■山に生きる人びと <宮本常一>河出文庫20111218
水田で生きてきた農民とはちがう系列の人々が日本の山の中には脈々と生きてきた。
だが同じ隔絶した山に生きる人々でもバリエーションがある。地すべり地帯のわずかな土地に稲を植えようとするのは落人の子孫、つまり平地から逃れてきた人が多い。さらに山を出自として焼き畑を営む人のなかでも、木地師からの系列と、狩猟民からの系列は異なる文化をもつ……。
四国の石鎚山系のけわしい山では、谷筋ではなく、水系から離れた中腹や尾根に近い部分に集落が点在していた。それらの集落は稲作文化をもつ農民(弥生系)とは別の、山岳系(縄文系)の人々だという説明を見て合点がいった。
四国の山中は昔は焼き畑で生計をたて、ムギ、ヒエ、里芋を主食としていた。天候の変動に弱くて、しばしば飢えにさいなまれたが、トウモロコシやサツマイモという米大陸由来の作物の導入によって、ようやく生活が安定したという。
中国山地では戦後直後まで炭焼きが重要な収入源だった。ずっと昔からだと思ったら、木炭が商品価値をもつのは、都市が形成されるようになってからだという。さらに中国山地の炭焼きの人々の大半は、たたら製鉄からの流れをくんでいるという。
今まで見てきた山の集落の風景の意味がひとつひとつ解き明かされ、自分のもつ「中山間地の農民」というイメージがいかに平板だったかを思い知らされる。
木地屋の起源についても興味深い。
奈良時代は大寺院をつくるためろくろ師(木地師)たちは働いたが、平安になって寺や仏の規模が小さくなったことで、寺から離れて民衆一般の日常生活用具をつくるようになった、と宮本は推測する。木地屋が民衆の食器をつくるようになったから、奈良から平安になると土器の出土が著しく減る。漆器が主流になるのだという。
四国でも中国地方でも九州でも「木地」の名がつく集落があり、近江とつながる伝承をもっているが、明治時代になっても、明治政府ではなく「近江の木地屋の役所からの命令さえ守っておればよい」という人々がいた。東北のコケシは、会津藩主が近江から会津につれてきた技術者によってもたらされた。幕末のころの木地屋の数は7000戸にのぼった。
木地師の祖先が朝鮮半島からわたってきてからの歴史が、つい最近まで身近に残っていたことに驚かされる。
(四国の村々、たたらと島根県と田部家の歴史。白峰村の牛首、能登半島の南山(鍬柄づくり)、能登町の鶴町の雑木が製塩の材料になったこと……知っている地名がたくさんでてくるのも楽しい)
====================
□塩の道
▽13 専売制になって、海とつながる槇鼻峠の道がなくなった椎葉村。村役場の専売所に買いにいくようになる。
新潟県北部の山の人は、冬に木を倒して海岸へ流し、夏は塩だきをして山へ持ち帰った。その後、海岸の人に塩をたいてもらうようになり、瀬戸内から塩がくるようになると、それを買うため薪を新潟の町で売るようになる。だからこの地域では薪を塩木と呼ぶ。
▽能都町の鶴町という山中の村では、雑木を馬の背にのせて北海岸まで運んだ。そこでは上げ浜で百姓たちが製塩していた。能登の山の尾根になっていて、それが海岸の方まで通っているところにはたいてい道がある。この道を塩木道といったという。
大きな杉は建築材や造船材とした。船木を運ぶ道を船木道といった。この道は、たいてい谷についていた。
▽18 鹿児島や宮崎には塩を売って歩く行商者がいた。「塩売おぢ」「塩売おば」といったという。村人からはやや軽蔑されていた。専売制になって忘れ去られた。
