講談社学術文庫 2010/01/20
大和の中央集権の物語をつくるために古事記の3分の1を出雲神話が占めることになったが、古墳の規模の小ささを見ても、吉備にもはるかに及ばぬ弱小国にすぎなかった--という立場に立っている。後に荒神谷遺跡が発見されて、出雲には強大な権力が存在したことが判明するから、彼の立場は誤りだった。1966年の本だからそういう古さはあるものの、論証じたいは綿密でとてもおもしろい。
いま、出雲といえば出雲大社である。かつては杵築大社と呼ばれた。ところが昔は、40キロほど東の松江市南部の意宇川流域にある熊野大社こそが一の宮で、この近くに国造も住んでいた。もうひとつ、出雲市の西側の神門川流域にも一定の力をもつ豪族がいた。一方、杵築大社近辺は遅れた新開地であり、古事記の八岐大蛇の神話がある斐伊川流域も、風土記にはほとんど登場しない。
古事記では逆に、熊野大社近辺や意宇周辺のことは無視され、杵築大社という新開地の神にすぎなかった中央の神の系列に加えた。
出雲の国造が松江周辺から今の杵築大社に移ったのは8世紀初頭とされる。ちょうど、古事記ができたころだ。古事記の神話に合致させる形で国造は杵築大社に移り、自らを大国主命の子孫とした。これは出雲の国造の保身だったのではないかと推測する。熊野大社は出雲由来の熊野大神を祀ってきたが、「熊野大神は実はスサノオだった」ということにして、自らの地位の安泰をはかったとする。
スサノオは実は須佐地方の神だったが、中央の神ということにつくりかえた。オオクニヌシにさまざまな異名があるのは、もとは異なる神だったのを国譲りの物語に合わせるため、中央の神話の系列にまとめあげたのだという。
今に残る古文書などの資料からこれだけのことを読み取っていくすごみに驚かされる。
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▽17 意宇社 出雲族の生命の源泉だが社殿がない。意宇川の上流の熊野山(天狗山)のふもとの熊野大神。生産を左右する水の源に、水の支配者である生産の神をまつった。大神の櫛御気野命は奇御食主命の意味で、生産の神であることを示す。春に里におりてきて、秋に山にかえる神だったから、意宇社には社殿がなかった。
……意宇平野は出雲族の発祥の地。
▽22 全国130の国造のなかで、その系譜が今もつづいているのは、出雲、紀伊、阿蘇〓の3家だけ。出雲は中世になって、相続問題から本宗の北島家に対立して千家家が分立した。
……国司が中央から派遣されるようになった時期を契機として、国造のもつ政治的権力は低下し、祭祀のみ奉仕する名誉的称号になった。
▽37 8世紀はじめ、出雲の神郡は、熊野大社のある意宇郡が認めれていて、杵築大社のある出雲郡は神郡ではなかった。杵築大社はまだ創立されていなかった。
出雲の神は熊野大神から、のちに大国主神の信仰へと移っていった。
ところが、国造果安の時代(708-721)に、国造家は出雲郡の杵築大社のある地で移転する。
▽78 記紀ともに伝説の舞台を斐伊川に設けている。意宇川も、後の中心地の神門川も記紀の神話から消されているのに。
出雲平野の開発に伴う経済的発展が、杵築大社を世にあらわし、そこに流れ込む肥河と神話を結ばせるようになった。
▽93 天皇だけが日の神の子孫ではない。あらゆる部族が、日の神の子孫とする伝説をもっていた。日の神の地上における具象化と信じられていた火を、相続人が継ぐ儀礼が「火継」。出雲国造家では世代わりごとにこの火継が古式のまま伝えられてきた。
神魂神社でやる前は、国造家の廷内で神火相続がおこなわれていたと考えられる。
▽113 肥河の北川、なかでも大社から美談にかけての山麓平地一帯は、開発が遅れた。大社付近からは古墳がひとつも見つかっていないことからも、新しく開発されたと考えられる。
▽117 杵築大社の発生は、簸川平野の開発と関連したものであり、開発の遅れていた平野北方山麓の開拓を守護する神であったろう。天平の時でもまだ部民だけを住ませて耕作にあたらせていたほどの新開地であった。
▽119 国造果安(708-721在任)の時代に、新開の寒村である杵築へ転居した。
