■土と人間への手紙 <稲葉峯雄> 家の光協会 201001
冒頭の「おっかあよ今もんたぞ」という詩は、想い出のなかにある「おっかあ」の姿を細やかに、愛情と哀しさを込めて描く。この本に載っている農協生活指導員への100通の手紙は、愛媛の農村にいる多くの「おっかあ」への思いをつづっているようだ。
農村の健康や生活を改善するうえで、著者が重視するのは「組集会」などの小グループの集まりであり、そこで綴られる記録である。集い語ることが主体性の源泉であると繰り返し説く。
そんなグループ活動のなかで、農村女性が「健康診断で保健婦さんの手伝いをしていたけど、あれは反対よね。保健婦さんが私らの手伝いをしてくれるようにならにゃ、いけんなあ」と語るまでに成長する。
農村女性グループの記録活動については、「母親たちにとっては土を耕すように、自らの心を耕すひと鍬ひと鍬であった。忙しいからこそ、下手でろくな文字や言葉も知らないからこそ書くのだ。そのぎりぎりの文字が明日に生きるエネルギーの源泉となる」「言葉があって話が生まれ、文字が生まれ、人間はもう一度人間として生まれてくるのではないか」「より美しいもの、より真実なもの、より神に近い人間の心を求めようとするときにはじめてグループの意味を知り、その必要性の渇きを知る」などと記している。
みんなで考えあい語りあい記録しあうことが、主体的に生きるための武器なのである。さらに、記録することは「働くものの歴史」を生みだすことでもある。「書かれたものしか残らない」というのは、信長や家康の記録はあるのに、当時の農民の生き方が今に伝わっていないことを見ても明らかだろう。。
「学者や役人のいう、コミュニティ、ボランティア……といった言葉の前に、私たちは土とふるさとに話しかけたい。そこで教えてもらった言葉で、みんなが話し合って、日本の風土にふさわしいふるさとを創ろうではないか」「外部からの大きな力で農村を豊かにすることと、内部の小さな心が農村を豊かに思うことの違いをはっきりすることが大事だ……今の町づくりはそこに住む人たちの豊かに思う心を、山肌を削りとるように押しつぶしているように思えてなりません」といった言葉は、古くからの知恵から学び、それを改良することで人々の主体性を築こうとした民俗学者の宮本常一とそっくりである。
最近、「自分の健康は住民自身の手で守れ」などと言う自治体が増えている。著者は30年前にそうした流れを批判している。「『自分の健康は自分で守れ』などと口にする本人が、自分の意見(主体性)を持たない場合が多く見られる。主体性のないところには、必ず権力や体制に依存した住民主権に対する犯罪的行為が生まれるのです」
では、役場の職員はどんな態度で臨めばよいのか。
自らつとめる役場に対して「住民にかわって発言する」ことであり、最終的には、住民自身が専門家や指導者の声を代弁する関係をつくりだすことである。「役場職員」の立場で住民と対峙するのではなく、住民の代表として役場に対峙することだ。
============抜粋/メモ============
▽おっかあよ今もんたぞ
感性と描写力の鋭さ。細かに細かに、おっかあを描く。愛情と哀しさにあふれている。
▽26
組集会 「一部の人が難しいテーマや言葉を言っているうちに、集まらなくなりました」。いかに小さなグループを維持・発展させることが難しいか。生活指導員の伊藤さんは「この組集会の記録がつづくかぎり部落の主体性は変わらない。またそれを変えてはいけない義務がある思いました」
集い語ることが主体性の源泉である。そういう場をなくした人間はもはや主体的な人間ではあり得ない。その主体としての実感をできる場をどうやってつくればよいのか。
生活指導員「私はなにも知らないのです。みなさんのお話をいっぱい聞かせてください」それから一言も発言せず一心にペンを走らせていました。
語ってはいけない。語ってもらう場をつくることが生活指導員の仕事である。
「健康診断で保健婦さんの手伝いをしていたけど、あれは反対よね。保健婦さんが私らの手伝いをしてくれるようにならにゃ、いけんなあ」
そこまでの主体性。