□山民往来の道
▽20 石鎚の西之川。業病の人たちのみが通る道を歩く老人と出会う。「カッタイ道」
▽23 山中で畑作を主として生きている人々。山の中腹や尾根の上に村をひらいて生活している。そこに住みついたときから米に頼ろうとしない人々がいたことは飛行機から見下ろした景観のなかに読みとれた。そしてそれらの村をつなぐ道の多くは山の尾根か中腹を通っている。水田を中心とした野や谷の村とは別の世界があるように感ぜられる(〓石鎚村、風景から読み取る)
▽25 山地に水田耕作を主としない居住者がいた。そんな村が中国山地には相当数にのぼって見かけることができる。それらの集落をつなぐ道も多くは尾根を通っている。
山中の村には山岳信仰と結びついて発達下者が少なくないが、それらの村の多くが水田耕作を主体としていないことはほぼ共通している。高知県の寺川も。周囲の村々と異なり、焼き畑を主にして生計をたて、麦、稗、里芋を主食として……
高知県の韮生の奥の太郎丸も。文字を書く者も幕末のころまで1人もいなかった。男女とも他郷へ出ると、自分の村のことを語るのを恥とした。
甘藷がはいってきて、ようやく生活がおちついてきた。(〓トウモロコシや芋の役割)
平家の落人伝説。山麓の人々とほとんど交渉をもたず……そうした数戸の村がほろびもせずつづいてきたのは、そうした村相互間に往来のあったためだ。寺川では、若山・樫山・椿山という、2,3里ある在所まで若い者たちが夜這いにいって、かえりには夜が明け、山中で昼寝してきたこともあったという話も聞いた……
□狩人
▽37 上野・下野、高野・吉野の山中にもとは狩人が多かったものと見られ、それが次第に四散していったものであろう。日光といい高野といい、古い山岳信仰の聖地であり、日光は天台、高野は真言の道場であった。狩人たちは仏教が盛んになるにつれ、殺生の罪障を神仏の加護によって祓おうとし……そのような伝承をもつことで精神的な支えとし……
マタギたちの山中での生活を描いたものに越後塩沢の鈴木牧之の「秋山紀行」がある。〓
▽45 野獣防衛 シシ垣は丹波山地には今も。箱根周辺では、山中にシシ堀。
□山の信仰
▽52 山中に住む聖と狩人の出会い。狩人が里で仏法に接触することによって、殺生の罪を消滅せしめるため、狩人が聖としての修行をおこなう場合がすくなくなかったと思われる。狩人の世界ほど仏法ははいりやすい余地を持っていたのである。
▽55 死者の霊が山にはいるという考え方は仏教渡来以前からのものと見られるが、仏教は在来の思想をそのまま習合して山の彼方に浄土を考えたのであった。
□サンカの終焉
▽59 主として川魚をとったり、野生物を加工して生活用具をつくる仲間が、狩猟を主とする者からわかれていったとみられる。サンカとよばれているものである。
サンカのいるところ必ず犯罪があった。奈良・大阪地方ではこの仲間をサンカともヒニンともよんでいた。
大正の終わりには、大阪にはいくつかの大集落をみかけた。天王寺駅の西方、市民病院のたっているところ(ミカン山)、新淀川の長柄橋の下の河原、都島橋の下。
昭和にはいって、府警の手入れで解散し、一時、神崎大橋の下へ移ったときいたが……
▽62 吉野や仁淀川、吉野川流域でも出会った。いずれも川魚をとっていたが、秋田のマタギの様子となんら変わりはなかった。
