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武士道 <新渡戸稲造、矢内原忠雄訳>

 岩波文庫 20091217

 戦争中、この本が軍人たちの心の支えになったと聞いた。右翼的な本だと思って読んでいなかったが、よくよく見たら著者はキリスト者として有名な新渡戸稲造だ。新渡戸は平和主義であるクエーカー教徒だ。右翼思想とは正反対に位置する新渡戸がなぜ? と思って読むことにした。
 言葉づかいが難しく読みにくい。が、それでも新渡戸の伝えたかった一端は見えてきた。
 この本は日清戦争直後に英語で書かれた。東洋の野蛮な国と思われていた日本にも西洋に負けぬ倫理や道徳の規範があり、だからこそ急速な発展を遂げることができたのだ、と、欧米の人々に示すために書かれた。欧米のさまざまな哲学や思想と日本の武士の倫理観や孔孟の思想などを比較することで、日本や中国の文化や精神の高さを示す内容になっている。
 森嶋通雄は、武士道のかわりに「儒教」をおき、それが日本の発展の原動力になったと説いた。戦後の疑似民主教育によって儒教精神を根こそぎにされ、その教育で育った世代が90年代に中心を担うようになって日本はダメになったと主張した。儒教を武士道に置き換えればそのまま新渡戸の論と重なりそうだ。