▽30 文集をつくる生活指導員。生活指導員である前に、一人の人間としての意識が記録されている。
書くこと、語ること。「本当の自分」があってそれを表現するのではない。語ること、書くことで「自分」ができてくる。つらいことを具体的に一生懸命書くことで、つらさを客観視し、つらさや痛みにとらわれるのではなく、「観る」ことができる。
(〓恭子さん=なにかの途中であること。アンドー=今・ここ、を大切に)
村の生活と自然の中で、グループで一冊一冊の本を読みはじめると、農村も変わる日が来ると思う。
▽32 グループがあり、育つことで、そこに生活指導の具象を把握しようとする。グループとは……
・生活のままの集まり、生活のつづきとしての話し合い、生活をそこで見つめ直す場
・自分も発言し、他人の発言とくらべるなかで、自分の役割を見つけるところ
・記録のある集まり、小さくとも歴史をつくっていく行動集団
(〓グアテマラとアンドー 語り合うことつながること表現すること、他人の悲劇を感じること)
▽35
▽38 組集会での発言。「百姓をもうやめようかと思うばかり」「農協婦人部も婦人会も今は休んどるんです」……重い現実がでてくる。グループのなかで解決問題なのかどうか……どうしたらいいんだろう? どう乗り越えようとしてきたのか。
▽39 私は自分の知らないことでも、そのことがいいことであれば、そして、私のようなものでも役に立って、自分自身が勉強になるということであれば、いつでも自由にそこへ参加したり、いっしょに考えたりしてきた。それが私の衛生教育の技術であり、地区組織活動の指導理論だと言えば言えます。
▽48 思い出しの書き方。そこに自分がいたしるしと、何を学んだかということで、その文字を糸口に生まれたり、整理されてきます。私の場合は思想も計画も行動目的も、おおかたこれらのメモの中から生み出されてきた……
(大名の記録はあるが、農民の記録はない。奴隷の記録はない。逆に表現が可能になることで市民革命が生まれる)
▽51 久妙寺の永井民枝さん
人間はひとりではなくみんなで生きているのだということ、その人の輪が人間の真実なのだということ。
▽52 「老人即生きがい」 行政やマスコミの言う生きがいは、他から与えようとしたり、見立てたりしているものに思えてならない。老人を励ましたり助けたりできても、そのことで老人がどんな新しい自分を生きはじめたかわからない。確かめようとしない。ほんものの老人福祉は、この未知の部分の老人自身の言葉や生活行動を、どのように知るかということだと私は思います。さらに、老人をのぞくすべての人間が、死と同様に老人になることを避けられない事実に、どのような形で気づいてゆくかということ。つまり、〓どういう老人になるかということが、「人間としての生きがい」の本当の中身ではないかと思う。
(死を身近に、と恭子は書いていた。記録する仕事の意味。何かの途中であること。寝たきりでも心が寝たきりにならなければ生きているという稲葉先生の言葉)
▽64 農協から月給をもらうという月給制農家の可能性。新しい農民と組合の関係が生まれ農協も脱皮してゆくのでは。家計簿記帳、生活設計運動は、農協と農民を月給制の形で結びつける必然性をもっていた。……
(〓ハイチ 生活費を聞いてもわからない。いくら計算してもわからない。でもそれは原価計算をしなかった農家と一緒ではないか。記録する大切さ)
▽77 アンケート調査 住民の意思や要求がどのように盛り込まれているかを知るには、組集会がぜひ必要。生活のきずなからの発言を聞けるのは組集会しかない。
▽85 離島の赤痢集団発生。水がとぼしいだけでなく、医療も行政も、住民の健康意識のとぼしさも、健康破壊をもたらしている。問題は赤痢の発生だけではない。生活の汚染度としてのゆがみや、生活共同体の裂け目としての集団発生が引き起こされていることがわかる。……個人の自覚や健康管理にいくら金をかけても、真の健康や生命を守ることにはならない。
▽88 正月の仕事はじめ 近所のものが集まって話し合うような組集会への参加を私なりに見つけて仕事始めにしたい。(〓行動からはじまる思想)
▽93 農民と農薬