阿蘇南麓の矢部にも。……竹細工やわら細工の技術、回帰性移動……しだいに農耕民に吸収されたが、近畿から中国・四国にかけては、そのような集落が特殊視せられて今日にいたっているものがすくなくない。三角寛の研究。
□杣から大工へ
▽74 東大寺などの巨大寺院を建てたり改築したりするため、遠く山口県などからも木を切り出す。1本の木をどうやって切り出して山から川、海をへて奈良まで運ぶか、微細に再現することで実感としてわかるように伝えてしまう文章のすごみ。
▽76 平城京のスケール、東大寺の規模は鎌倉時代より奈良時代のものはさらに大きく、西大寺、秋篠寺、興福寺、新薬師寺……どれだけ多量の材を必要としたか。多くは伊賀や近江から供給せられたようだ。
□木地屋の発生
▽80 江崎政忠氏の話
山中の盗伐、かと思ったら、そこに小屋がけしてしばらく住んだ形跡があり、あとには木屑がおびただしくのこされている。「それは木地屋のしわざだろう」。たいへん気の強い人たちで、その仲間に近づこうものなら生きては帰れぬものだと信じられており……
惟喬親王の家来太政大臣小椋実秀の子孫と称して、古文書のうつしを大事に保存している。そして山7合目から上の木は自由に伐ってよいことになっているという。……明治政府ができ大名のいなくなったことくらいは知っているが、昔から近江の木地屋の役所からの命令さえ守っておればよかった。
江崎氏は定住させ、木地の素材を提供する約束をした……すると盗伐はほとんどなくなった。
明治30年前後までは山林関係の役人も木地屋が何者であるかをほとんど知らなかった。
▽82 木地師の本拠は蛭谷と君ガ畑の2カ所がある。前者は氏子狩帳にしるされた名は正保4年(1647)以後約5万人。後者は8000人の氏子の名が記されている。これによって木地屋の全国的な分布もわかってきた。
▽84 東北地方のコケシ 製作者たちは、会津領主蒲生氏郷によって近江から会津へつれてこられたものが東北各地に散在居住するにいたった。
▽86 弥生までは土器が多いが、奈良から平安になると土器の出土がいちじるしくへる。それは木器が多く用いられるようになったためではないかと思われる。
平安時代になって伽藍仏教が衰退して山岳仏教が盛んになり、造寺・造仏の規模が小さくなり、ろくろ師たちも寺からはなれて民衆一般の日常生活の用具をつくるようになっていったのではないか。〓〓そのためには、適した木のあるところをさがして移動するようになっていった。
全国的に土器の使用のへってきたということは、それだけ木地屋の活動がめざましかったのでは
木地屋の活動を盛んならしめたのは塗師の仲間である。木地の脆弱さをうるしで矯正する。うるしかきもまた回帰的移動をおこなった。吉野郡の名塩は、戦前まで回帰的移動がみられた。会津にもそんな村があった。岩手の浄法寺、会津の春慶塗、輪島塗、和歌山の黒江塗などいずれも木地屋とうるしかきの関係の密接なところに発達したものといえる。〓
□木地屋の生活
▽91 商品交換して生計をたてるには、文字が必要だから、木地屋は文字を理解する者が多かった。たえず移動しているため、自分たちの社会的地位が高いものであることを誇示する必要があった。……の子孫であるといいふらして歩いたのはそのためだ。
▽92 木地屋の全国的組織網ができており、申し合わせによって移動をおこなったと思われ、近江小椋村がその中心だった。1647年に筒井八幡宮社殿造立のとき、ほうかちょうをまわしてカネを集めたが、若狭・丹波・伊勢・伊予などの地名も見いだされる。(組織のあった証拠、柳谷も?)
