MENU

地元学からの出発<結城登美雄>

■地元学からの出発<結城登美雄>農文協 20111216
筆者は東北を中心に「地元学」による地域おこしに取り組んでいる。
成功事例をモデル化し、それを模倣する形の「町おこし」は、自分たちの町は遅れているという決めつけから始まり、それを是正する「活性化策」(=金もうけ)以外のテーマには力が入らない。経済の活性化を第一の目的とするから、大量に安定的に供給可能な地域資源だけに関心が集まり、販売先として巨大マーケットを想定し、競争原理にさらされることになる。
「地元学」は、先進モデルの模倣ではなく、村人の力、地域の力を地域再生の最大の礎とする。一見金もうけにならないような地域の宝や価値に焦点を当てる。
「この町は今後どうすればよいか」と将来のビジョンを問われても口をつぐむ人々が、これまでどう生きてきて、なにがうれしくて、なにがつらかったかという話になると饒舌になる。そういう過去の生き方から学ぶことを重視する。「地域に教える」のではなく「地域から学ぶ」という、従来のモデル模倣型の「活性化」とは正反対のベクトルだ。
地元学による地域資源調査は、すぐに利益になりそうにない、少量で季節限定のものでも積極的に拾い上げる。それを食文化や伝統行事などと組み合わせることで「価値」を創造する。地元にある少量多品種の産物を丼という形でまとめた能登の「能登丼」はまさに「地元学」型の町おこしと言えるだろう。
ちなみにかつての一村一品運動は、特産品が売れすぎてほかから仕入れて売ることで評判を落とし……という形で失敗する例が少なくなかった。「地元の宝」の軽視が敗因だったのだろう。
「地域資源」はモノだけではない。講や結などの共食の文化は、食の知恵を交換し、次世代に地域の味を伝え、コミュニケーションをはぐくむ場でもあった。そういった「宝」を再評価する地元学は、地域コミュニティの再生にも役立つだろう。
「大規模・効率・市場・専業」の正反対を目指す地元学は、専業ではなく兼業を志向する。その典型のひとつが小鹿田焼だ。陶芸を専業にせず副業と位置づけ、生産量を水力の唐臼が1日につくれる陶土の量におさえたことが、独特の作風を生みだした。各地で希望の拠点になっている農産物直売所も少量多品種と「兼業」の豊かさだ。おやきや漬物を副業とすることで有名になった長野県小川村は、高齢者が元気になり、老人医療費は全国平均の6割弱になった。
歴史的に見ても、日本の豊かさは網野史学の説く「兼業」(百姓)の豊かさだったのではないのか、と思えてくる。仙台は、城下の8割は武家屋敷で、下級武士でも300坪の屋敷で自給自足をしていた。これらの屋敷林が「杜の都」の豊かさだったが、戦災と現代的都市計画で失われてしまった。逆に今でも兼業武士の生活環境が残っているのが山口県の萩市だ。
筆者は大規模化へひた走る日本の農政を批判し、集落営農も「年齢も営農計画も異なる多様な考えの農業者を、20ヘクタールでまとめたとして、どんな未来を描けるというのか。少しずつ積み上げた村づくりの成果を壊してしまうことにならないか」と批判する。集落営農でうまくいく事例もあるが、細かく観察すれば、それは大規模化による成功ではなく、昔ながらの絆の再生につながっているところが成功していることがわかる。けっきょく「地元学」の視点のない大規模化は失敗する、とも言えるだろう。
中越地震の震源地・川口町で、「水肥やし」によって米を育て鯉を育てている老婆は「耕していればおだやかに生きていけるのに」と言う。福井県池田町が、福井県1の高齢化率なのに単独自治の道を選べたのは「今までもやってこれたのだから、これからもみんなの力を合わせてやっていけないものか」という住民の言葉があったからだという。長野県栄村では庚申講で夜明かしをしてさまざまな話をすることで「互いの心根が見えてこの村の支え協力する力になっている」。高千穂の五ケ村地区の「神楽の館」という神楽宿兼農家民宿は、古民家を9戸の農家が出資して完成させた。能登の朝市や「振り売り」は今も女性達の暮らしを支えている。