▽96 農村医学は医者が中心であってはならない。その主導権は素人である農民が持つべきだ。本当に役立つ医学の選択と実行は、農民が一番よく知っているからだ。農薬中毒、耕耘機流産、ビニールハウス病のいずれもそれを実証している。
▽98 「草の根に生きる」遠い昔から部落で先祖代々苦労して、暮らしを守ってきたものを受けついでゆく現在の生き方。
「時間がなく、だれよりも一番忙しいからこそ、私は生活改善のできるのは婦人しかないと思います。生活そのものが体中にしみこんでいる婦人が変わるときに生活も変わると思います」
▽102 記録活動とは何か。母親たちにとっては土を耕すように、自らの心を耕すひと鍬ひと鍬であった。忙しいからこそ、下手で、ろくな文字や言葉も知らないからこそ書くのだ。そのぎりぎりの文字が明日に生きるエネルギーの源泉となった。(豆腐屋の四季)
考えることが、農民の暮らしを守る武器。
▽106 「部落総出の道づくりや溝そうじ」と同じ地域共同体の姿を、健康を守るうえにもつくりあげねばならない。……
▽111 婦人部長「私たちの生活は私たちで守ってゆかねばならないので……文章はまずくとも、字が下手であっても本当のことを書けばよい。書かねば残らない」。生活を守るということと、ものを書くということが一つに結晶して文集が生まれる。
▽119 生活指導員1年生「……多くの問題があり、問題のあるところにはエネルギーがある。生活を変え村を変えていくためにエネルギーを結集する場が組織なのだろう。私の当面の仕事は、あちらやこちらへ向いているエネルギーをできるだけ1カ所に集めたり……うずもれたエネルギーをさがしたり……といったことが続くのだろう」
「農村の母親であるということだけの資格が、どんなにすばらしいか。北条に一番欠けているものは、正しい怒りをこめてものを見つめることではないだろうか」
▽129 発言から問題点を引き出す具体例。5人の執筆者と生活指導員が話し合ったら、そこにすばらしい調査項目が生まれてくる。それは、5人の母親が、生活とともに残し、つくりあげてきたものさしとしての項目であると思う。それをもって地区全体の水準や実態やニードをとらえ、活動目標を設定する。それこそが生活指導であり地区診断。
▽131 言葉があって話が生まれ、文字が生まれ、人間はもう一度人間として生まれてくるのではないか。
▽132 宇和町公民館の三好則保さんの死。「先生これ(婦人部機関誌「稔」)読んだ? 記録は大切じゃなぁ、つづけて出すということ、えらいぜ、先生が地域の文集を大事にされてきたことが、今ごろよくわかります。(生活指導員の)あきちゃんもひとりで苦労するけど……」
生活指導員のまわりには、保健婦、公民館主事が加わって4人ひとかたまりのチームができた。そこから住民とともに生きてゆく道や力も見つけ出されてきた。
▽各地の農協婦人部でつぎつぎに文集が誕生する……
▽148 父は「本を読んだら極道になる」と叱った。母は「おっかあの代わりに本を読んでくれ」と言って励ました。……やがてペンを持つようになったが、そのペンは文字を書くためでなく、心を耕す鍬であった。物に心を宿す仕事、物のいのちを大切にする心、泥と汗にまみれても心をよごさぬ百姓たち、それが私の永遠の教師であった」
▽150 より美しいもの、より真実なもの、より神に近い人間の心を求めようとするときにはじめてグループの意味を知り、その必要性のかわきを知る。(〓福祉社会学の勉強会。意味ないと最初は思っていたが……しだいしだいに真実がぼんやりと見えてくる)
▽154 岩手の「自分たちで生命を守った村」
▽155 かつて農村の夏は組織活動のシーズンだったが、今は通勤出稼ぎや内職で昼間の部落には人影もない。婦人が夏作や農薬散布の主にならざるをえない。かと思うと、レジャーが夏を彩る。過重労働と大型消費が狂争する世の中で暮らしを守るとは……そのための組織活動とはどんな方法なり形をいうのか……考えながらつづけてきたが、どうも結果は考えた通りにゆかないということも現実です。
(〓個々がバラバラになった今の時代、中間組織、グループの再生の方法は?)
