカナをもちいる「下からの識字」を展開したが、17世紀のはじめまでに世俗権力に弾圧されてしまう。それ以後は、イスラムやキリスト教のような自立した宗教は力を持ち得なかった。そうした宗教の不在が、戦前の夜這いや歌垣にまで継続する、フリーセックスに近い習俗や堕胎・子殺しの多さなどの背景にあるという。
宗教弾圧によってパウロ・フレイレの言う「解放のための下からの識字」はつぶされ、レヴィ・ストロースが指摘した「支配のための識字」「均質化のための識字」になってしまった。
ちなみに江戸時代に至るまで、カタカナよりひらがながはるかに優勢だったのに、明治になると法律も軍隊も。初等教育でもカタカナが最初に教えられるようになる。これも支配のための言語支配のひとつの現れなのだろう。
江戸以降の日本は、均質的な文字の世界に対して、無文字社会(口頭の世界)に多様な文化が育まれている。〓岩手の遠野や能登、出雲などの豊かさは無文字社会の伝統を色濃く残したことによるのだろうか。
□貨幣と商業・金融
中国、宋から銭が流入し、13世紀後半から14世紀にかけて、金属貨幣がはじめて本格的に流通しはじめる。
モノとモノが交換される市場は、河原や中洲、浜など、聖なる世界と俗界の境に設定された。金融行為も、神から種もみを借りて、収穫後に利息の稲をつけて神に返礼する「出挙」から生まれた。12、3世紀までの商業や金融は、神仏との関わりにおいて成立した。だが、金融貨幣の流通によって14、5世紀から、聖なるものと結びついていた金融が、世俗的な金融に変化し商人や職人も世俗化する。南北朝の動乱で、社会の権威の構造が大きく変わり、神仏頼りでは特権を保持できなくなる。15世紀になると、商人や手工業者たちは守護大名などの世俗的権力に特権の保証をもとめるようになる。
室町時代の15、6世紀には、鎌倉新仏教の寺院が、祠堂銭の貸し付けを中心とした金融で寺院を経営しはじめる。「無縁所」といわれる寺は、土地の経営ではなく、資本主義的な商業や金融で寺を支えた。鎌倉新仏教は、商業、金融などに聖なる意味を付与した。欧州でプロテスタントが果たした役割を果たそうとしていた。(「プロ倫」)
しかしこれらの宗教は、16世紀から17世紀にかけての織田、豊臣、徳川幕府による大弾圧で力を失った。宗教倫理による資本主義の芽は、封建体制につぶされた。(ガナハ氏はこれを「江戸時代化」という)
□畏怖と賤視
律令国家が9世紀末に財政難になると、官庁に属していた手工業者をふくむ職能民は、国家から離れて集団をつくりはじめる。10−11世紀になると、国家による弱者救済は不可能になり、伝染するケガレに対する畏怖が貴族の間にひろがる。11世紀後半には非人といわれる集団が史料上にでてくる。
葬送を担った犬神人や非人は14世紀までは、神人や寄人と同様、聖なる方向に区別され、ときに畏怖される一面もあった。
明らかな差別語である「穢多」という言葉は、13世紀末の「天狗草紙」にはじめて登場する。ケガレへの畏怖が薄れ、嫌悪する意識がしだいに強くなってきたからだ。
「一遍聖絵」は、童姿の人びとや非人たちが一遍に帰依していく経緯を描いたとみられる。一遍の布教は「悪党」に支えられていた。一方、同時期につくられた「天狗草紙」は、乞食・非人・悪党を「穢多」とののしっており、13世紀末の「穢れ」「悪」をめぐる、思想的な葛藤が姿を現している。
鎌倉新仏教は、悪人・非人・女性にかかわる悪・穢れの問題に、正面から取り組もうとしたが、世俗権力によって弾圧され骨抜きにされるなかで、被差別部落や遊郭、博打打ちに対する差別が定着していった。
世俗化によって聖性がはぎとられ、鎌倉新仏教という平等思想がつぶされることで…差別が生まれた、という構図だ。
□女性をめぐって
ルイス・フロイスは、「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない」「日本では、堕胎はきわめてふつうのこと」「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」などと記している。
時代が古いほど、日本の女性の地位は高く自由だった。
奈良時代には女性の僧侶も多かった。9世紀以降、天台・真言の教団が戒壇での受戒から女性を排除したが、律宗は女性が僧侶つまり尼になる道を開いた。女流文学輩出という世界でもまれな現象は、未開要素がある女性の地位の高い社会に、文明的・家父長的な制度(律令)が接合したという希有の条件が生み出した。
14世紀以前には「女地頭」もおり、御家人の名主に女性がなる例もあったが、室町時代以降、外に表れる女性職人の姿は減る。江戸時代には女性が田畑を持つ権利はなくなる。だが、動産の権利は維持され、嫁入り道具を夫が質に入れることは、女性の側から離婚する理由になりえた。
通説では女性は自己主張できなかったとされる江戸時代でさえも、備中の真鍋島では女性庄屋がいた。妻の飛び出し離婚も実は多かった。明治初期の離婚率が非常に高いことから見ても、江戸時代の離婚率の高さがわかるという。
□天皇と「日本」の国号
地方財政の財源となった「租」は初穂の貢納で、出挙という形で人民に貸し出され利稲をとった。「庸」「調」は土地の特産物を首長にわたす服属儀礼が制度化された。いずれももともと社会にあった慣習を、公、国家に対する奉仕として制度化した。
特定の職を特定の氏が世襲的に請け負う「職の体系」は10世紀にほぼできあがり、天皇は「天皇職」を世襲的に継承することになった。
持統以来、江戸時代までの天皇は2、3の例外をのぞき、みな火葬で寺院に葬られた。昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以降、まだ「天皇」という名前さえない古墳時代のやり方を「復興」する形ではじめられた。