村々に伝わる民衆の知恵は、「今」を生き残る武器になることがよくわかる。

================
▽16 2006年から取り組む「鳴子の米プロジェクト」は、小農の米づくりを地域の力で支援する「米の地元学」。宮城県鳴子町。市場では生産者価格が1万3000円まで下がってしまった時代に5年間1万8000円を農家に約束し、食べ手には2万4000円で買ってもらう。
▽19 十数年前から農産物直売所という希望の拠点ができた。全国1万3000カ所に開設され、売り上げ1兆円に。
▽20 行政などなくても、村は何百年も村であった。その力をこそ大切にしたい。「地元学」とは村人の力、地域の力を地域再生の最大の礎にするためになされるもの。
▽25 おおくは、どこかに先進地と呼ばれる規範やモデルがあり、その事例に学んで近づこうと努力する。はじめに自分たちの町は遅れているという決めつけから始まる地域づくり。人口減少と過疎化を悪と決めつけ、是正プランを活性化策といい、それ以外のテーマには力が入らない。
▽26 この町のこれからを考える前に、まずはこの地元をどう生きてきたのか。うれしかったこと、つらかったこと、……をまず受け止める。将来ビジョンには寡黙だった人が、この町のこれまでについては饒舌になってくる。地元学とは、その土地を生きた人々から学ぶことを第一義とする。そんな地元学を10年間、仙台市宮城野地区の10地区で行ってきた。都市のなかの村の暮らしの発見。
▽28 仙台市七郷の田園地帯。……人の記憶の引き出し方には苦労が多い。古い写真などがあれば、それをきっかけに記憶の糸がほつれはじめるが……昭和37年ごろの圃場整備以前の空中写真を見せると興奮のるつぼに。……かつて田のあぜ近くにあった石碑、石仏をすべて写し取り……文字を解読し……155基にのぼった。
▽34 山形県大江町小清田代が私のふるさと。標高450メートルの山間に9軒あったが、離村し山をくだった。……叔父の家をゆずってもらい、山奥の家を維持する。冬は終点のバス停から5時間も雪道をかきわけ、ひとり黙々と雪をおろす。……わがふるさとの地元学。離村して30年がたつというのに、5月に、1年に1度村にもどり、村の祭りをつづけている。
▽42 江戸時代、仙台は人口5万人で城下の8割は武家屋敷。下級武士でも300坪の屋敷を与えられ、自給自足が原則だった。これらの屋敷林は「御林」と呼ばれていた。近代になってもこの原型がのこり、緑豊かな都市として「杜の都」と呼ばれた。が、戦災と近現代的都市計画で失われた。(萩には今も残る〓)
仙台では屋敷林のことを「居久根」と呼ぶ。イグネの木だけでたてた庄司喜豊さん
ニワとは、生産と生活のための作業空間であり、ときに母屋より大事な場所だった。……近年の直売所の活況で、忘れられていた庭先の野菜畑が元気に生まれ変わり、見向きもされなかった屋敷回りの梅、柿、スモモ、ぎんなん、豆類などの手間のかかる庭仕事の成果が直売所で人気を集めている。農地だけでなく、身近な庭ものや里山ものまで農の領域が広がっている。
▽54 長野県小川村。「小川の庄・おやき村」。8つのおやき工房から650万個のおやきと100万袋の漬物が生産され、年商9億円。60歳入社、定年なし。月に10万の収入に。村の老人医療費は全国平均の6割弱。
岩手県二戸市の「自助工房・四季の里」も。
▽58 農業と農産物に規格基準という工業の論理とモノサシをもちこんだのは流通業界。そのモノサシがどれだけ農家を苦しめたか。
