■オーウェル評論集2 水晶の精神<ジョージ・オーウェル、川端康雄訳> 平凡社ライブラリー 200912
どの論考も新鮮で、古さを感じさせない。現代の日本にあてはまる個所がいくつもある。テーマを5つほどにしぼって感想を記したい。
□言葉
あらゆる体制の支配者がみずからの国を「民主主義国」であると主張し、政治的文章は党派の左右を問わず、「民主主義」「階級」「全体主義」「進歩的」などの抽象語に走る傾向にある--。
こうした「政治と英語」におけるオーウェルの指摘は、抽象語を「大文字言葉」と呼んで批判する佐野眞一と似ている。「環境」とか「地球にやさしい」とか「官から民へ」とか「改革」も大文字言葉だ。これに対して、具体的でわかりやすい言葉を「小文字言葉」と佐野は名付ける。オーウェルはまさに「小文字言葉を使え」と説いている。
では、小文字言葉で文章を書くにはどうしたらよいのか。
見なれた隠喩や直喩などを使うな。短い語で十分なときは長い語を使うな。能動態を使える時は受動態を使うな。日用語に置き換えられるときは外来の句や科学用語を使うな……。オーウェルに言わせれば、政治的混沌は言語の堕落と結びついており、言語を改善することで政治も一定の改善を図れるという。
今の日本も同様ではないか。「民営化」と言えば聞こえはよいが、実態は「会社化」だった。小泉「改革」は、金持ちによる貧乏人の収奪にほかならなかった。メディアやお役所に氾濫する、わかったようでわからない抽象的な言葉を具体的で平易な言葉に置き換えることは、日本の政治や社会を多少なりとも改善することにつながるのではないか。
「文学と禁圧」では、「現代における政治的文章は……ボルトで締められた出来合いの語句から成り立っている。平明な力強い言葉で書くためには、恐れ臆することなく考えなければならない。そして恐れはばからずに考えるならば、政治的に正統ではあり得ない」と書いている。小文字言葉を書きつづけるためには、権威に依存してはならない。アウトローでなくてはならない。換言すれば、表現者はどこまでも「人間的」でなくてはならないのである。
□ナショナリズム
オーウェルは愛国心を肯定し、ナショナリズムを否定する。愛国心は自分で大切だと思っても他人にまで押しつけようとは思わず、本来防御的なものという。一方、ナショナリズムは権力欲と結びつき、「自分たち」以外をおとしめる。自他の姿を客観的に比較し判断する目も曇らせてしまう。
彼によれば、ソビエトを崇拝する共産主義者や、政治的カトリシズムやシオニズム、反ユダヤ主義などもナショナリズムに含まれる。ナショナリストの忠誠の対象は、共産主義者が天皇崇拝に変わったように「転向」することがある。「ナショナリスト」は、自らの足で立ち、自らの目で現実を見て判断・行動することができない。頼るべき権威なしには生きられぬ存在なのである。
こうした視点は魯迅に似ている。魯迅は「展望があるからたたかうのではない。暗闇だからこそたたかうのだ」といった主旨の文章を書いていた。1970年代までの学生運動はマルクス主義という「展望」に依存して盛り上がった。その展望が崩れると、依存対象を「会社」にかえて猛烈サラリーマンが生まれた。会社が安住の地でなくなると、石原都知事や小泉元首相のような「頼りになるボス」に依存した。戦後60年たっても、(オーウェルの言う意味での)ナショナリズムから日本は抜け出せていないことがよくわかる。
□行動者と表現者
表現をするためには、あらゆる党派や組織や個人に依存してはならない。だが、政治にはコミットしつづけるべきだとオーウェルは言う。
行動において愛国者であり、「政治においては2つの悪のうち、より小さな方を選ぶだけ」であり、党派に属すればそのために命をも賭す。一方、表現においては、党派に属さず客観性を徹底的に追求し、表現をつぶそうとするグループがあれば、たとえ味方でも批判する。