律令国家は衰え、10世紀になると東国は天皇の統治権から離れて行く。鎌倉幕府の圧力が西の王朝にのしかかり、王朝内部でも、大寺社勢力を抑えられなくなり、貴族内でも内部分裂がおき、大覚寺統と持明院統の大分裂にいたる。これらの「危機」の背景には、神仏の権威と結びついて「聖なるもの」とされていた天皇の権威を、決定的に低下させる変化(貨幣経済の浸透?)があった。
□日本の社会は農業社会か
百姓は農民と同義ではなく、たくさんの非農業民をふくんでいる……という網野史学が生まれるきっかけは、奥能登の時国家の調査だった。「水呑」と同義の「頭振」が、巨額な資金を富豪の時国家を貸し付けていた。彼らは土地をもてないのではなく、土地をもつ必要のないビジネスマンだった。
奥能登は後進地域だから中世の名田経営のなごりが見られ、下人を使う古い農業経営がのこったというイメージは、完全に逆転した。港町や都市が多数形成され、日本海交易の先端をいく廻船商人が活動し、貨幣的富がきわめて豊かだったことがわかった。
なぜそんな誤解が生まれたのか。
江戸時代に「町」と認められたのは、堺や博多のような中世以来の大都市を除けば城下町だけだった。輪島や宇出津、上関のような古い都市でさえも「村」とされていた。「村」では検地がおこなわれ、田畑石高をもたないものは「水呑」の身分にされたのだった。
また、上時国家が4艘も北前船を所有してサハリンまで足を伸ばし、利潤を金融業に運用していたことは、襖下張り文書ではじめてわかった。正式な文書には複合企業体としての時国家ではなく、「富農」としての時国家の姿しか現れていなかった。
□海から見た日本列島
稲作の技術は、畑作や青銅器、鉄器、養蚕、織物、新しい土器製塩、鵜飼などの技術とともに、列島に移住してきた数十万人あるいは100万人規模の集団がもたらした。
そうした弥生文化の拡大は、伊勢湾から若狭湾まででとまる。東の縄文文化があったからだ。先端技術の導入は実は西からだけではなかった。製鉄や鋳造技術は、中国山脈や近江などが中心と考えられてきたが、それとは炉の形がちがう製鉄が、東北・関東でおこなわれ、東北や能登の鋳物は北からの技術だという説もある。
平将門と藤原純友の乱を境に、国守、受領による租税の請け負い体制が軌道にのった。国守は、都のまわりの要地にもうけた蔵に国で集めた物資を集積し、朝廷や寺社からの要請に応じて一定額の物資を納めた。こうした体制は、海や川の交通によって可能になった。平安京は右京が建設されないまま田園になり、10世紀以降の京都は、河川交通体系にのる「水の都」になった。
平安時代末に確立した中世国家は、神仏と結びつく商業・金融資本がうごめき、コメ、絹、布などが貨幣として流通していた。農業を基礎とした封建社会でも、自給自足経済でもなかった。
荘園・公領も、東国では絹や綿、布、中国山地では鉄、陸奥では金や馬、瀬戸内の島では塩を年貢にしており、水田を中心とした自給自足の経済単位ではなかった。
現在使われている「相場」「切手」「切符」「株式」……といった商業関係の用語は中世以来の語彙だ。欧米経済と接触したとき、自前の言葉で通用したということはそれだけ商業関係が発達していたことを示している。
□悪党・海賊と商人・金融業者
一遍らの交通の安全を保証した悪党や海賊は、「海の領主」「山の領主」のような武装勢力や、商業・金融にたずさわる比叡山の山僧などだった。交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、13世紀から14世紀にかけてはこれらの勢力によって保証されていた。
当初農本主義的だった鎌倉幕府の北条氏は、時代とともに悪党・海賊のネットワークの支配を試みた。だが海上勢力の強烈な反発を受ける。後醍醐は、北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒した。南北朝の動乱は、それまでとは違ったレベルで商品、貨幣、信用経済が展開し、農本主義的路線と重商主義路線の対立が激化したことでおこされた。その後、後者が次第に優位となり、14世紀末の足利義満の政権は後醍醐が試みて失敗したことをほぼ実現する。
一遍の教えは、津・泊などの都市的な場所の、商人や金融業者、「非人」や「悪党」といわれる人びとに広がった。それを批判する「天狗草紙」は農本主義的な政治と結びついていた。
15世紀には自治的な村と町が形成され、荘園・公領制は残っているが、実質は現代につづく村町制に近い形になった。いずれも自治的に運営されており、堺のような自治都市だけでなく、村の場合も村の責任で年貢を請負うようになる。
だが一方で、自治村・自治都市の誕生が世襲制による村権力や身分制度を生み出した一面もある。「自治」「民主主義」が身分制度の基盤になるというパラドクスも覚えておかなければなるまい。
□日本の社会を考えなおす
15、6世紀。「重商主義」的な思想のなかで、真宗がその先端だった。15世紀以降の真宗の拠点は、堅田や吉崎、山科、石山、伊勢長島、広島という都市が多い。北陸で大きな真宗寺院があるところは海辺が多い。柳田村の山中の「福正寺」という真宗寺院があるが、ここには合鹿塗という漆器が生産される都市的な場所だった。
法華一揆と一向一揆が対立し、キリスト教宣教師が真宗と日蓮宗を競争相手と見たのは、いずれも都市に教線をのばそうとしたからだった。高度成長時代の創価学会と共産党の争いに似ている。
一向一揆は、日本国再統一をはかる信長につぶされた。「再統一」となると土地を基礎とした課税方式をとることになり農本主義の伝統が生き返る。信長・秀吉・家康の農本主義勢力の勝利によって、海のネットワークは寸断され、海を国境とする「日本国」という統一体がふたたびできあがった。
