■季刊東北学 第4号 宮本常一、映像と民俗のはざまに 201002
□座談会宮本常一が遺したもの
▽7 関野「石毛さんに相談したら石毛さんは、その土地の人が何を作り何を食べているかというのはいい、自分の食べたものを漏らさず記録したら、と言われた」
▽10 宮本常一は、ハッとしたら撮れ、オヤっと思ったら撮れとよく言っていた。
驚いたり感動したりした時は、ボーッとしてないで、すぐにシャッターを押せと言われました。
▽17 写真を示すだけで、それがどこかわかってしまう。写真を読む。……歩いていないと身に付かない。
森本 千晴さんは何を撮ったということが他人にわからない写真は駄目だという考えの持ち主。
僕は千晴さんから「人でも風景でお、キャプションを言いながら撮れ」〓と言われました。2つのものを1つのフレームに収めてしまってはダメ。
▽21 アマゾン 彼らのことを記録し、彼らの一宿一飯の情に報いるには、同時に自分がたべていくには、と考えて医者になった。
宮本千晴さんの関係で探検や山登りをする人たちが集まって地平線会議に発展していく。……宮本さんはアカデミズムであまりテーマにならない庶民の暮らしや思想をすくいとる仲間がほしかった。その仲間集団が観文研だった。あくまで地域作り、村づくりをする仲間であり同志だった。鶴見良行さんも市民研究家をめざし「都市から離れたインドネシアの辺境の森の中をさまよっている人々に思いを馳せるような学問はないものか」と書いていた。
▽24 森本 宮本さんに日本の漁村を歩いてみたらと唆されるまで、漁村や漁業のことはほとんどわからなかったし、民俗調査などずぶの素人でした。……「ともかく広く歩きなさい」が彼の持論でした。広く歩けば、それまで点でしかなかった土地がさざままに交差した線で結びつくようになる。〓
日本中を歩いた体験と蓄積は、拠点主義にも十分活かせる。
□大隅半島東海岸の旅 川野和昭
▽37 夕飯に出た猪肉に「このあたりでは猪は毛を焼いたまま皮もはがないで一緒に食べる」と新鮮な発見をしている。皮を食べ、猪肉で満腹になるという食事の存在を発見する。それをきっかけに、狩りの習俗……の聞き書きにおよんでおり……
▽47 柳田は、甘藷を見ても、コバを見ても、飛び石状の島々を見ても、sれはすべて稲の来た道として把握され、日本列島を稲作一元論的にとらえようとする「海上の道」のまなざしが垣間見える。宮本と坪井のまなざしの先には、いつも少数者がいた。しかも、列島全体を視野に入れながら、村々では少数の人々の内側によりそいながら聞き書きをすすめるフィールドワーク。2人が最終的に紡ぎ出したのは、稲作だけに一元化しない、多元的で多様な日本文化の構造だった。
宮本は「フォークロアが新しいものの発見のための学問でなく、できあいの分類」でしかなくなった民俗学を糾弾し、「目につくすべてのものを人間にかかわるものとしてもう一度掘り起こしてみる」必要性を説き、「今の民俗学は素材としても成り立っていない」と言い捨ててあの世へ旅立った。
□尊民攘夷の民俗学 宮本常一「大内宿」再考 相沢
▽51 家の1軒1軒を丁寧に撮影する。
旅先では、その土地の者が、どのような生き方をしているのか、何を語りたがっているのか、まずはそれを受け止めてみること。(〓自分の枠を捨て、相手をまずは受け入れる)
▽55 宿場保存。「大内は森の中にある村にすべきである」……草屋根が残ったのは、共同体がしっかりしていたからで、その力で未来の村を切りひらいて欲しい……
▽60 おやっと思ったものは撮っておくとよい。後になって学ぶことが多いものだ。写真の効用は記録性にある。感じたことや考えたことは何でも書きつけておけ、いつかそれが自分の考えを磨く原点になる。
▽63 (論理的でない、という批判に)論理的と称する者の多くは都合の悪いものを削除して書くものだ。第一、ワシは食うために書いてきた。論文として書いたわけではない。……民俗学は、単に過去をさぐる起源論であってはならない。民衆の生活は、常に変容しつづけてきた。……とにかく歩いて、現場を見ろ、そして文字や映像によって一次資料の提供者になれ、と若い者を励ました。(〓新聞も現場から。枠にはめない観察)
▽ 師の写真は、文字に表さなかった民衆の生活の証を記録した。時代の、民衆の生活の実態の証拠として残したかったのではないか。
おや、と思ったことは、半分は理解しているから撮るのだが、半分はわからないものだ。見えても理解できぬ事物を、カメラは正確に記録してくれる。後になって、よく撮っておいたものだ、と感じるもの。
□宮本常一、写真による民俗学の試み 木村哲也
▽71 本来民俗学は、大衆の生活を対象とするのに、大衆にアピールするものが少ないのは何故でしょう。……民俗学がもっと大衆の生活に希望や張りを持たせるような気魄や、大衆生活への密着があってもいいのではないか。