近江系でない木地屋も、近江系にくりいれられることで特権を確保できるから、やがて全国的な組織ができあがる。……青森にはコケシがあり、鹿児島には木地山という地名がある。
▽94 氏子狩をおこない、全国の木地屋を小椋を中心にした統一体にしあげていった。
▽98 近江の小椋村が中心。朽木谷も。広島県山県郡の那須も中国地方西部の中心で、山口・広島・島根で仕事をしていた木地屋のほとんどはここから出ていた。東北は会津が中心。
全国の木地屋の数は幕末のころ7000戸にのぼった。……はじめはろくろで木地物をつくるだけだったが、定住をはじめると焼畑で食料自給をはかった。小椋にも、南畑・北畑とよぶ呼称があり、南畑はさらに6畑にわかれ、君が畑もそのひとつだった。木地屋の定住したところには焼畑が多く見かけられた。
木地の技術を大陸からの伝来とすれば、焼き畑耕作の技術なども同時にもたらされたとも考えられる。
□杓子・鍬柄
▽101 矢は以前は柳を利用したから、ヤナギはヤノキのなまったもの。今のカワヤナギだろう。タケも早くから利用された。
大峰山の西からの登山口である洞川は、ヒノキの曲物の製造が盛んだった。
▽103 大塔村篠原ももとは杓子木地の村。小椋村とは別系統の木地屋の村だったが……慶応3年にコレタカ親王千年忌をおこなうための寄付を求めた際に応じた。(木地伝説の広がり〓)
▽104 白山麓も焼き畑が盛ん。白峰村では、鍬棒を多く作り、加賀・越前平野の農民たちに供給した。その中心が、白峰村の牛首だった。300年以前は修験の村だったが、柴田勝家に攻められて寺を焼かれ、すっかり帰農してしまった。
▽106 能登半島の南山。鍬柄をつくり、1年間に2回開かれる海岸の正院の市で売る。生産力の低さのためろくなものも食えず、正院の市でブリの頭を買ってきて、それを鍋でたいていると「出汁をだしたら貸してくれまいか」と3軒が使い回す。
▽108 川上から椀が流れてきて、さかのぼったら村があった、という伝説。この村の人は川下からさかのぼって住み着いたのではなく、山越えにやってきて住みついたもののようだ。(〓柳谷の猪伏)
□九州山中の落人村
▽114 狩人もサンカも木地屋も、自然採取から一歩進んだ形で焼畑をおこない農耕生活へ接近していったので、畑作が主だった。
宮崎県諸塚村は「稗つき節」の椎葉村の東北に隣する、いたって不便な地。
▽117 記録を持たない世界では記憶にたよりつつ語りついでいるためか、案外正確に450年以前のことを記憶していた(〓レヴィ=ストロース)。もし口頭伝承がこれほど正確なものならば、落人の伝承をもつものには何らかの根拠があったのではないかと思われる。
▽122
□天竜山中に落人村
▽127 九州山中についで落人武士の定住の多かった山中は、天竜川中流の信遠参にまたがる一帯である〓
▽134 一切の政治的拘束から逃れるため熊谷家が山中に逃れ落ち着いてから200年の後、また封建的な政治支配の中にくりこまれる。主をもたず、主に強いられず、年貢をおさめず、夫役をつとめず、自由にくらしたいということで……にもかかわらずこの山中へも強力な武力支配の手がのびてくる。落人も落人でなくなっていく。
▽136 平家の落人といわれる村には水田が多い。それも山の湧水でつくっている。もっとも悪い条件のところである。その点、最初から山地に住みついて自然採取を主にして生活していたものと生活の上で差が見られる。狩猟や木地物づくりには比較的関係がうすい。落人たちは農業を主にして生きようとした物が多かったからであろう。(そうだったのか!?猪伏は、石鎚は?〓)
□中国山中の鉄山労働者
▽139 中国地方の山は、準平原をなし、山中に小さな盆地をかかえ、早くから人が住みついていた。明治時代の地形図をみると、谷奥のようなところに民家がぽつんと散在している。江の川中流の邑智郡地方にとくによくみかける。これらは昔、砂鉄を掘った旦那の家であるという。……砂鉄掘りの旦那は、敗戦の落人が多かった。尼子の家来、豊臣の遺臣……