……相も変わらず専業農家中心の大規模単一農業という生産効率主義の追求。小農を斬り捨て……。
▽60 自然エネルギーの地域自給。提案者の東北大学の新妻弘明さん。「地域によってはエネルギーの7−8割をまかなうことが可能だというのが私たちの予測です」
▽62 小鹿田焼 10軒の窯元はすべて、水力の唐臼で陶土をついていた。昔ながらの蹴轆轤で形をつくり、薪で登り窯をたいている。……陶芸を副業に位置づけ、けっして専業にしなかったこと。自分たちの生産量は水力の唐臼が1日につくれる陶土の量を超えないこと、という生産の基準を守ったこと。……専業の家も出てきているが、副業としてやっている人の作品のほうが明らかにいい。
▽66 網野「百姓イコール農民に非ず」と主張し続けてやまないのは、一刻も早く支配者による農民像をぶちこわさなければ、地域も人間も、のびやかに生きていけないのではないかという危機感からのものであると思いたい。「専業の呪縛」から抜け出そう。
▽67 第1回国勢調査の1920年。国民から申告された職業は3万5000種にのぼった。この多様さこそが暮らしと文化の基だった。
▽70 沖縄・やんばるの「共同店」。いまも30ほどある。全戸が出資した「みんなの店」。村で生産される農林産物の集出荷と生活物資の購入販売をする、農協と生協の役割をあわせもつ存在。利益は、村のみんなに役立つものに。
最近、大型スーパーによって苦労しているが……
買物の場所がなくなって困っていた東北宮城県の丸森町大張地区に共同店「なんでもや」がオープン。開店6年で年間売り上げは4000万円。1世帯平均1万円の買物を「オラたちの店」でするようになった。
▽83 農山漁村の過疎と、都市の過密。そして生活スタイルは単純化。
丸森町。商工会が音頭をとり、特産品づくりに向けて、地域内の資源の調査からはじめる。商品化できそうな物だけではなく、少量のものでも切り捨てずていねいに拾い上げた。
これまで地域資源というと、大量に安定的に供給可能なものだけに関心が集まりがちだった。さらに販売先として巨大マーケットを想定したため、米や特定の野菜加工などに終始し、競争原理にさらされ、短命に終わった。
丸森町は、少量で季節限定のものでも、積極的に拾い上げ、「資源カレンダー」としてまとめられた。調査は、主婦や農業関係者ら実際に利活用している人らの記憶や経験にあるものをリストアップしてもらい……(〓能登丼)
▽96 商品にすぐできる「持ち出せる資源」だけでなく、膨大な「持ち出せない資源」の活用法を生み出すことが重要。地域資源には外に持ち出すことによって失われてしまう価値がある……たとえば、打ち立て、ゆでたてのソバ……
▽100 丸森の資源である竹と柿和紙を使った食空間のデザインに。これまで、生活提案力とデザイン、総合化において玄海があった。
「丸森の年中行事と食を楽しむ会」。毎回50人の参加を募り、1回あたりの参加費は5000円ほど、行事食と加工品、工芸品のおみやげつき。それを毎月1回やれば……
▽106 特産品づくりのポイント 1)地域資源の概念を大量生産資源に固定して考えない。もともと日本の多くの地域は、少量多品種が特長であり…… 2)加工技術は地域内にある技術を中心にすえる。食資源をどう工夫していたか、女性や高齢者に尋ね…… 3)「持ち出せない資源」を味わい体験する場と機会の創出。 4)加工食品開発は、地域全体の課題解決に寄与する。そのためには、多くの人々との連携をはかる。「みんなでやる」場を。
性急な商品化への意識が、地域資源の概念を狭く受け止めてしまう。せっかくのリストの多くがふたたび「未利用資源」の蔵に入れられてしまうもったいなさ。