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 ▽11 「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」とベルギーで言われた。妻からは、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるか、と質問された。2人に回答しようと書いた本。
 ▽28 武士道は、語られず書かれず。不言不文であるだけ、実行によって効力を認められる。道徳史上における武士道の地位は、政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じ=コモンセンス
 ▽33 運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従……を仏教が武士道に寄与した。主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行は神道が供給した。これによって、武士道の傲慢なる性格に服従性が付与せられた。(〓神道ではなく儒教では?)
 ▽36 道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も抱負なる淵源であった。
 ▽38 中国の王陽明の著述と新約聖書との類似点。
 ▽45 プラトンが勇気について「恐るべきものと恐るべからざるwものとを識別すること」と言ったが、水戸の義公も「生くるべき時は生き、死すべき時にのみ死するを真の勇気というなり」と言っている。……
 厳寒といえでも日の出前に起き、朝食前素足にて師の家に通って素読の稽古に出席せしめ……斬首の刑が行われた時は、少年は単身その場所を訪れ、さらし首に印をつけて帰ることを命ぜられた。超スパルタ式なる「肝を練る」方法。(=オーウェルのでた学校のスパルタと似ている=騎士のつくりかた)
 ニイチェ
 ▽51 フレデリック大帝が「王は国家の第一の召使である」と言ったのと時を同じくして、上杉鷹山は「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には無之候」と宣言している。
 ▽
 ▽55 「そく隠の心は仁のはじめ也」と、道徳哲学の基礎を同情に置きたるアダムスミスに遠く先んじて孟子は説いた。多くの非難を浴びせられたる東洋の道徳観念の中にも、ヨーロッパ文学の最も高貴なる格言と符節を合するものあるを発見する。
 ▽57 「窮鳥懐に入る時は、猟夫もこれを殺さず」という格言。キリスト教的であると考えられた赤十字運動がたやすく我が国民の間に地歩を占めたる理由。
 ▽59 多少教養のある武士は、戦場で歌を詠み、しかして戦場の露と消えし後、兜の内側からその詠草の取りだされることも稀ではなかった。戦闘の恐怖のただ中で哀りんの情を喚起することを、ヨーロッパではキリスト教がなした。それを日本では、音楽ならびに文学の嗜好が果たした。
 ▽63 茶の湯の作法。一定の方式を定めている。初心者はそれは退屈に見える。しかし、その方式が結局時間と労力をはぶくものであることを発見する。スペンサーは、優美を定義して、動作の最も経済的なる態度であるとなした。
 礼儀作法をおさめることで、身体と環境とが調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至る。優雅なる作法の絶えざる実行は力の予備と蓄積をもたらすに違いない。
(〓型の大切さ。幸せ、美を知る)
 ▽71 我が国民の締まりのない商業道徳は、外国では不評……(〓当時はそうだった)。すべての職業中、商業ほど武士と遠く離れたるはなかった。武士は、やる気さえあれば素人農業に従事することはできたが、帳場と算盤は嫌悪せられた。モンテスキューは、貴族を商業より遠ざくることは、権力者の手への富の集積を予防するものとして、賞賛すべき社会政策たることを明らかにした。
 ▽77 名誉 「笑われるぞ」「恥ずかしくないか」。廉恥心は少年の教育で養成せらるべき最初の徳の一つであった。カーライルが「恥はすべての徳、善き風儀ならびに善き道徳の土壌である」と言った。彼に先立つ数百年にして、孟子は「羞悪の心の義のはじめ也」と教えた。
 ▽84 忠義 中国では儒教が親に対する服従をもって人間第一の義務となしたのに対し、日本では忠が第一位に置かれると、グリフィスの述べたのはまったく正しい。「零落の主君に仕えて艱苦を共にし」とシェイクスピアが言えるごとく。
 ▽88 武士道はアリストテレスと同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子として生まれてきたるものと考えた故に、個人は国家のため、その正当なる掌握者のために生きまたは死ぬべきものとみなした。ソクラテスは国法、国家をして……と述べたが、武士道も同じ。国法と国家は、我が国にありては人格者によりて表現されていたという差異があるに過ぎない。
 ▽95 武士の教育・訓練 知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖たる性質を帯びる。師たる者の受くる尊敬は極めて高かった……教師の仕事でも僧侶の仕事でも、霊的の勤労は金銀をもって支払われるべきではなかった。弟子がある季節に金品を贈ることは認められたが、これは支払いではなく献げ物だった。
 ▽100克己 「喜怒色に現さず」感情を隠す。日本人は、人性の弱さが厳しき試練にあいたる時、常に笑顔を作る傾きがある。我が国民の笑いは、逆境によってみだされし時心のバランスを恢復せんとする努力を隠す幕である。
 ▽109 自殺 ソクラテスも一種の自殺。
 ▽114 徳川家康を殺し仇討ちをしようとした兄弟がとらえられ、その8歳の弟も切腹となった。兄の切腹を見て、自ら切腹した。
 ▽134 女性の地位 婦人の自由がもっとも少ないのが武士階級であり、社会階級が下がるほど、夫婦の地位は平等であった。身分の高い貴族の間でも差異は著しくなかった。(〓明治になって武士化が進んだため、女性の地位は下がった?)
 ▽142 武士は、道義の標準をたて、自己の模範によって民衆を指導した。……民衆娯楽や民衆教育はその主題を武士の物語からとった。武士は全民族のよき理想となった。「花は桜木、人は武士」。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった。武士道は全人民に対する道徳的標準を供給した。平民は武士の道徳的高さにまでは達しえなかったけれども「大和魂」は島帝国の民族精神を表現するに至った。
 ▽151 旧日本の建設者であった武士道は、過渡的日本の指導原理であり、新時代の形成力たることを実証するであろう(森嶋は、戦後教育によって武士道的なもの=儒教を失い、90年代に入って日本は没落したとみる〓)
 ▽152 日本の変貌の主たる動力は武士道。生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、西洋の政治や科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源の開発や富の増加ではなかった。いわんや西洋習慣の盲目的なる模倣ではなかった。劣等国と見下されることを忍びえずとする名誉の感覚が強き動機であった。(〓森嶋は儒教といい、内田樹は「辺境性」という)
 ハーンを読めば……「これ以上に忠君愛国の国民があろうか」。
 一方で、我が国民の欠点短所に対しても武士道は大いに責任がある。我が国民が哲学w欠く原因は、武士道の教育制度において形而上学の訓練を閑却せしことに求められる。我が国民の感情に過ぎ、事に激しやすき性質に対しては、我々の名誉感に責任がある。自負尊大がありとすれば、それもまた名誉心の病的結果である。
 書生(学生)の目は功名の火に輝き、心は知識に渇く。……彼は忠君愛国の宝庫であり、国民的名誉の番人をもって自任する。その美徳もその欠点も、彼は武士道の最後の断片である。(旧制中学などの学生は武士の名残り〓)
 ▽161
 ▽165 キリスト教と唯物主義(功利主義を含む)は世界を二分するであろう。小なる道徳的体系はいずれかの側に与して自己の存続をはかるであろう。武士道はいずれの側に与するであろうか。何らまとまりたる教義もしくは公式の固守すべきものなきが故に、全体としては身を消失に委ね……だが、ストイック主義は体系としては滅んだが、徳としては生きている。武士道は、独立せる倫理の掟としては消ゆるかもしれない。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう……。
(体系がない構造としての武士道〓の末路?=野生の思考との共通点)

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