大阪の能勢山中には銅や銀の鉱山がたくさんあった。ここの鉱山労働者も能勢の衰微にともなって中国山中へ移動していったものだろう。
▽142 銑鉄にするたたら、鋼鉄にする鍛冶屋、大炭を焼く者、荷を運ぶ駄賃稼ぎ。たたら師と鍛冶屋は山内者とか場所者とよばれて農民から特別の目で見られていた。
鉄穴場とたたらとは離れていることがすくなくなかった。津和野近くにはたたらがたくさんあったが、鉄穴掘りはしなかった。江の川筋からもってきた。広島県可計町のたたらも、県北の山中の鉄穴場で得た砂鉄を馬で運んで精錬した。
しかし、備中・備後・出雲は、鉄穴場とたたらがいっしょにあった。
山の木がなくなると移動する。何十年か後にまたちがう人がもどってくる。ひとつの部落の歴史が血のつながりによってつづいていくのではなく、断絶をくりかえしつつつづいていくところにたたらの村の特色がある。
▽145 ……1丁歩の山を3夜たらずでつかってしまう。……中国地方の山がはげてしまった……
山内者たちは山から山を渡り歩き、家も掘っ立て小屋で床はあるものがすくなく……村人たちからは軽蔑の目で見られていたが、こうした生活をつづけてきた人が中国山地には5,6万人もいたのではないか。
□鉄山師
▽149 田部家は紀伊の田辺氏の一族で、もと首藤山内氏につかえていた。1205年に首藤氏が備後国地〓庄の地頭に。田部家は、首藤氏の家臣だったが、後に出雲の吉田に帰農して寛正(1460-66)から鉄山経営をはじめたといわれる。
▽152 田部家の土地に住んでいる者は、家屋を与えられるばかりでなく、農具・家具も貸し与えられ、山林・原野の利用もみとめられた。それだけに主家への従属性がつよかった。これを株小作、株下作という。
仁多町阿井の桜井家も落人で鉄山経営に成功した家だ。先祖は塙団右衛門といわれている。
▽154 鉄穴流しをおこなった池や、鉄穴溝ものこっていて、牛があそぶには適している。砂鉄掘りをしたあとはほとんどといってよいほど牧場として利用せられている。
桜井氏が精錬所付近にもった山林は4000丁歩といわれ、田部家にいたってはその10倍をこえる山林を持った。……大山林地主のあるところには大きな鉄山経営がみられ、鉄山経営があるところには株小作がみられた。
▽156 藩は製鉄業を保護し、鉄山師もその地位をかためるため藩主への献金をおこない、特権階級にのしあがった。
山奥に5戸、10戸おきわすれられたようにのこっている村は、たいてい鉄山労働者。背後の山は鉄山師の所有であり、それとの縁が切れると、山林の自由な利用もゆるされなくなり、山間にあって山林をもたない村ができあがる。(程原は?)
□炭焼き
▽161 日本における木炭生産の歴史は鉱山業ともっとも深い関係を持っていた。同時にそれが山奥深く人を住まわせるようになったことも見逃してはならない。……明治になって銅の精錬に石炭が使われるようになると、秋田県…では生計を失って北海道へわたる者が多かった。一部は山林労務者に。近世以来、徐々に都会の発達を見るにつれて、家庭で木炭が用いられるようになってくる。こうした家庭用の木炭の生産技術はやはり鉱山用炭と深い関係をもっていたようで……はじめは鉱業用の炭を焼いていた者が、家庭用のものを焼くようになったと思われる。広島山中から島根山中にかけては炭焼きを業とする者が多い。しかも、地元の山を伐って焼くのではなく、焼子としてやとわれて出て行く。越前山中も、銅山が廃坑になってから旅へ出るようになったという。
□杣と木挽
□山地交通のにない手