========以下抜粋=========
▽14 われわれの原体験につながる社会は、室町時代ぐらいまでさかのぼれる。14世紀の南北朝動乱の前後では非常に大きなちがいがある。現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝動乱期に起きた。
(いったい何がちがうんだろう。たとえば世襲制の自治の村ができたのも、このころだというが……その疑問に応えてくれるのかなあ、と。)
□文字について
▽16 現在のような家が集まって集落を形成する「集村」タイプの村は、13世紀はじめの遺跡では確認できない……小さな谷に2、3の家がある場合や、屋敷が分散している場合がみられる。(弥生の遺跡は?)近世の村につながる「惣村」は14世紀後半から15世紀に生まれる。
町も同様。
▽19 村も町も、13世紀の集落と15世紀以降の集落とはかなり異質。
町は、港や河原、川の中洲などに市がたち、商工民や芸能民などが集住して町ができることが多かった。この動きも14、5世紀以降。……日本列島の主要部に、村と町といえる明確な実体をもつ集落が安定的に成立するのは15世紀ぐらいから。
▽21 江戸時代後期の識字率は……平均して40%ぐらいといわれている。……明治7、8年ごろに日本に滞在したロシア人メーチニコフは、人力車夫やお茶屋さんで使われている娘さんなどが小さな冊子を出して本を読んでいるのを見て、非常にびっくりしている。
▽23 方言は理解できないのに、全国の古文書を読むことのできる不思議。日本の社会は、文字社会、文書の世界は非常に均質度が高い(〓文字というメディアの力)。無文字の社会、口頭の世界は、われわれが考えているよりもはるかに多様。均質な文字社会の表皮をはがしてしまうおt、きわめて多様な民族社会が姿を現す。日本の社会はいまも決して均質ではない(〓レヴィ・ストロース 無文字の豊かさ、現在の能登は)
▽25 仮名まじり文のほとんどはひらがな。カタカナまじりは1、2%。少数派のカタカナは、口頭で語られることばを表現する場合に使われた。中世前期には、口頭で語られることを文字にするのは、神仏にかかわりのある場合が多かったから、神仏とかかわりのある文書にカタカナが多く見られる。
▽31 ひらがなはまず女性の世界に登場。枕草子や源氏物語など、前近代に女性がすぐれた文学を多く生み出した民族は世界にほかにはないのでは。……女流の文学が生まれたのは14世紀まで。室町時代以降は日記はあるが、女性の文学はないのでは。(14世紀の社会の転換とかかわりがある〓)
▽36 江戸幕府は、町や村の人たちのなかに文字が使える人がいることを前提にした体制。世界の中でも非常に特異な国家。
▽38 村が帳簿を作成する。村請制といい、村は自治的に年貢を請け負っている。文字と数字を百姓たち自身が使えなくては成立しえない体制。(自治の基盤に文字〓)
▽40 すべての行政を文書で行う厳格な文書主義。この国家の成立が下からの文字への自発性をよびおこしていく(文字=従属という構図も〓)
▽42 鎌倉、室町幕府も文書主義を踏襲。江戸幕府はさらに徹底。
▽43 鎌倉時代にうまれた宗教は、庶民に布教しようとしているから、ひらがなやカタカナをもちいた。堅田の一向宗の本福寺には、方言までふくんだカタカナまじりの文章も見られる。だがこれらの流れは、キリシタンの文学まで含めて、中世後期から近世初頭に大きな意味をもちはじめていたが、そういう宗教の動きは、17世紀のはじめまでに、世俗権力によって弾圧されてしまう。イスラムやキリスト教のような自立した宗教は、それ以後の日本の社会には独自な力を持ち得なかった。(解放の文字か支配の文字か〓)
▽44 江戸時代の書体の変化は、領主側の書体がかわると、百姓の書体もかわっていく。明治のときは劇的。それまで御家流だった書体が、明治4年の廃藩置県のころを境にして、がらっと変わってしまう。(均質化のための文字〓)
だから江戸時代の文書を読めても、明治の文書になると難しい。
……文書の世界での均質性は、明らかに上からかぶさってくる国家の力があり、それに対応しようとする下の姿勢が一方にある。そうした姿勢は、古代以来きわめて根強く日本の社会にある。
▽46 明治になるととたんにカタカナがふえはじめる。法律も軍隊も。初等教育でもカタカナが最初に教えられるようになる。なぜカタカナなのか? ……戦後になってひらがなを先に初等教育で教えはじめたが……
□貨幣と商業・金融
▽49 13世紀後半から14世紀にかけて、金属貨幣がはじめて本格的に流通しはじめる。……和同開珎などは、呪術的な意味も。社会は貨幣を必要とする状況ではなかったから、政府の力が弱まる10世紀以降は、貨幣が鋳造されなくなる。
そのころから、貨幣のかわりに、絹や米が流通する。
12世紀後半から13世紀にかけて本格的に中国、宋から銭が本格的に流入。平清盛の日宋貿易などで。
▽54 13世紀後半から14世紀にかけての埋蔵銭ピーク。銭が富をためる手段になってきたのでは。米や絹とちがい、使用価値のなかった銭が富の象徴になりはじめた。銭をためることが「徳」とする、「有徳」であるとする考え方がでてくる。このころ、富裕な人のことを有徳人というようになる。
▽57 モノとモノが交換されるには、贈与互酬の関係から切り離されなければならない。市場とは、その意味で、日常の世界での関係の切れた、「無縁」の場として古くから設定されてきたのではないか。たとえば、虹がたつと、かならずそこに市を立てなくてはならないという慣習があった。