「知的生産の技術」を生活指導員にすすめる。ミカン農家の主婦グループが読んでいるという。その思考の中に、農村の生活指導の鍵が隠されているのでは。
▽159 行政効果が上がらない、と叱られてばかりいる地区診断のむだや、グループ、組集会でくり返し話し合ってゆくことの「むだ」を、もっともっとしなければならない。そのむだのなかから、70年代における「人間」と「健康」の意味がはっきり生まれてくると思うのです。
生活指導員の仕事も「むだ」を一生懸命積み重ねることでいいのではないでしょうか。その勇気は仲間がいればできます。
▽162 「苦海浄土」 一主婦である石牟礼さんが水俣病に苦しむ漁民にかわって書かれたレポート。その作品をひとりの農村主婦が、自分のいのちと全く一体にして読んでいる。農薬のこと、減反のこと、人間らしい農民の生き方のこと……「生活をより豊かにと思って毒をまき、毒を食して生きてゆく。それではおのれの足を食べて生きると言われるたこと同じだ」
「今までは野菜の種売りがきたら、よさそうなのを、と言っていたが、この間は、こんな種をおいてくださいや、と言ったら、『どこで習いなはったら』と種売りから言われました」。この小さな変化と目覚めこそが、私は「人間の時代」と呼ばれるものの、真の第一歩だと思うのです。
▽ トインビーの「未来を生きる」〓 若月の「村で病気とたたかう」。
▽166 農民の健康にとって「時は金なり」ではなく「時はくすりなり」。農休日の問題、昼寝の問題、主婦労働力の省力化など、いずれも忙しさに追われるという言葉のなかで、絵に描いた餅になってしまっている……健康被害と結びついた生活時間に、私たちがいかに挑戦するか。その前に、生活指導員自身が人間としての時間をどこで確かめているかという問題もありまs。そのことを仲間と、あるいは婦人部のような組織のなかで話し合っているかどうか、という問題にもなります。
(〓がんばっても次々にわく課題。超えられぬ壁。時間がない、という壁。それをグループの力で乗り越えようとする)
▽168 (祭りとか行事とか)人間はあることをくり返しながら前進する生き物のようです。だとすると、その条件を一番備え、かつ実行しているのは、農民だと思います。無医地区での衛生教育をくり返してきました。表面上は指導とか言っているが、私自身は、その貧しい農村のひとびとから、そこで生き抜いている、くり返しながら前進している、人間の根元的な知恵のあり方を、学んできたのだと思います。その私の考えでは、日本の前進のすべては、この農村の変化の度合いしか本質的にすすんでいないと思うのです〓〓。
コミュニティー論にしても、組集会の形で積み上げてきた考え方と、学会や役所などの会議の論議とでは、比較にならない重みを前者が持ってます。
(〓宮本常一の見方と重なる)
▽171 今の農村には、農民であることや、農村から飛び出そう、逃げだそうとばかり考えている人があまりに多すぎる。今の日本では、農民よりも、演劇や歌のなかで自分を見つめ、芸術を追究している人たちの方が、何倍も本当の農民に近いような気がします。
農民が農業を否定し、農民であることをやめようとするのは、人間であることをやめるのと同じだと思う……
(〓広田村のおばあさんの豊かさ。宝を受けつぐこと、学ぶこと。それが福祉なのではないか。福祉の本当の意味を考えよう)
▽174 山代巴の「連帯の探究」 「……東部広島県一帯にある読書グループ連合の『みちづれ』に参加しました。私たちは人間の尊さ、生命の大切さ、人間の平等であることを確立することにつとめます。自分の中の矛盾を見ぬく目を持ち、自己をおいぬく知性を持つようつとめます。そのため私たちは仲間とともに記録しあいます。私たちは会員3人以上いるところでグループをつくり、定期的に集いをもちます」〓
▽176 「同時代のこと」 ベトナム戦争時。「その時お前はどこにいて何をしていたのか」と、ひとりの人間の歴史を問いかける。(〓「今・ここ」で私は何をしているのか、と。)