「ナチスとのたたかいでイギリスが踏みとどまれたのは、左翼知識人たちが目の敵にしていた愛国心という古色蒼然たる感情のおかげであり、ロシア人がドイツ軍を撃退したのも『聖なるロシア』守るためだった」と書くオーウェルは、行動者の立場から左翼知識人を批判している。「ナショナリズム」に対する論考は「表現者」の立場から全体主義を批判している。
□人物評、書評
ダリは性的倒錯で死体愛好症で、恋人に会う前に山羊の糞を油で煮立てた軟膏をを体中にすり込むという変質者だった。
ダリの芸術を好む人は、ダリの変態性をも許し、ダリの変態性を許せぬ人はダリの芸術をも認めないという構図があった。オーウェルは、「我々はダリがすぐれた画家だということと、嫌悪すべき人間だということと、2つの事実を同時に把握できなければならない。芸術家も市民であり人間であるからだ」と説く。
政治的には正反対といえるチャーチルの政治的回顧録を「文学性においても率直さにおいてもつねに抜群のもの」と高く評価し、「彼とその党が1945年の選挙で勝利を収めなかったことをどんなにありがたく思おうとも、彼のなかにある勇気ばかりでなく、度量の大きさと人間的なあたたかさは、たたえなければならない」とも書いている。
自らの政治的な「敵」に対しても、「坊主憎けりゃ袈裟まで」的な、いわば「ナショナリスト」的な態度はオーウェルは取らなかった。
トルストイの生き方に対しては「人間」対「聖者」という図式で批評する。
トルストイはシェークスピアのリヤ王をこっぴどく批判した。世を捨てたリヤ王はすべてを失い絶望のなかで死ぬ。実はトルストイも同様に領地・称号・著作権を放棄し、百姓生活を送ろうと試みた。人間の目的は幸福であり、幸福は神の意志を行うことでのみ獲得できる。そのためには地上の快楽や野心を捨て去って、ひたすら他者のために生きなければならない……と考えた。彼はすべてを捨てたが、彼の老年は、子にも裏切られ、妻とも不仲になり……リヤ王のように野垂れ死する。
トルストイは必死にな聖者になろうとしたが、彼が文学に適用した基準は「来世的」なものだった。あらゆる愛も楽しみもなくしてしまえれば、苦痛に満ちた過程は過ぎ去り、神の王国がやってくると言う。しかし普通の人間は神の王国よりも、この世での生活がつづくことを欲している。
「天国」「涅槃」に永遠の安らぎを見いだすキリスト教的な考え方は、地上の生活の苦痛に満ちたたたかいをのがれるという意味で享楽主義的である。ヒューマニズムの態度とは、「苦」だらけの人生を戦いつづけるほかないのであり、死とは生が支払うべき代償だという態度である。
シェークスピアの悲劇は、人生は悲哀に満ちてはいるが、なお生きるに値するという人間主義の前提から出発している。トルストイとちがって、シェイクスピアは「聖者」ではなく「人間」だった。オーウェルは「人間」としてたたかうシェークスピアを高く評価する「人間」だった。
「聖者」や「来世的態度」をきらうオーウェルは、左翼や平和主義者が称揚するガンジーを好きになれない。ガンジーは、禁煙・禁酒、香辛料は使わない。性欲そのものを排除する。だれか特定の人への愛情をもってはならないとする。こうした宗教的態度は「崇高ではあっても非人間的」とオーウェルにはうつる。
非暴力主義についても、「言論出版の自由や集会の権利がない全体主義国家では、ガンジーの方法は無効だった。外部の意見に訴えることも、大衆運動を起こすことも不可能だから」「平和主義が対外政治に適用されたとき、それは平和主義であることをやめるか、宥和政策なってしまう」と部分的評価にとどまる。
だが子細にガンジーの生き方を追うと、惹かれる部分も出てくるという。