市場とは、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界の境に設定される。河原や中洲、海と陸の境である浜、山と平地の境である坂など。……俗界から、モノも人も縁が切れるという状態ができて、はじめて商品の交換が可能だったのではないか。
▽61 出挙(種もみを借りて、収穫後に利息の稲をつけて蔵にもどす) 金融行為は、神のものの貸与、農業生産を媒介とした神への返礼という形で成立した。……日吉神費と、熊野人……神仏に直属するという資格ではじめて金融をやることができる。
▽66 寺院や神社は、百姓が年貢を出さないと、神人を動員して取り立てた。神人や供御人は、一般の平民から区別された存在として、国家的な制度に組み込まれている。
▽68 12、3世紀までの商業や金融は、神仏とのかあくぁりにおいてはじめておこないえた。が、13世紀後半以降の銭、金融貨幣の流通という事態のなかで、14、5世紀から大きく変化する。聖なるものと結びついていた金融が、世俗的な金融にかわり定着していく。商人や職人も、交易は世俗化する。
▽74 南北朝の動乱で、日本の社会の権威の構造が大きく変わり、神仏とのつながりを根拠に、聖別された身分という意識をもっていた職人たちも、古い神仏に頼っていたのでは、特権を保持できなくなって来る。だから15世紀になると、商人や手工業者たちは守護大名のような世俗的権力に特権の保証をもとめていくようになる。(神聖国家?から封建国家?へ)
▽77 室町時代、禅僧や律僧、鎌倉新仏教の寺院が、祠堂銭の貸し付けを中心とした金融をおこない、それで寺院を経営するようになる。土地や所領によって維持するのではなく金融、勧進などによる寺院経営が15、6世紀にはじまっている。(〓経済の変化が寺にも)
「無縁所」といわれる寺は、土地の経営ではなく、資本主義的な商業や金融で寺を支えたのが特徴。
真宗の寺は「寺内町」をつくり、そこに商工業者をあつめた。鎌倉新仏教は、商業、金融などに聖なる意味を付与する方向でウギタ。キリスト教がはたした役割を、鎌倉新仏教が果たそうとした。「プロ倫」と共通した問題があるのでは。〓
しかしこれらの新しい宗教は、16世紀から17世紀にかけての織田、豊臣、徳川幕府による大弾圧によって、独自な力をもてないようになってしまった。〓
□畏怖と賤視
▽86 建前上、すべての人民を戸籍にのせる律令国家。8世紀に動揺しはじめ、不幸な状態の人びとが増える。救済のために悲田院や施薬院をつくり、国家の力で救済しようとする。各地にも、国分寺と結びついた救済施設がつくられたのでは。
9世紀末になると、律令国家は財政難になり、官庁に属していた手工業者をふくむ職能民は、それぞれ独自に国家の規制から離れて集団をつくる。
▽89 10−11世紀になると、国家が重病人や捨て子などを支えるのは不可能に。……伝染するケガレに対する畏怖が貴族の間にひろがる11世紀後半に非人といわれる集団が史料上にでてくる。
京都では清水坂が大きな拠点に。そういう場所を「宿」とよんだ。戦国時代になると「夙」と書くようになる。
▽95 犬神人や非人の仕事は、葬送にあたって、死者とともに葬られる物品をとるという権利をもっていた。死穢をキヨメる機能。処刑、罪のケガレをキヨメるのも仕事。平安末期から死刑がまた復活しはじめ……
▽99 芸能もかれらの職能。祇園祭のときに犬神人が鉾をもって先頭に立っている。
▽103 14世紀までの非人は、神人や寄人と同様、神仏の「奴婢」として聖別された、聖なる方向に区別された存在でありい、ときに畏怖、畏敬される一面ももった人びとであった。
▽111 本鳥(もんどり)を結んで折烏帽子をかぶるのが平民の成年男子の髪型。ざんばら髪や蓬髪にされることは、平民の成人としての資格を剥奪されるほどの意味をもっていた。……ところが、牛飼いは本鳥を結わない。これが童姿。大正天皇の棺をかつぎ、昭和天皇の葬列に加わった八瀬童子も。(大正天皇のときは、海軍がかつぐか陸軍がかつぐか大騒ぎになった末、八瀬童子がかついだ)。「○○丸」という童子の名。鵜飼も猿曵きも童姿。
「丸」をつけるものは、聖俗の境界にあるもの。船の名の「○○丸」も、命を託すものだから呪術的な力を与えるため。刀や鎧も。童自身が聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたから。
▽116 「穢多」ということばは、13世紀末の「天狗草紙」にはじめて登場。非人・河原者に対して、明らかな差別語をもちいる動きが現れて来たことを示す。
それ以前の、、ケガレを畏怖する意識がしだいに消えて、これを忌避する、嫌悪する意識がしだいに強くなってきたからではないか。
▽123 犬神人、のちに一方の立場からはまさしく「穢多」といわれた人びとが、多くの人びとの中に交わって、一遍の死を見送っている。
▽126 「一遍聖絵」は、一遍による非人の救済、童姿の人びとや非人たちが、一遍に帰依していく経緯を描いたのではないか。だから、執拗なまでに、非人たちのさまざまな姿を描きつづけたのでは。(絵巻物をときあかす)
▽132 所々の「悪党」たちが、高札をたてて、一遍の布教に妨害をしてはならないと定めた。「悪党」といわれた集団は、童形の人びとや非人、さらには博打打ちと近接しており……一遍の布教はまさしく、悪党・童姿の人びとや非人に支えられながらおこなわれていったことを描いている。
▽136 「一遍聖絵」に対して、乞食・非人・悪党を「穢多」とののしり、その動きを天狗のしわざとした「天狗草紙」。ここに13世紀末の「穢れ」「悪」をめぐる、思想的な対立と葛藤がはっきり姿を現している。