▽180 1年の早さ。ふみとどまって、自分の内部に目を向けて見なければ。そこにどれほどのいのちのぬくもりなり、おのれを無にして何かをなした思いがあるであろうか。それが乏しく空しければ、今からでもおそくない。ただ1つ、小さな石ころを拾うようなことでもいい、今年の時間のある間にしておきたいと思います。それが私なりの信仰であり、宗教かもしれません。(〓村上春樹、夜警の役割。どぶさらいを進んでやること)
▽195 農健懇 保健婦、生活改良普及員、栄養士、農協生活指導員、県庁職員、大学の先生……今日の農村の健康問題が、これらのひとびとのそれぞれ専門の立場や分野の研究ではその答えを得ることができないための集まり。自由と自主性にもとづく反復と総合、連帯の思想が、そこに形成されつつあります。〓
▽「地区診断報告書」をどう読むか。「住民に代わってどう読むか」でなければいけない。「農協と公民館によってはじまった生活と健康を守る活動記録に、保健所や市衛生課がどのように参加したのか」(行政の役割)
▽198 若い生活指導員の問題意識 ……自分の純粋な行動をもって農業という土に働くひとびとから、何か重大なものを学びつつある。それをめいめいの言葉として写し取っている。その事実がなによりもの「生活指導性」だと思います。
(〓石鎚村の曽我部さんから学ぶこと。「土」の大切さ。生活のなかに生産があることの大切さ。聞いて学び記録する。それは学ばれる側の生きがいにもなる。水俣の患者、ごちそうになってばかりいた。「学生さんがいたから」と言ってくれる。「聞くこと」の大切さ。安藤は痛みを聞き取ってもらうことで痛みを何とか客観視できた。こうしたなかで、学ばれる側がまた学びたい、と思うようになったら最高だろう)
(指導=学び+記す 言葉にする 知らないからこそ、学ぶ。学ぶことが継承となり、老人の生きがいになる)(安藤さんは漢方をやっていた。点滴をあたためることを知る。キョウコさんは周囲に聞く人、語る人がいた。だから最後まで「何かの途上」でいられた)
▽205 久万の和田さん お通夜。唇に水をあげて、はじめてその死が現実のものになってしまったことに声をあげて泣きました。枕辺には、高須賀さんが彼女の死を聞いて、泣きながらかきあつめた、生前の農健懇の記録からの言葉集がおかれてしました。
「自分の本来の仕事をやりながら、相手も高めるということをやらねばならない。農協の生活指導員の職務が、農協に理解されないとするなら、なおさら、婦人部なり地区での小集団活動が大事になってくる。(〓地べたをはいずりまわる取材が理解されないとするならば、なおさら、そうした取材が大事になってくる、と読み替えることができる。「○○職員」としての自分ではなく「人間として」の自分を基盤にもつ豊かさ。そのためには、人との絆を育まなければならない)
▽207 グループ活動の原則 9人までの集まり。普段着の集まり。テーマのある集まり。流れのある集まり。リーダーのない集まり。(農健懇のすごさ。理解できていなかったことがわかった。少人数であることも。集まることの力、可能性。逆に集まり続けることのしんどさ)
▽214 各単組から発行されている機関誌20種類。
▽217 「昔の品物は使うほど美しくなるのに、今の品物は机でも家でも、使うほどきたなくなる」 (〓家に「生産」の要素が必要)
▽220 農協の今の健診は、共済加入のための健診であったり、町や農協の行事のための健康活動のような気がしてならない。町民も組合員もひとりの人なんだから、そのひとりの側に立ちたいと思う。(「介護保険」を超える、「人間」をとらえ、支え生かす福祉のありかたを〓)
▽228
▽230 農健懇 主婦あり、保健婦あり、学生あり、新聞記者あり、医師あり……こんな会がある、こんな人たちの集まりが、本当の民主主義をつくってゆくためには、絶対必要なのだと、私は心の中でかみしめるように思いました……こんな人と集まりが、どの町や村にも、あなたの周りにもつくられて、人間の裸の値打ちや信頼がもっと高まる世の中をつくりたいものです。(〓安藤の会。福祉社会学研究会も)
▽234 学者や役人のいう、コミュニティ、ボランティア……といった言葉の前に、私たちは土とふるさとに話しかけたい。そこで教えてもらった言葉で、みんなが話し合って、日本の風土にふさわしい、20世紀のふるさとを創ろうではないか。