▽110 一村一品。特産品が売れすぎ、ほかから仕入れて売ることで評判を落とし……という実例。その土地を離れては地域資源も加工も存在しない。
▽113 北上町 目立った特産品、単一のものが大量に安定供給できるものはないが、田畑も川も海も里山もある……(〓能登半島の同様の豊かさ)
▽118 地域資源は商品化や経済化だけが活用の道ではない。……高度経済成長期、それまでの自給する暮らしや半農半漁の暮らしを貧しさとして切り捨てた。……つくる暮らしから買う暮らしへの転換。その陰で家族が変容していった。
▽126 かつて日本の農山漁村には、季節と生活の節目に、みんなで食材や料理を持ち寄り共食する習慣があった。講や結の集まり、……共働の食文化。北上町には、みんなで持ち寄り、みんなで調理し、みんなで味わう「地域の食卓」が健在だった。食の知恵を交換し、次世代に地域の味を伝え、コミュニュケの場でもだった。(報恩講、寺、キョーコの家〓)
▽132 小原地区「あるものさがし」地域資源アンケート。作物の「収穫できる月」、「栽培地区」「収穫できる量」(ごくわずか、自家用のみ、自家用以上にとれる……)「販売できるもの、できないもの」(出品の意思をうかがえる) 大河原農業改良普及センターの加藤健二さんが調査。
……朝市の開催のたびに売り上げが増加し、作付け面積も増える。都市住民と協同する「農のワークシェアリング」
▽140 宮城県宮崎町の「食の文化祭」 「委員会方式」だと、固定概念が強い。宮崎町の委員会でも「最大の資源は餅米」と結論づけ、真空パックの餅を売り込むべしと主張した。加工グループの女性たちは「つきたてが一番おいしい。それを特産品にできないかしら」。外に持ち出せないものを調べる。我が家の自慢料理を一堂に集めて展示してみようと「食の文化祭」。レシピ集をつくり、農村レストラン……「文化祭」を4年間サポートした若者たちが、可能性に気づき、「おいしさ開発研究所「おいしさ開発委員会」。人々の力が発揮されるようにするためのサポートとネットワークを主眼においている住民参加のシステム。
……委員会方式ではない組織化の方法〓
▽151 山形県真室川町 伝承文化の里。ここでも「食の文化祭」。普段食べている食事を1品だけ持ち寄る。
2005年、食と伝統芸能のコラボ「釜渕行灯番楽」。会費2000円で、番楽と食の祭りを堪能する。……真室川町の行事食をつくり、味わい、生かす「食べ事会」がはじまる。
▽157 真室川の隣の金山町の「谷口がっこそば」。閉校になった分校で集落の女性が開業。それを契機にソバ栽培がはじまり、製粉所ももつように。
▽159 九州湯布院の木工轆轤の名手、時松辰夫〓。島根の匹見にも。……真室川には、漆の木が20ヘクタールあるが、苦戦を強いられる。木地加工の施設がありながら稼働していなかった。
「器をつくるグループと、使うグループの研究を一緒におこなって、器と一緒に郷土料理が生まれるようなやり方をしている」
▽166 2007年、大規模化へひた走る日本の農政。4ヘクタール以上の耕地をもつ認定農業者か、20ヘクタール以上の農地を集めた集落営農組織以外は国の助成の対象としない、という。
筆者は集落営農に批判的。「年齢も営農計画も異なる多様な考えの農業者を、20ヘクタールでまとめたとして、どんな未来を描けるというのか。少しずつ積み上げた村づくりの成果を壊してしまうことにならないか」(〓うまく行く集落営農といかない所とのちがいは〓)
▽170 アメリカでCSA運動(community supported agriculture)。質の高い食材を提供する小農を守ろうとはじまったイタリアのスローフード運動や韓国の身土不二運動、日本の地産地消運動とも共通する。
▽171 宮城県鳴子町(現在は大崎市) 鳴子の米プロジェクトで、作付けが増加。「鳴子の田んぼが足りなくなるな。昔のように新田開発そしなくてはなんねえな」