▽182 会津奥の村。山中の文化は長く停滞。昭和の初めまで穴あき銭が通用し、文を単位にした呼称があった。……牛は馬よりも細い道を歩くことができたし、どこでも横になって寝ることができた。飛驒から野麦峠をこえて日本アルプスを横切り、信州の松本平までブリを運んだのも牛の背を借りたことが多かった。
▽184 長野県下伊那郡の清内路村は、古くからタバコをつくり、女郎たばことよび、京大阪に出していた。タバコ専売制がしかれてから栽培は中止せられ養蚕に。(〓専売制の害=塩も)
山中へ運ぶものは塩と米が多かったが、油・灯心・布類・農具なども。それらは里の3割増の価になり、同様に売るものは3割低かったため、平野の人たちに比して物価に6割の差を見なければならなかった。山中の生活は苦しい。
大和吉野山中の天ノ川谷。檜をうすく割ってサクラの皮でとじてつくる木製の桶。室町時代の終わりごろ、短冊形の板をたてならべ、竹のたがをはめ、円形の底を入れてつくる桶が考案された。それまで考えることもできなかったような大きな液体容器を持つことになった。酒や味噌をつくる陶製の壺は2石入程度が限界だったのが、桶では20石入の容器も。それが酒造業を大きく発展させることになる。(〓山の技術は最先端)
伊丹と堺の酒。江戸に船で輸送したのが樽廻船。酒造地は吉野からの樽丸の供給によって栄え、吉野の林業は、大阪湾沿岸の酒造の発達によって発展した。
▽189 加賀白山の山伏。市ノ瀬などは山伏らしい支度をすてて農業に精出し、鍬棒をつくり、ボッカとして越前勝山まで荷を運び、登山期は、強力や道案内をつとめる。
中世にあっては、山伏が山間交通のためにつくしたのでは。……山伏が遠方への通信伝達の役目をはたしたことは「太平記」にも見える。彼らがもっとも旅なれていたことにも原因があろう。
□山から里へ
▽193 焼畑は凶作や天災に弱かった。白山山麓の村々がまさにそれ。親方の住む牛首の部落に出て物乞いをした。……山中の民は物乞いだけでなく物売りにもでかけた。買う側は、ことわるとなにかたたられることもあるかと思い義理に買うこともすくなくなかった。
▽200
▽202 山中では自給中心の生活はたてられず、交易によらざるをえないため、外部の影響をうける度合いはつよい。今日のように消費がぐんぐん山民の生活を追いたててくると、消費が生産をこえ……野に働きに出なければならなくなる。山中にあっても米を食い、テレビを見る生活が一般的になった。
□民衆文化と山間文化
▽205 のたれ死にした人の骨を高野山に埋める「骨上せ」。一遍の流れをひく時宗の僧たちが亡者の骨を高野へもってのぼることによって高野聖とよばれるようになった。
▽206 伊予喜多郡山中などには今も村念仏という古風な念仏踊りがのこっている。そうした村は、深い峡谷をのぼった山の中腹のやや緩傾斜にあり、もとは焼畑づくりを主として、コウゾ・チャなどを生産していた村々であり、山民としての性格をつよく持っている。(面河のアイノミネは?〓)
▽208 尾張・三河はもともと時宗が盛ん。家康も時宗の僧の血をひき、秀吉の父も時宗の僧か信者だったと思われる。三河の平野から山間にかけては念仏踊りがきわめて盛んで、100年あまり前までは全村こぞって踊りくるう風景も見られた。それが急におとろえたのはなぜか明らかではないが……
▽209 念仏踊りが広い範囲に残存したのは、供養のためだけでなく、雨乞い、豊年踊りにも利用される幅の広さがあったためだろう。また、名利をもとめずひたすら社会に奉仕したことに魅力があったのだろう。
人のいやがる死者の世話をし、……半俗半僧の毛坊主。毛坊主のなかには真宗の僧もいたが、時宗の僧のほうがはるかに多かったようだ。
……死者の供養に踊りを用いたことも民衆の日常生活を明るくすることに役立っている.念仏踊りのさらに民衆化したものが盆踊りと思われる。
▽212 ……時宗と熊野などの山岳信仰との結びつき
□山と人間