「完全に暴力の放棄を誓った後でさえ、彼は誠実にも、戦争の際には普通どちらか一方の味方となる必要があることを見抜いていた。いずれが勝とうと問題ではないと主張するような、不誠実な態度をとることはしなかった」
「最終的にインドとイギリスが穏当な関係に落ち着くとすれば、これはガンジーが憎しみをもたずに自己の闘争をつづけることにより、政治の空気の消毒を行ったからではなかろうか……私同様、ガンジーには一種の嫌悪感を催すものでも、ガンジーの根本目標は非人間的で反動的と感じる者でも、彼をほかの政治家と比較するなら、彼はなんと清らかな匂いを後に残しえたことだろう」
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□政治と英語
▽ロシアの粛清、日本への原爆投下。……住民が機関銃でなぎ倒され……ということを「平定」と称する。……具体的で残酷な実態を隠すのが大文字言葉である。
▽ドイツ語もロシア語もイタリア語も、独裁政治の結果、堕落を見ているだろう
□ナショナリズム覚え書き
ドイツの強制収容所を非難した人々は、ソビエトの強制収容所に気づかなかった。蒋介石は共産党員を釜ゆでにしたが、その後の国共合作で左翼の英雄になった。……知っていながら知らない、といった事実がいくらでもある。
□文学の禁圧
▽知的な共産主義者の間には、ロシア政府はいまは虚偽宣伝をやむを得ず行っているけれども、裏では真実を記録しているという風説が流れている。断言してもよいがそんなことはありえない。なぜならそうした行動に含まれる精神態度は、過去を変えることはできず、正確な歴史知識は自明の価値と信じる自由主義的な歴史家のそれだからである。全体主義の観点からすれば、歴史は学ばれるものというより創られるものである。全体主義国家では、その支配階層が地位を保つためには無謬であると思われる必要がある。
▽ドイツ文学はヒトラー体制で消滅し、イタリアもそうだった。ロシア文学も革命後質が低下している。正統的カトリシズムも小説に致命的な影響を及ぼした。300年のあいだ、すぐれた小説家であり同時によいカトリック教徒だった人間が幾人あらわれたろう。
詩は全体主義でも生き延び、建築など専制政治が有利かもしれないが、散文は死ぬ。散文文学は合理主義、プロテスタント時代、自律的個人の所産である。知的自由の破壊は、ジャーナリスト、社会問題評論家、歴史家、小説家、批評家、詩人から、この順序で活動力をそぐ。〓(今の日本はジャーナリストの力が著しく落ちている)
□作家とリヴァイアサン
▽いかなるものにせよ政治的紀律を認めることは文学的誠実とは相容れない。だが、「政治に近づかない」ことを選んではならない、と言う。ものを考える人間なら、全然政治に近づかないことはできない。ただ、政治的良心と文学的良心の間に、明確な一線を引くべき……作家であっても政治にかかわるときは必要とあらば銃をとる覚悟をもつべきだ。しかし、党のために何をやるにしても党のために書くことだけはすべきでない。……象牙の塔にたてこもることは、できることではないし望ましいことでもない。集団のイデオロギーに屈従することも、作家として自分を殺すことである。……政治においては2つの悪のうち、より小さな方を選ぶだけのこと。
(まさに剣の刃をわたる厳しさ)
□ウエルズ・ヒトラー・世界国家
▽ライト兄弟が飛行に成功したあとでも世間一般の考え方は、われらが飛ぶことを神が意図されておられたなら、羽根を与えたもうたであろう、というものだった。ウエルズはその10年前から空を飛びたいと願い、その方向で研究がつづくことを確信していたから人が空を飛べると信じていた。1914年まで、ウエルズはまっとうな予言者だった。