▽124 記紀に出雲神話として載せられた内容は、出雲国造にとっては予想もいない驚きだったと思われる。出雲族の大神であった熊野大神の名もないし、意宇川にちなんだ説話もない。それにかわって新開地の開発の神として祀られた大穴持命が翻訳されて大国主神とされ、国譲りの主人公となっていた。スサノオノミコトは、須佐の地の神ではあったが、大蛇退治の説話は、舞台を肥河に変えられていた。
……神話が示す朝廷と出雲族との密接な関係を生かすことで身の安泰と発展をはかろうとしたとみるべき。そうした保身の策の一つとしてあらわれたのが、国造の杵築への転居であった。天孫降臨の前提となる大国主神の国譲り説話を裏づけるため、稲佐の浜の近くに大国主神をまつる大社を建てる必要があった。この大社の創建を国造はその大神の子孫であるといって朝廷に願い出、朝廷の許可によって国造が杵築に赴いて創建したと考えられる。
▽137 古事記が世に出たのを契機に、国造は京へのぼって大社創建を朝廷へ申請したのではないか。
▽141 大和朝廷に対立するほとの強力な出雲の国が存在したと信じ切っていたが、それはとんでもない錯覚による幻影であった。古墳の大きさを見ても、吉備の国にもはるかに及ばない。(→荒神谷遺跡によって覆る)
▽146 出雲国の神話伝承が他国より優れていたわけではない。神話作成者は皇室の主権を確立するというだけの意図をもって、それに適する素材だけを出雲から取り上げた。だから出雲族の信仰の中心であった熊野大神や意宇河の神話伝承は取り上げられていない。
▽151 ところが、ひとたび記紀神話として定着すると、神話に占める役割が大きいことから、主役の大国主神をまつる杵築大社は、天照大神をまつる伊勢神宮に対立する神社として発展した。
出雲国造は、一族安泰をはかるため、記紀がとりあげなかった熊野大神を捨て、大国主神をまつる杵築大社の創建と神主となることを買って出たのである。
▽155 熊野大神である櫛御気野命を、実はスサノオノミコトの異称であるとしたのも、熊野大神が地方的な神として今後消されることをおそれての処置だったと思われる。
▽163 佐太大神は、野城大神と同様、風土記かぎりの大神として、歴史の舞台からおりる運命にあったが、後に、杵築に対立する二宮としての尊信を受ける勢力となった。……
▽184 風土記によると、斐伊川では、陰暦正月から3月までの期間、材木を検閲する船が川を上下していた。検閲の役人のほか、木流しの人夫たちも下流の人たちに故郷の説話を語ることが多かったろう。こうして大蛇伝説が、肥河にちなむ説話として、中央の人々の耳に入ったとみてよい。
▽192 熊野大神は本来、意宇平野に発祥した出雲族の最高神であって、スサノオと同神ではない。それを国造が同神であるがごとく見せたのには、苦衷の策があった。皇室神話にみずからを添わすほかに、出雲国造の生きる道はなかった。
▽197
▽219 大国主神の説話の多くは、もとは関係なかった説話が、大国主神の事績として結ばれたものであることが明らかである。各地の異質な説話がひとつの神の事績としてまとめられたことから、大国主神の名には多くの異称が生じることにもなった。
▽232 国譲神話で、天孫に譲る決断をした事代主命の名が、風土記では一度として語られない。少なくとも風土記のころまでは、美保神社の主神は御穂須須美命という女神であった。それが、記紀神話の影響を受けて、事代主命が合祀された。今では事代が第一殿になっている。しかし、事代をまつっていることによって、美保神社は旧国幣中社に列格できた。この神社の青柴垣神事、諸手船神事も事代にちなむ祭儀とされ、主神であった女神の名は忘れられつつある。
国譲りで活躍する神は、地元の大国主神をのぞけば、すべて他の地方の神である。事代主命もそうした意味で、説話のなかで利用された神である。
記紀で大きく扱われた事代が風土記にその名を示さないのは、当時は国造の好意がこの神まで及んでいなかったからだろう。こうした事情からも、事代がもと出雲の神でなかったことがわかる。
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