……鎌倉新仏教は、悪人・非人・女性にかかわる悪・穢れの問題に、それなりに正面から取り組もうとした宗教だったといってもよい。それが結果的には、16、7世紀までに、世俗権力によって弾圧されたり、骨抜きにされたりしていくなかで、被差別部落や遊郭、「やくざ」(博打打ち)に対する差別が定着していくことになっていく。(〓世俗化によって聖性がはぎとられ、鎌倉新仏教という平等思想がつぶされることで…差別の背景)
▽138 14世紀を境として、「穢れ」の観念についてのかなり大きな社会的変化があった。〓畏怖をともなっていたものが、社会が「文明化」にともなって畏怖感が退いて、きたなく、よごれた、忌避すべきものとする、現在の常識的な穢れにちかい感覚に変わってくる〓
▽139 東西のちがい。胞衣(えな)を、東日本は戸口や辻などに埋める。西は、床下の穴や遠くの山などに埋めて遠ざける。東が縄文的で西は弥生的。罪人を処刑するのも、西日本は非人におこなわせるが、鎌倉幕府に属した武士は自分でクビを切ってしまう。非人という職能集団が東日本に明確に形成されなかった理由のひとつはそこにあるのではないか。
□女性をめぐって
▽143 鎌倉新仏教は、非人の救済と同様、女性の救済を重要な課題にしていた。
▽144 ルイス・フロイス「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ結婚もできる」「ヨーロッパでは財産は夫婦のあいだで共有できる。日本では各人が自分の分を所有している。ときには妻が夫に高利で貸し付ける」(〓明治以降は嫁は財布を失った?)。「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫を離別する」。「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、1日でも数日でもひとりで好きなところへ出掛ける。夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」「日本では、堕胎はきわめてふつうのことで、20回もおろした女性がある。日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、のどの上に足を乗せて殺してしまう」「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」
▽146 これまでの通説では、女性の立場は抑圧され、自分の主張ができなかったとされてきた。「三くだり半−江戸の離婚と女性たち」によると、明治になっても早いころの離婚率は非常に高い。……江戸時代の離婚率が相当高かったのではないかということが推定できる。……通説とちがって妻の飛び出し離婚もかなりあった。妻が実家に帰ってしまってもどってこない。泣く泣く夫は離縁状を書くという事例がずいぶんあった。ただ、離縁状は、夫が妻に与えるかたちのものが法的に認められたから、妻の書いた離縁状はまずぜったいにでてこない。……夫が離婚の専権を握っているように見えるが、実際は、むしろ夫は離縁状を書く義務があるといったほうがよい。
▽149 第2次大戦前までは、西日本では「夜這い」の習俗が各地に生きていた。……歌垣の習俗。お祭りや大衆的な法会のとき、あるいは神社・仏閣におこもりをしたときなどに、「歌垣」と同じように、男女のフリーなセックスが行われるという習俗があった。……絵巻物でも、仏前や神前で男女が入り混じって寝ている。
▽153 道を歩く女性に対する「女捕り」「辻捕り」。建前上は法令で禁じられているが、「貞永式目」でも。でも、罪が重くない。さらに「法師については斟酌あるべし」という不思議な文言がある。地位の低い法師は、ふだん禁欲しなくてはならないので、斟酌を加えたのではないか。
▽155 人々の日常の生活まで規制するだけの力をもった宗教が、日本の社会ではえういに影響力を持ち得なかったからでは。堕胎や子殺しも、単純に貧困と生活苦によるとは言えないのではないか。
▽157 14世紀以前の女性のあり方は、江戸時代よりもはるかに広い社会的活動をしていた。……巴御前のように武装して活動し、「女地頭」もいた。鎌倉時代には、御家人の名の名主に女性がなっている例も。
13世紀後半には、平民の女性までが平仮名で文書を書けるようになっている。
▽163 室町時代になると、土地財産、所領については女性の権利が弱くなり、江戸時代には女性が田畑を持つ権利は正式にはなくなる。しかし、動産については、女性の権利が維持されており、嫁入り道具を夫が質に入れることは、女性の側から男を離婚できる大きな理由になりえた。
▽167 10世紀から11世紀にかけて、自立した女性職能集団として遊女が現れる。遊女、白拍子、傀儡は、天皇や神に直属する女性職能民だから、社会的地位も低くなかった。貴族や天皇の子を生み、勅撰和歌集に採用されたりしていた。
▽170 日本の古代社会には氏族(クラン)に相当する親族集団はできていなかった。氏族内部の婚姻タブーをもつ集団はなかった。だから、近親婚に対するタブーがきわめて弱い。中国や朝鮮に今も残る、同姓不婚の原則は日本にはまったくない。私の父と母はいとこ、祖父と祖母もいとこ……。叔父と姪、叔母と甥の婚姻も中世までたくさん見られる。
▽174 未開の要素を残し、女性の地位も低くない社会に、文明的、家父長的な制度(律令)が接合したことによって生じた、希有の条件が、女流文学輩出という世界でもまれに見る現象を生み出したのではないか。