彼は科学=常識と考えた。ところが、科学によってつくられた飛行機は、爆弾を落とすことばかりに使われる。彼は、ヒトラーは不合理な存在で、過去の亡霊で、いつ消えておかしくない存在だと主張するが、ナチスはきわめて科学を進歩させた。科学が迷信に加担して戦っている。ナショナリズムや宗教的偏狭や封建的忠誠心は彼の想像をはるかにこえる力をもっていた。
□詩とマイクロフォン
軽蔑されたメディアであるラジオで、古色蒼然とした芸術である詩を朗読することで、詩にふたたび力を与える。最新技術と古くさい芸術を組み合わせることで新しい力とする。メディアに備わったプラスの力を活用するべきだ、という主張は、ネット時代の今にも通じる。
□サルバドル・ダリ覚え書き
ダリの自叙伝の翻訳本への解説。性的倒錯で死体愛好症で、恋人に会う前にやぎの糞を油で煮立てた軟膏をを体中にすり込むという「変態」だった。だが同時に天才的な絵描きでもあった。
ダリを弁護する人は、そんなダリの変態性・非人間性を「聖職者の特権」とみる。それに対して、「我々はダリがすぐれた画家だということと、嫌悪すべき人間だということと、2つの事実を同時に把握できなければならない」と説く。それは、芸術家も市民であり人間であるからだ、と。
□リヤ王・トルストイ・道化
トルストイがシェークスピアを攻撃していた。なぜか、解き明かす。
トルストイはリヤ王をこっぴどく批判していた。世を捨てたリヤ王はすべてを失い、絶望のなかで死ぬ。
それは実はトルストイも同じだった。老年になって領地・称号・著作権を放棄し、百姓生活を送ろうと試みた。人間の目的は幸福であり、幸福は神の意志を行うことでのみ獲得できる。そのためには地上の快楽や野心を捨て去って、ひたすら他者のために生きることを意味する。彼は幸福を求めてすべてを捨てたが、彼の老年は幸福ではないどころか、子にも裏切られ、妻とも不仲になり……野垂れ死する。
シェークスピアの悲劇は、人生は悲哀に満ちてはいるが、なお生きるに値するという人間主義の前提から出発している。これは、トルストイが老年には持てなくなった信念だった。トルストイは必死にな聖者になろうとしてから、彼が文学に適用した基準は「来世的」なものだった。あらゆる愛も楽しみもなくしてしまえれば、苦痛に満ちた過程は過ぎ去り、神の王国がやってくると言う。しかしフツウの人間は神の王国よりも、この世での生活がつづくことを欲している。
ほとんどの人間は生活を楽しんではいるが、しかし差引勘定をすれば人生は苦しみである。〓そう思わないのは、よほど若い人間か、よほど馬鹿な人間である。だから突き詰めていえば、「天国」「涅槃」に永遠の安らぎを見いだすキリスト教的な考え方は、地上の生活の苦痛に満ちた戦いをのがれるという意味で享楽主義的。ヒューマニズムの態度とは、戦いつづけるほかないのであり、死とは生が支払うべき代償だということ。
シェイクスピアは聖者ではなく、「人間」だった。
□ガンジーについての感想
・イギリス人はガンジーを利用した。民族独立主義者としての彼は的だったが、暴力の防止に尽くしていたから「おあつらえ向きの人間」でもあった。インドの大富豪にとっても、社会主義者よりもガンジーに好意をもった。
・ガンジーはとくに敬虔なわけでも罪深くもない若者だった。ダンスを習い、フランスとラテン語を学び、バイオリンも習おうとした。
・アナキストや平和主義者は、彼の来世的かつ反ヒューマニズム的な傾向は無視して、自分たちの同志であることを主張してきた。だが彼の教えは、形ある物体の世界は妄想であって脱却するべきもの……という仮定に基づいてのみ意味をなす。禁煙・禁酒、香辛料は使わない・性欲そのものを排除、だれか特定の人への愛情をもってはならない……。こうした宗教的態度はヒューマニズム的態度とは両立できなくなる。崇高ではあっても「非人間的」態度だ。
……聖者にあこがれる人はの動機は、生きることの苦しみから逃れたいという欲求、とりわけ困難な営みにほかならぬ愛から逃れたいという欲求であることが明らかになると思う。来世的理想とヒューマニズムの理想は両立し得ない。人は神と人間とのいずれかを選ばねばならない。