▽213 飛行機から見下ろすと、山の上に畑がひらけ…ほとんど水田がない。水田と畑作地帯の間に断絶がある。四国山中だけでなく、九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木にも見られた景観。南九州には八重(はえ)という名の血がたくさんあり、800-1000メートルの山の中腹以上に分布し、そのほとんどが畑または焼畑を耕作している。隼人というのはもともと八重に住む人の意ではなかったかといわれている。
吉野・熊野山中にも、天ノ川、大塔、十津川などの村々の大半は水田をもたず、焼畑、定畑を耕作し、集落は山腹のやや緩傾斜面にある。
三河山中から天竜川筋にも多かった。
石川県の白峰村も。
▽217 盛永俊太郎「稲の日本史」「平家の落人が入っているところはみな地すべり地帯。地すべり地帯はみな土地が肥えて、水を得やすいからよい水田がつくれる。山の中で水田をこさえようと思えば、地すべり地帯へ行けば、自活農業の水田ならば容易にできる。そのかわり、大きな田をこさえても長年の間に滑るから、田んぼが小さい。一反千枚田という小さい田も地すべり地帯の特徴」
平家にかぎらず、落人の山中定住のはっきりしているところでは、たいてい水田がそこに見られる。
▽218 山中の畑作中心の集落は、狩猟採取生活から畑作農耕へと進んだものと見ていいのでは。こうした畑作集落には、猟銃を持つ者が若干ある。阿蘇地方の畑作地帯、愛媛県西条の藤野石山村、前大保木山。
▽222 高知県寺川。川魚のアメ(アメマス)やハエをとってたべる。米がないから餅はつかず五節句もない。12月26日ごろには家で豆腐をつくる。正月中にたべる田楽豆腐だ。餅のかわりに稗団子をつくる。一般に長命で100歳を超えなければ長命とはいわない。
▽229 焼畑の統計 高知が多いのは、山を焼いて畑をつくったあと、ミツマタを植えてその後に植林する方法のとられたため。
明治32年に国有林施業案が実施されたとき、民有林でも山焼が禁じられたところも少なくなかった。焼畑面積が比較的少ないにもかかわらず、焼畑戸数が3000戸以上報告されたところが、とくに急減したところ。
焼畑は、分布が西および、日本海岸にかたよっている。その技術が縄文期に朝鮮半島を経由して日本に伝播し、主として山岳民の間に定着したのではないか。〓
▽237 山中の焼畑作農民の中には、狩猟系以外に、杣・木地など木材採取を主とする系統があった。〓
▽239 諸寺建立の機運がおとろえた後も、山中にとどまる山作所の木工の人々。狩猟民は文字を持つことは少なかったが、山作所の木工のなかには文字がわかるものも少なくなかった。狩猟民との共通点は、焼畑作りをしたこと。……ろくろ木地師はおなじ山民ではあっても狩猟系山岳民より温和であったと見られる。
▽240 山岳民、闘争を繰り返す。南北朝の吉野朝廷成立の背後には彼らがいたといっても過言でないほど勇敢で執拗だった。その抗争の歴史は1330から1440年ごろまでにわたる。
▽243 椎葉では、秀吉の検地にも抵抗し殺戮される。……中世にもっとも活発な武力活動を見た山岳民居住地帯は、近世初期あいついで徹底した討伐にあい、去勢される。(中世の寺社勢力の盛衰といっしょ?〓)
▽246 元来稲作農民は平和を愛し温和である。一方で武士の社会が存在し、切腹や首切りの習俗もある。それは周囲民族の中の高地民の持つ習俗に通ずる。そこで、武士発生の基盤となったものは狩猟焼畑社会ではなかったであろうか、と考えるようになってきた。九州の隼人は、山地の緩傾斜面で狩猟や焼畑で生計をたて、関東武士も畑作のおこなわれた山麓、台地を基盤に発生している。
縄文期の民族的文化が焼畑あるいは定畑を中心にした農耕社会にうけつがれ、水田稲作を中心にした農耕文化が天皇制国家を形成してくる。この2つは、ずっと後々まで存在し対立の形をとったのではないか。
コメント