奈良時代には、女性の僧侶もたくさんいた。が、9世紀以降、戒壇に登って正式の受戒を請けた女性の僧侶は見られない。……天台・真言の教団が、制度上の建前から女性を戒壇での受戒から排除したのに対して、律宗は女性が僧侶つまり尼になる道を開いた。だから律宗の僧侶たちは既存の寺院を尼寺にしている。時宗の一遍も、女性を積極的に迎え入れる。これとは逆に、一遍の教団や禅僧に激しい非難を加えた「天狗草紙」は、一遍の教団では、男女の関係が非常に乱れていると罵倒を浴びせている。
室町、戦国期以降、女性の地位は低落していく。外に表れる女性の職人の姿は減っていく。たとえば扇売りは、女性の職能だったが、江戸時代にはいると、男性にとってかわられる。
▽179 遍歴する女性、遊女への差別も、室町、戦国期になるとはっきり表れてくる。尼僧院が娼婦の宿になっているというフロイスの指摘……熊野比丘尼は娼婦だったといわれている。
南北朝以後は、荘園や公領で女性が訴訟の当事者になることはほとんどみられなくなる。
だが、江戸時代でも、備中の真鍋島では、女性の庄屋が登場する。
中世前期以来の女性のあり方は、たしょうなりとも、近世にも続いている。
□天皇と「日本」の国号
▽189 天武天皇の「八色の姓」。
▽196 「租」は初穂の貢納で、出挙という形で人民に貸し出され、利稲をとる。これが地方財政の財源になる。「庸」「調」は土地の特産物を首長にわたす服属儀礼が制度化された。 社会自体のなかで行われていた慣習を、公、国家に対する奉仕として制度化した。
平民の「自由」「自発性」を背景において律令制が組織された。
▽200 特定の職を特定の氏が世襲的に請け負う「職の体系」10世紀にほぼ体制ができ、11世紀以降は支配的になる。いわば天皇は「天皇職」を世襲的に継承することになった。
▽204 持統以来、江戸時代までの天皇は2、3の例外をのぞき、みな火葬で、聖武以来仏式で寺院に葬られた。昭和天皇のような葬儀や墓は、明治以降になって、天皇号の定まる以前の、古墳時代のころのやり方を「復興」する形ではじめられた。「古来の伝統」ではない。
▽205 国家の権威は9世紀ごろからあやしくなる。10世紀になると、東国は天皇の統治権から離れて行く。天慶の乱。
鎌倉時代、国境の相論は、東国は将軍、西国は天皇が裁定をくだす。法律も、東西それぞれ独自に定めている。……さらに13世紀後半以降の「天皇職」は、幕府の意思できまるようになってきた。
▽210 幕府の圧力が西の王朝にのしかかる。王朝じたいも、大寺社の勢力の統制ができなくなり、貴族の家でも内部分裂がおき、天皇家の大分裂にまでおよんで、大覚寺統と持明院統が対立する。
……天皇家の危機感の背景には、神仏の権威と結びついて「聖なるもの」とされていた天皇の権威を、決定的に低下させるような変化がおこりつつあった。
▽218 百姓の名前、通称に、広く律令官職名が浸透するのは江戸時代。左衛門、兵衛、右近……など。
▽220 現代は、権威のあり方を否応なしに変化させるような大転換期にさしかかっている。
14、5世紀にできた村や町のあり方が、崩壊といってよいほどの変化にさしかかりつつある。病気の捉え方、動物に対する接し方……人間と自然とのかかわり方がいまや人類的な規模で変化しつつある。14世紀以来の大転換の時期にさしかかっている〓
□日本の社会は農業社会か
▽234 百姓は農民と同義ではなく、たくさんの非農業民をふくんでいる……と考えはじめるきっかけは、奥能登と時国家の調査。
▽239 塩をつくり、背後の山の木で炭を焼き、商品に。
▽242 時国家は多角的企業家。石高を持たない百姓を「頭振」とよぶ。「水呑」と同義。柴草屋のような廻船商人で、巨額な金を時国家を貸し付けるほどの人が「頭振」に位置づけられていた。土地をもてないのではなく、土地をもつ必要のない人だった。
▽247 輪島の総戸数は621軒で71%が頭振だった。宇出津も総戸数433軒のうち76%が頭振だった。
▽250 奥能登は後進地域だから中世の名田経営のなごりが見られ、下人を使うふるい農業経営がのこったというイメージは、完全に逆転。港町や都市が多数形成され、日本海交易の先端をいく廻船商人が活動し、貨幣的富がきわめて豊かだった。
▽256 江戸時代、輪島や宇出津、上関のような、中世以来の都市が、制度的には村とされていた。江戸時代に町と認められたのは、城下町、それに堺や博多のような中世以来の大きな都市だけ。実体は都市でも、大名の権力とかかわりのない都市は、制度的には村と位置づけられた。村にされれば検地がおこなわれ、田畑石高をもたないものは水呑の身分にされた。
▽259
▽266 上時国家が4艘も北前船をもっていたことは、襖下張り文書ではじめてわかった。さらにこの船がサハリンまで行っていたことが、井池光夫家の襖下張文書で明らかになった。北前船主としての利潤を、金融業に運用していたこともわかった。
正式の文書の世界と、廃棄された「襖下張文書」の世界の間には大きなちがいがあった。
□海から見た日本列島
▽272 朝鮮半島の東岸と南岸から、対馬、壱岐、北九州などにかけてに共通した文化があったことを証明された。(倭)
▽276 能登半島の真脇遺跡、三内丸山など、日本海沿海地域に巨木文化とよばれるような遺跡が各地で見つかっている。
稲作の技術がバラバラにはいってきたのではなく、体系的な技術がまとまって入ってきた。そうした技術をもつ集団が移住してきた。紀元前3世紀ぐらいから、多様な文化要素が、中国大陸、朝鮮半島から流入してくる。畑作の作物、青銅器、鉄器、養蚕、織物の技術、新しい土器製塩の技術などが考えられる。鵜飼もこのころ稲作といっしょに入って来た。
▽279 朝鮮半島の南部から弥生土器が出土。日本列島西部、朝鮮半島南部、中国大陸の海辺などの交流のなかで、海と深いかかわりを持ちつつ、「倭人」とよばれる集団が形成されていく。倭人はけっして「日本人」と同じではない。