……「民俗的なもの」だけでなく、「人々のあまり気に留めないような」「生活そのもの」に「もっと気を配って」「そのときどきにうつしておく」と、「日常生活が何によってどのように変改されつつあるのかが」たどれるはずだ。
……この一文は、自分の写真の撮り方、調査のあり方への深刻な反省、民俗学への現状批判を含んだ、新たな「写真民俗学」への宣言文なのである。
(民俗学、という枠組みで対象を切るのではない。対象をありのままに受け止めること〓)
▽74 「私の日本地図」 写真を中心に写真を説明するような型式で、ときには回想も加えて……写真とつかずはなれずの文章になる。古い絵巻物の型式になる。〓
▽77 宮本の写真が、災害に見舞われた被災者とその支援者の仲立ちをする。中越地震の山古志村。70年代に調査した須藤護らが写真集を刊行する〓。西日本新聞では、玄海島の30年前の写真を手に記者が仮設住宅を訪ね、当時の島の人々の暮らしを取材し、コミュニティの力を描き出した。(過去の写真でつむぐ絆、コミュニティ〓〓能登でも使える手法)
□宮本民俗学の陰画としての上野英信 <杉本仁>
▽80 樺美智子が死んだデモの情景「宮本常一 写真・日記集成」
▽82 柳田民俗学が基底に置いた稲と稲作と稲作儀礼をたずさえてやってきたという日本人単一民族説と、京都を中心に文化が伝播し古いものが列島の周辺部に残りやすいという文化圏周圏論に疑問を呈した。
▽83 「日本残酷物語」では左翼知識人と接触。60年安保が終息すると谷川雁らとの共同戦線を断ち、行政への期待を持ちながら「生活誌」の領域に回帰。現実への有効性をもった「工作舎」として離島振興法の施行などに尽力する。
▽84 上野英信「日本陥没記」「天皇陛下万歳」「骨を嚼む」「出にっぽん記」。西表島は柳田が海上の道で描いた「西表炭鉱の惨状」の地。……陰惨な坑夫の軌跡を記しながら、氏神・祖霊信仰をもつ坑夫の常民性にふれるなど、柳田の影響も。
自宅を「筑豊文庫」として開放。自らは聞き書きを繰り返す。「闇から闇に葬り去れていく……痛恨」を聞き書きすることが上野の「記録文学」だった。一報で、人々を無条件に賛美はしない。
▽88 上野に比べると宮本は、権力からの暴力や搾取、貧困ゆえの陰湿さなどが棚上げされ、民衆への手放しの賛歌になってしまう。すべてが丸く治まってしまう。
▽89 柳田にはペシミズムがあった。宮本民俗学には、どうにおならぬ、ある種の突き放す以外ない世界が、すくいあげられ、昇華され、予定調和的な世界へと導かれる。民俗学が内包していた、ある種の不条理や「死臭の漂う」例証を切り捨ててしまっているのではないか。
▽91 宮本の民俗学が陽画として君臨するならば、60年安保を前に北九州で発芽した「記録文学」を陰画としなければ、民俗学は常民の豊かな原像に焦点を合わせることができなくなる。感傷につつまれたセピア色の写真ではなく、「いま/ここ」に発生し続けている人々の不条理のあり方を鮮明にする模索の道である。すぐさま融合された宮本学に行くのではなく、上野をはじめ森崎和江や石牟礼道子らの民へのむきだしのままの問いかけを持った「記録文学」を迂回することが必要なのである。
□「土佐源氏」再考 <井出幸男>
▽94 河辺村には、泥棒を泊めるオトシ宿があった。浮穴村にはオトシヤがあり……(〓いったいどこだろう)
▽96 人肉がハンセン病の特効薬であるという認識は鎌倉時代中頃にはある。子どもの臓器も。強盗亀、池田亀五郎はこどもの手まり詩にもなり、昭和50年代にも唄われていた〓。
▽98 亀五郎の話は、愛媛新聞なども。
▽106 奉公分の嫁、という婚姻方式が、一部では昭和20年代まで高知県下に見られた。奉公人として娘がはたらき、夫婦関係をもつが、2,3カ月から1年ぐらい働かせて気に入れば正式に妻にするが、気に入らなければ奉公賃を渡して帰した。……その娘をキズモノ扱いすることなく、すぐに他の家から雇いに来てくれるという状態だった。……「男女とも数人の婚姻関係をへて、子どもができてようやくおさまるというのは、明治の人にとっては当たり前のこと」
……池田亀五郎は、前代の日本人の根源的な野生を一身に体現した人物であり、その野生をもって駆け抜けたがために、近代の公権力に縊り殺されたと見なせるのでは。
□宮本セイ太郎 始まりの映像民俗学 <北村皆雄>
□映像民俗誌の可能性 <田口洋美>
▽146 写真を読み解く力は、フィールドワークを重ねた上での応用力なのである。……見ようとしても見えないモノを見えるようにする、その行為が「あるく・みる・きく」を繰り返すことなのである。映像資料を「見る」から「読む」へ転じるには、フィールドワークを繰り返すしかない。映像民俗誌の可能性とは、フィールドワークの可能性を意味する。
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