▽179 東北の可能性を弥生の米の延長ではなく、縄文の豊かさに求める言説があいかわらず繰り返されている。……東北の歴史から田んぼにかけた人々の思いと営みを除いたら、いったいどんな民の歴史が語れるというのか。
……300年つづいた山の田んぼが消えてしまった〓
鳴子町鬼首地区 開拓集落「米をつくることが生きる希望だった」
▽188 2007年、鳴子の米・発表会。東北181号を育てる農家は7倍の21農家に。旅館のご主人や……たくさんの人が田植えに参加。農家に1万8000円を約束し、2万4000円で消費者に売る。差額の1俵6000円は、農業を志す若者の支援や、研究開発につかう。
▽193 「限界集落」を巡る言説は、危機感をあおりながら、政策介入をもくろむにおいが漂っている。学者と官僚が結託して進める地域対策の手口は、人の暮らしの現場を抽象的な数値に置き換え、分類し、効率性や費用対効果をシミュレーションし、「限界集落」「消滅集落」などのレッテルを外からはりつける。そのレッテルを浅薄なジャーナリズムがさわぎたてる。かくして「集落整備事業」なる施策が策定されることになる。……人の暮らしの現場を外から勝手に決めつけるな。……そこに暮らし続ける人が「限界」と思わなければ限界ではない。彼らこそ、グローバリズムに抗して、静かに凛として日々を生きている。
▽196 政府は農家を面積の大小で選別し、多くの小さな農家が支援を受けられなくなった品目横断的経営安定対策という制度がはじまった。その結果、鳴子の620戸のうち国の支援を受けられるのはわずか5戸。(〓制度によって農家は右往左往させられる。猫の目行政)
▽208 今人々は「食の安全・安心」よりも「食の安定・確保」こそがテーマであると直感しつつある。食糧の60%を海外にゆだね、低価格生産を限界点にまで押しつけながら、さらに安全・安心を保証しろといってはばからない厚顔無恥な日本の消費者である私たち。商業資本が巧みに演出する「食の安全・安心」にからめとられ、生産現場の労苦の現実を何ひとつ知らず、金さえあればなんでも買えると思い込んでいる意識からの覚醒こそが問われている。
▽213 高校教科書「グリーンライフ」(農文協) 全国250校で採用。グリーンツーリズムや市民農園、観光農園、農産物直売所など、農政から傍流として軽んじられてきた分野が中心。
▽216 ロシアのダーチャ。ロシアのジャガイモの6割以上が家庭菜園で生産されている。1億5000万人総兼業農家。自給的農家。ダーチャこそが最大の生活インフラで、最大の安全保障の拠点。
▽218 沖縄のやんばる地域。高齢社会に大切な5要素。「あたい」(=自給の畑)、日々「ゆんたく」(=お茶のみながらのおしゃべり)、「ゆいまーる」で支え合い、「てーげー」で生きる、「共同店」をもつ。
▽227 57歳で農地と家を買い求め、ささやかな農業をすることに。……
▽231 農山漁村にはこれまでにない変化が起きている。時代はすでに都市と企業を離れて、農山村と農的生活の再構築へと向かい始めた。感性豊かな若者はその先導者。(〓そうなのか。マスになりつつあるのか)
▽237 三沢勝衛の「風土学」〓。村を村たらしめる持続可能な力とは何か。村の家族を何代にもわたって支えたものとは何か。……その謎のひとつがとける……
適地適作という農業の基本は、その土地の風土の把握から始めるべきではないのか、と三沢は説く。家屋敷や物干し場、貯蔵施設の配置なども風土の把握によって決める。
「何もない町」ではない。都市の基準で農山漁村をとらえてはならない。金のモノサシではなく、風土と暮らしのモノサシでとらえよ。北上町には、三沢風土学を今も生きる女性たちが、海の声を聞き、山にたずね、川に耳を傾けながらおだやかに暮らしている。