▽236 母が一心に織っていたのは布だけではなく、「自分」でもあったと思います。人はみな神様から与えられた自分の機で、自分という布を織って一生を終えるのではないでしょうか。機織りの仕事と「野道」の編集の仕事が全く同じであることについて、心がおどります。
▽237 「自分を生きなければならない。そして人間に生まれてきたのだから、みんなといっしょに生きなければ……」(「役人として」ではなく、人間として〓。そこまでは学生時代にも思ったが、人間として生きるには、みんなといっしょに生きなければならないという実感は最近だ)
▽238
▽242 衛生教育 「地区診断」をしてほしい。地区住民がその地区で、どのように生きてきたのか、生きようとしているのか、そのことをはずして住民の健康はあり得ない。 ▽246 「住民に代わって発言する」。住民に返したものを再び住民からまかされて、それぞれの職種や機関に伝えてゆくこと。そして最後には、住民自身が専門家や指導者の声を代弁する関係をつくりだすこと。(〓あとは住民の力で、と公的役割を縮小するサボタージュ論とは正反対。どっちの立場に立つか、が大切)
「住民の集まりに参加する」 住民以外のものは主体ではない。先生でも指導者でもなく、ひとりの参加者であるべき。
▽249 奥南母子愛育会 母親たちの家族計画グループ。400人あまりの母親が、50のグループをつくって、20年間も集まりつづけている(〓島根のグループは? 生活指導は?)
▽251 (担当が地区診断から離れて)永遠にあるべき地区診断とのかかわりを、私はどのようにこれから受け止めてゆけばよいのか。8月の地区診断の月を、私はどこで何をしていたか、という問題が厳しく自分に問いかけられます。(〓どんな立場にあってもやるべきことをしなければならない。忙しさや愚痴にかまけていてはいけない。その厳しさ〓)
「老人ホームと地域社会」 老人ホームを収容の場から生活の場にするには地区診断が不可欠。地区住民の老人福祉に対する要望や、地域の老人の生活と健康の実態が何より大切だから。
▽252 「先生の本はわからんでも買いますけんな。部落の本ですもんなん。また来てくださいよ」
▽254 外部からの大きな力で農村を豊かにすることと、内部の小さな心が農村を豊かに思うことの違いをはっきりすることが大事だと思う……今の町づくりはあまりにも急すぎて、内部の、そこに住んでいる人たちの豊かに思う心を、山肌を削りとるように押しつぶしているように思えてなりません。そのことに内も外も気づいていない。それを気づく手だてや時間が、今の農村に一番不可欠だと思うのです。(昭和48年 〓角栄的な開発への批判 宮本常一との相似)
▽264 「自分の健康は自分で守れ」とか「住民のニードに立って」などと口にする本人が、自分の意見(主体性)を持たない場合が多く見られる。主体性のないところには、必ず権力や体制に依存した住民主権に対する犯罪的行為が生まれるのです。(役所のサボタージュ論への批判。主体性のない役所は、権威的な役所である。上の権力にへつらい、下をいじめる)
▽269 福祉とは、その対策や目的や行動のすべてが、人間の意味からの出発でなければならないと思う。国家の法律や秩序も、人間の意味に照らし合わせて考えたり選択することが、とりわけ福祉の問題では重要なのです。〓
人間の意味とは、人間の生き方の尊厳と健康さです。ひとりひとりが自分によって立つところの自由共存の社会のすがたです。そのすがた、心をどこに見つけ出してゆくかです。
▽276 100通の手紙を通して5つの縦糸を通してきた。
1 人間の出会い。孤独に耐えて自分を生き抜くための、仲間の歩み〓(群れるのではなく、「自分」を生き抜くための仲間の大切さ)
2 いのちの健康さ
3 土とふるさとに帰ること。自然と人間の生活共同体をつくってゆく歩み。
4 小さな組集会での話し合い。何かを生み出してゆく力。
5 記録。物をつくる。残してゆく仕事。その中から働くものの歴史が生まれてくる。
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