・完全に暴力の放棄を誓った後でさえ、彼は誠実にも、戦争の際には普通どちらか一方の味方となる必要があることを見抜いていた。いずれが勝とうと問題ではないと主張するような、不誠実な態度をとることはしなかった。
「ユダヤ人が皆殺しにされるのを座視するつもりなのか」という問いに、西欧の平和主義者は答えられない。が、ガンジーは、ドイツのユダヤ人は集団自殺を遂げるべきであって、それによって「ヒトラーの暴力に対して世界の人々およびドイツ人民の注意を喚起することになっただろう」というものだった。戦後になって、彼は自説の正しさを証明した。どっちみち殺されたのだから、意義のある死に方をした方がよかったのではないか、と。命を断つほどの覚悟がないなら、数々の生命が別の形で失われることをしばしば覚悟しなければならないのである。
・言論出版の自由や集会の権利がない全体主義国家では、ガンジーの方法は無効だった。外部の意見に訴えることも、大衆運動を起こすことも、意向を相手に伝えることも不可能だから。
平和主義が対外政治に適用されたとき、それは平和主義であることをやめるか、宥和政策なってしまう。
・最終的にインドとイギリスが穏当な関係に落ち着くとすれば、これはガンジーが憎しみをもたずに自己の闘争をつづけることにより、政治の空気の消毒を行ったからではなかろうか……こうした問いかけをしたい気持にさえなるのは、彼が大器であるしるしである。私同様、ガンジーには一種の嫌悪感を催すものでも、ガンジーの根本目標は非人間的で反動的と感じる者でも、彼をほかの政治家と比較するなら、彼はなんと清らかな匂いを後に残しえたことだろう。
□ジェイムス・バーナムと管理革命
▽254 強い親ソ的態度を示す人々を調べると、おしなべてバーナムが書いている「管理者」階級に属している。科学者、技術者、教師、ジャーナリスト、官僚、職業政治家などであり、一般にまだある程度貴族主義的な体制によって束縛されていると感じ、より多くの権力と威信に飢えている中堅層である。彼らはソ連に、上流階級を排除し、労働者階級に分をわきまえさせ、自分たちによく似た人々に無制限な権力を握らせている体制を認めている。ソビエト体制が見間違えようがないほど全体主義化してから初めて、イギリスの知識人たちが多数ソ連に対して興味を見せだしたのである。イギリスの親ソ的知識階級は、平等主義的な旧版の社会主義を破壊し、知識人がようやく鞭に手をかけることができる階層制社会を導入したいという願望を表明しているのだ。
(会社組織 平民でつくる組織だが、「管理者」は権力をひたすら求め、官僚組織が肥大化する〓)
▽257 ロシアの体制はそれ自身を民主化するか、破滅するかのいずれかである。バーナムが夢見ているらしく見える巨大な、打ち勝ちがたい、恒久的な奴隷帝国は樹立されないし、されたとしても長続きはしないだろう。奴隷制度はもはや人間社会の堅固な基礎ではないからである。
▽259 1945年秋、ドイツに駐留するアメリカ陸軍の間で行われたギャラップ世論調査は、51%が「1939年以前においてヒトラーが多くのよいことをしたと考えている」ことを示した。5年間、反ヒトラー宣伝がなされた後の数字である。
□その他の書評
▽278 オスカー・ワイルドの思いこみ。世界は莫大な富を有しながら、悪しき分配のために苦しんでおり、公平に分配すればすべてのものが万人に行き渡るという思いこみ。これは嘘。アジアやアフリカの恐るべき貧困を無視しているためだ。実際のところは、世界全体にとっての問題は、富の分配の仕方ではなくて、生産力の増強の仕方なのである。