戦前、地方の疲弊と財政難を背景に「自立更生運動」の名のもとに農村工業の導入と満州移民の政策が進められた。三沢は「満州に行くな。村に残って、わが足元の自然と風土を見つめ直し、ここで生きていく手だてを築こう」と呼びかけた。「都市にとどまるな、村で楽しく暮らせるぞ」と私の胸には響く。
三沢風土学は「知るために学ぶな! 使うために学べ!」ということになろうか。生かす力が生きる力になる。
三沢は教え子の高校生に、まずはその場所に行ってみること。何度も足を運び、時系列的観察と考察が大事であること。諸現象の相互関連性をとらえて多面的に考えること。……と力説したという。
▽247 中越地震の震源地・川口町 山に暮らす第一の流儀が生きる基本の土台を人と金にゆだねないことだとあらためて知る。……棚池で錦鯉を育てる……山の腐葉土の栄養をたっぷり含んだ「水肥やし」があるから米を育て、鯉を育て生きていけるという。「耕していればおだやかに生きていけるのに」と老婆。(重い言葉〓)
▽255 福井県池田町魚見 福井県1の高齢化率だが、池田町は単独自治の道を選んだ〓。なぜか。若い町長「町民が口々に『今までもやってこれたのだから、これからもみんなの力を合わせてやっていけないものか』と言うんですよ。……戦わずに、滅びるを待ちはしない。……幸いこの町には霞ヶ関や県庁をやめ、一緒に頑張りたいという、いい人足の職員がたくさんいます。まだまだ農村には力があります」
▽257 鹿児島県霧島市山ケ野 東北で1999年にはじまった「食の文化祭」が、九州だけでも30カ所で開催している。山ケ野金山は昭和28年に閉山。
▽264 長野県の李平。昭和40年代の集落整備事業で廃村になったが、30年以上も夏の間は山にもどり、農業をつづける清水平吉さん夫妻。
▽268 秋山郷のある長野県栄村。庚申講は隔月で開かれ、その夜はみな夜明かしをして、さまざまな話をする。「互いの心根が見えてくる。それがこの村の支え協力する力になっている」(〓結をはぐくむ伝統行事=民衆の知恵)
▽274 新潟県山北町。焼畑農業が今も残る。夜に火入れ。……翌朝、下から上へと全員でカブの種をまく。かつてはアワ、ヒエ、キビ、麦、大豆、小豆、大根、里芋、ゴボウ、エゴマ、麻もつくられた。
共同で種をまき、均等に境界線をひき、くじ引きで収穫場所を決める。「この地は協助の風が強い」と宮本常一がかつて記した村の流儀が今なお失われていない。
▽280 高千穂の五ケ村地区にある「神楽の館」という神楽宿兼農家民宿。道路拡幅で解体されてようとしていた古民家を9戸の農家が50万円ずつ出資し、残りは連帯保証で借金し、1800万円かけて完成させた。工事もすべて自らの力と技でおこなった。〓〓
冬場は神楽が奉納される。……昔日の青少年が縄ない、茅おろし、薪きりなどをし、労賃を貯めてたてた公民館。(久万と同じ〓)
▽300 白米千枚田 「棚田の謎」(TEM研究所著、農文協)〓によると、白米は中世から塩づくりを生業とする寒村で、江戸期には13軒が塩をつくったが、瀬戸内の塩によって衰退。それを補うため、山の水源近くに井堰をつくり、水路を築いて田の面積を広げていった。明治12年、24戸の白米村には6・8ヘクタール8000枚近くの棚田があったという。棚田ができるまでの年月を252年と推定。……9株しかない田も。「俺と女房の1日分の米にもならないな」
▽305 朝市。行商用のリヤカーをひいて売りさばく。座して待つのは能登の流儀ではない。輪島塗さえ、塗師たちが漆器をかついで行商したから全国へと広がった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次