魏志倭人伝には、壱岐や対馬について、南北に交易をして生活している、と記されている。
▽281 弥生文化は、伊勢湾から若狭湾まで広がるが、そこで面としての拡大はとまる。東の縄文文化と、西の弥生文化というはっきりした差異が、かなり長い間つづいたことになる。
……シベリア、ヨーロッパ系のカブが、関東、東北、北陸に分布し、列島西部には、中国、朝鮮系のカブが分布。列島東部の場合は、北との関係を考慮に入れる必要。北東アジアからサハリン、北海道を経て東北・関東へ、日本海を横断して北陸、山陰へという、北からの文化の流入路があった。
▽285 弥生から古墳時代に通じて、1000年の間に数十万人から100万人以上の人が、大陸・半島からわたってきた。……
▽288 製鉄技術も、朝鮮半島から北九州経由で鉄の原料が輸入されたといわれ、製鉄は、中国山脈や近江などの列島西部が中心と考えられてきた。
しかしそれとは別に、北回りで入ってきた製鉄や鋳造技術もあったのではないか〓。西部とは明らかに炉の形がちがう製鉄が、東北・関東でおこなわれ、西では砂鉄からの製鉄であるのにたいし、東は鉄鉱石からではないかとも考えられている。鋳造も、東北南部に9世紀ごろの遺跡があり、能登の鋳物も平安時代から知られるが、北からの技術という説もある。
▽292 太平洋側も、意外なほど早くから海上交通が活発だった。太平洋の海上交通のルートは、江戸時代にならないと安定しないというのが常識だった。だが、古墳時代に、浜名湖あたりでつくられた須恵器が大量に関東に流入している。
▽297 「日本国」が確立すると、唐の制度を本格的に導入。この国家の交通体系が陸上交通を基本にしている。それまでは海上交通、河川の交通が中心だったのに。
ところが8世紀末になると、陸上の大道は荒れて道幅は狭くなり、9世紀には、ふたたび海と川の交通が主軸になる。
▽301 北海道の東海岸には、ツングース系の種族で、女真族ではないかといわれる人々のオホーツク文化がはいってくる。航海術が巧みで、海獣をとるのがきわめて上手な人びとだった。
9、10世紀の東北南部には、鋳造遺跡がある。西の鋳物師が技術を伝えたと考えられてきたが、西日本の遺跡に比べて、はるかに巨大な鋳造遺跡が東北南部にあらわれるし、北東アジアの狩猟民が用いたといわれる内耳式の鍋が、東北・関東・中部にまで入っている。
▽302
▽306 平将門と藤原純友の乱。この事件を境に、国守、受領による租税の請け負い体制が軌道にのり、官僚制的な地方制度は、まったく実質がなくなる。こうした体制の形成が可能だったのは、安定した海や川による交通の列島全域での活発化があり、物資や人が自在に動ける状況が発展していたから。
国守は、都のまわりの要地、淀や大津などに蔵を設定し、その蔵に国で集めた物資を集積しておく。朝廷や寺社から要請されると、一定額の物資を納めるというやり方。
▽308 中央官庁は財政困難になり、職能民たちは自立した職能集団として活動するようになる。10世紀以降は、独自に展開している活発な商工業、流通、河海の交通を前提にして、はじめて国家体制が成り立っている。
大陸や半島とも、国家間の遣唐使はなくなるが、民間の社会の間の交流はむしろ以前より活発になっている。
▽309 京都の性格も変化。平安京の建設は中途半端で、右京は建設されないまま田園になってしまった。10世紀以降は、川が不可欠な役割をするようになり、京都は河川交通体系にのった「水の都」に。
▽311 日吉大津神人のネットワーク。神人の組織が、自力で税金の調達をしている。担保としてとった国司や官司の徴税令書をもって、現地の蔵から者をださせている。
この時期の徴税は、河海の交通の発達を前提にした金融、商業のネットワークの力ではじめて実現されており、原初的な手形の流通によって可能になっている。
▽312 津軽半島の十三湖。早くから都市が形成。13世紀になると珠洲焼も。
▽314 日本列島全体を廻る廻船のルートは、11世紀には確立していた。
▽318 平安時代末ころに確立した中世国家は、神仏と結びついているとはいえ、商業資本、金融資本がうごいており、コメ、絹、布などは、交換手段の役割をはたす貨幣として機能し、流通している。農業を基礎とした封建社会でも、自給自足経済でもない。
□荘園・公領の世界
▽321 荘園公領制 11世紀後半から13世紀前半までの間に確立。
これまでは荘園を、田地を中心とした自給自足の経済単位とされてきたが、まちがい。百姓が負担する年貢はコメだけではない。東の国の荘園・公領のほとんどが、絹・綿か布を年貢にしている。中国山地では鉄、但馬では紙、陸奥では金や馬、瀬戸内の島では塩が年貢にされ、コメは多数派ではない。
▽324 弓削島荘は塩の荘園。田畑が少ないからしかたなく塩をつくっている貧しい荘園だと考えられてきたが、よくよく調べると豊かだったことがわかる。こういう荘園を、自給自足経済などということ妄想にすぎない。
▽328 新見荘 金屋子神社があり……基本的には生活を製鉄で支えている人びとだった。
▽333 銭の流入。12世紀からはじまり、13世紀に入るとさらに大量に。中国大陸から流入した銭が貨幣として流通するのは、東日本では13世紀前半、西日本では13世紀後半。12、3世紀ごろまで貨幣として絹と布が流通していた東国では、西日本よりも早く銭貨が流通しはじめる。
西国は、米が早くから交換手段として用いられており、平安時代末には替米という米の手形も現れている。貨幣として十分有効に機能していたから、銭の流通がおくれた。
▽344 商業や金融業にたずさわる人びとには古代から僧侶が多かったが、14世紀はじめめには、鎌倉仏教といわれる浄土宗、時宗、禅宗、律宗、山臥の系統の僧侶が、金融・商業・廻船に従事している事例が非常に顕著。