▽287 ある時代の思想が先行の時代より賢明になっている場合もあるが、そうであっても「時代遅れにならぬ」ようにと無益な努力をするよりは、若くして身につけたビジョンに固執した方が、よい作品を生む可能性は高い。肝心なことは、自分の社会的出自について誠実になることである。1930年代の文学世代の際だった連中は、プロレタリアのふりをしたり、プロレタリアでないという理由による自己嫌悪の馬鹿騒ぎを公然とやらかしたりするのを目の当たりにした。……オズバート・シットウェルがあっぱれなのは、自分以外の人間であるふりを一度もしていないところだ。彼は上流階級の一員なのであり……彼は自分の好悪を正確に記録している。〓
▽289 チャーチルの政治的回顧録は、文学性においても率直さにおいてもつねに抜群のものだった。
▽290 チャーチルの評価 彼とその党が1945年の選挙で勝利を収めなかったことをどんなにありがたく思おうとも、彼のなかにある勇気ばかりでなく、度量の大きさと人間的なあたたかさは、たたえなければならない。
▽306 トルストイの死
□解説
▽315 オーウェルは全体主義の恐怖を描いた作家として知られ……。
ドロップアウトした人間だった。大学に進まず植民地ビルマで警官生活をおくり、ビルマからパリのドヤ街へ。「地位を築く」ことに全く無関心だったから、その後も行き当たりばったりの生き方をする。自己正当化や地位への欲望とは無縁というドロップアウトの特徴は、そのまま彼の文学の特徴だ。敵の砲弾でもうまく的に命中することを期待してしまったり……、反ユダヤ主義に対しても、差別反対という大義名分で問題をはぐらかしたりせず各人の心の中にひそむ反ユダヤ感情を率直に見すえ検討するべきだと主張する。
ドロップアウトの敵は出世主義者である。ヒトラーやスターリンを現人神に祭り上げたのは、新体制の成立で上昇の機会をつかんだ凡庸な出世主義者の大群だった。〓
同時代の左翼知識人とオーウェルとの不和は、全体主義対自由主義といったイデオロギー上のものというより、地位と組織に執着する出世主義者と自らの心に素直に生きようとするドロップアウトの対立に原因があったというべきだろう。だから彼の敵は、「ナショナリズム」および「正統」と呼んだもの、権力志向の強い人間を特徴づける好戦的排他的な組織至上主義とそれを支える公認の正しい意見(オルソドクシー)の圧力だった。
(〓だから会社社会批判につながる)
現世を拒否して聖者になれ、というのか、という疑問には、トルストイとガンジーを論じつつ答える。世を捨て聖者たらんとするトルストイは、実は自己を正当化し他人に自分の思想を強制しようとする欲望の権化である。宗教的アナーキスト・トルストイの中に、全体主義の精神の原型があるのだ、と。老トルストイの主な目標は「人間意識の領域をせばめることであった」と。
▽317 文学の課題は意識の領域を拡大することにほかならない。スペインから帰国後、全体主義に対する闘いにのめりこむのは、意識をせばめ偽造し抹殺する力と体制に対する、文学者としての闘いだった。
現代の全体主義は、人間の意識に狙いを定めている点で、文学のライバルである。意識の縮小という点では「政治と英語」で論じられた言語の腐敗も全体主義と同じ効果をもつ。……
▽322 彼の死から半世紀をへた今日でも、古くないのはなぜか。我々が生きているのは未だにオーウェル的な時代。テクノロジーが権力欲と人類の自己破壊に奉仕し、情報とメディアが意識を麻痺させ、宗教の衰退がもたらした文明の混迷と危機がますます深まり、自由と平等の理想の根源的な意味が絶えず問い返されざるをえない時代だからだ。オーウェルが教えてくれるのは、、人間らしい人間であることの困難さであり、そうした人間として生きることの歓びである。
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