□悪党・海賊と商人・金融業者
▽349 「悪党」や海賊たちが、公権力とかかわりなく、高札をたてて、一遍たちの交通路の安全を保証している。悪党や海賊の実態は、「海の領主」「山の領主」のような、交通路にかかわりをもつ武装勢力をはじめ、商業・金融にたずさわる比叡山の山僧や山臥などであった。交通路の安全や手形の流通を保証する商人や金融業者のネットワークは、13世紀から14世紀にかけて、悪党・海賊によって保証されていた。
▽353 鎌倉時代後半から南北朝前半は、2つの政治路線の激しい対立のなかで動く。農本主義的な勢力を代表する安達泰盛が、北条氏側の勢力を代表する平頼綱に滅ぼされる。これを境に、幕府は悪党・海賊のネットワークを弾圧する方向だけでなく、それを支配組織のなかに取り込んで行こうとする方向にも動きはじめる。
▽354 北条氏は商人・金融業者のネットワークを統括下に入れ、交易のネットワークも統制しようとしたが、この政治路線は海上勢力の強烈な反発を受ける。14世紀に入ってまもなく、熊野海賊が北条氏の統制に反発し大波乱をおこす。同じ頃、北でもアイヌもまきこんだ「蝦夷」の反乱がおきる。
後醍醐は、このような北条氏に反発する悪党・海賊の武力にも依存して鎌倉幕府を倒す。
▽355 農本主義的な路線と、商人や金融業者、廻船人の活動を組織する路線。この2つが対立し、大動乱がおこるきっかけになるが、後者が次第に優位をしめる。14世紀末の足利義満の政権は後醍醐がやろうとして失敗したことをほぼ実現する。これ以後しばらくは、農本主義は背後にしりぞき……
▽356 一遍の教え 津・泊などの都市的な場所に広まっている。田畠の耕作の場面がほとんど描かれない。一遍の教えは、まさしく都市的な宗教。商人や金融業者、それと結びついている女性、さらに「非人」といわれた人びと、「悪党」といわれる人びとのなかに、広がっていった。それを批判する「天狗草紙」は農本主義的な政治と結びついている。
▽362 南北朝の動乱は、それまでとは違ったレベルで商品、貨幣、信用経済が展開しはじめ、政治・宗教のあり方にも大きな転換をせまったところからおこった動乱だと考えられる。この時期は、文明史的な転換期ということができる。
……15世紀初め、若狭の小浜にスマトラから「南蛮船」が入港。日本国王=義満への貢献品としてはじめて象が運ばれてきた。
▽365 15世紀、自治的な村と町がこの時期に形成される。荘園・公領制は残っているが、社会の実質は村町制といってもよいような実態になり、高度成長期以前の村落と都市の基礎はこのころにできあがる。いずれも自治的に運営されており、境のような自治都市だけでなく、村の場合も村請といわれ、村の責任で年貢を請負うのがふつうになる。これは村のなかに、代官のような業務をこなすだけどの能力が蓄積されてきたことを物語る。(〓自治をぶちこわしたのが高度成長と補助金行政。自治じたいが世襲制によって村権力を生み出してしまったという現実も)
▽367 15世紀前半。海の領主、湖の領主の縄張りができていて、関所料、警固料を払えば、航行の安全が保証された。「海賊衆」
□日本の社会を考えなおす
▽374 15、6世紀。農業を尊重せず、むしろ商工業に高い評価をあたえる見方があった。「重商主義」的な思想のなかで、真宗がとくにその先端をいっていたと見てよいのでは。……15世紀以降の真宗の拠点は都市が多い。堅田も吉崎も、本願寺のあった山科も、石山も、伊勢の長島も、安芸の広島も。
北陸で大きな真宗寺院があるところは海辺が多い〓。柳田村の山の中の「福正寺」という真宗寺院があるが、ここには合鹿塗という漆器が生産される都市的な場所だった〓。
法華一揆と一向一揆が対立したのは、同じ地盤に教線をのばそうとしたから。キリスト教も同じ方向で布教しており、宣教師が競争相手と見たのは、真宗と日蓮宗だった。この時期に大きな発展をとげた商人や手工業者などの集住する都市に教線をのばそうとはげしく競合した。これらの宗教はいずれも「重商主義」的な勢力に支えられていた。(創価学会と共産党〓)。
▽378 日本国をもう一度再統一しようという信長と、一向一揆が衝突する。「再統一」と考えると、どうしても、土地を基礎とした課税方式をとることになり、古代からの農本主義の伝統が生き返って来る。
農業、土地中心に「日本国」を固めていこうとするやり方と、海を舞台にして商業や流通のネットワークをつくり、列島の外まで広がる貿易のネットワークをつくっていこうとする動きとが対決する。前者(信長・秀吉・家康)が勝利し、海のネットワークは寸断され、海を国境とする「日本国」という統一体がふたたびできあがる。
▽381
▽384 飢饉が起きる場所。非農業的な地域、都市的な場におこる。凶作になると、米の値段が高騰して食糧が買えなくなる。江戸時代の飢饉で、東北に餓死者が大量に出たのは、単に貧しいからだとは言えないのでは。東北は、意外に都市的な性格を持つ地域だったのかも。
飢饉のひどさは都市化の進行の度合いを示すという捉えかたも可能になる。
(農耕開始によって飢饉が生まれたという説は?)
▽397 能登半島の土方氏というわずか1万石の大名。弱小大名に見えるが、海辺の重要な港をみごとにおさえている。前田家に対する楔としての役割をさせたのでは。
▽402 現在使われている商業関係の用語が、中世以来の歴史的な語彙を用いている。「相場」「切手」「切符」「株式」……欧米経済と接触したとき、この分野では翻訳後を用いる必要がなく、自前の言葉を使って十分通用したということ。
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