NPO法人出雲学研究所 20090414
出雲は古墳の規模は小さく、銅剣や銅鐸のような青銅器はほとんど出土しなかった。津田左右吉は、出雲神話は大和朝廷によって政治的に創作されたものと主張し、梅原猛も出雲の繁栄を否定し、大和朝廷にまつろわぬ勢力の神々を流す場だと書いた。ところが、1984年、斐川町神庭西谷の奥の荒神谷で、358本の銅剣が出土した。さらに銅矛16本、銅鐸6個も発見された。1世紀ごろに強大な王権が存在していたことを示すもので、出雲は一躍、青銅器文化・弥生文化の地として躍り出た。国引き神話の背景にはこうした繁栄があった。
だが、6,7世紀に吉備と大和の勢力に征服されると、出雲は閉鎖社会を形成する。出雲人は伊勢参りも四国遍路も西国巡りもやらない。自分のところでじっとしている。生産性が高いからそれが可能だった。出雲弁という古い言葉が残っているのは、その閉鎖性のなせるわざである。おかげで古い伝統文化をよく残し、繊細な感性を養った。民衆が藩主・不昧公の茶文化を理解できた背景にはそうした歴史があった。
一方、石見人は、原住民的な頑固な一途さがある。素朴な石見瓦はその表れ。単調な自然、生産性の低い土地柄の影響を受けた気風という。
隠岐は、都から流された人々が伝えた文化が今もしのばれる。隠岐の人々は外部の支配に甘んじてきた。覇気がなく主体性に欠ける。だが、極限に至れば爆発する。慶応4年、武装した3000人は隠岐郡代を放逐して島内に自治を敷く。翌明治2年には、全島の寺院をことごとく破壊した。
近世の一揆の件数を見ると、出雲30件、隠岐8件に対して石見は45件だった。石見人の頑固な人柄が表れているとも言えるという。
===========覚え書き・抜粋=============
▽46 八雲立つ風土記の丘・本間恵美子所長と対談
荒神谷遺跡の一角は瞑想の広場。「やっぱりあそこは何か感じる」と。近代化の過程で、そういう信号を全部虫してしまってきた。
▽82 上村幸雄・琉球大名誉教授 島根へ
▽86 出雲弁保存活動 隠岐弁はかなりなくなってしまった。大根島の花売りのおばさんたちが話していた独特のアクセントの言葉もなくなった。
▽110 上村 江戸は当時、世界最大の都市。全国の大名がやってきて、奥さんが住んで……山手の言葉は支配階級の言葉、それをもとに、まず、書き言葉として標準語ができる。普段は方言を使うが、学校で習う書き言葉は標準語という関係だった。昭和の初めからラジオ、戦後にテレビが普及して、書き言葉(標準語)と似た話し言葉の言語が、共通語として爆発的に普及していく。
▽127 荒神谷博物館 資料館ははじめ町単独で建設する方針だった。が、大きな予算がかかるため、昭和60年に方針を一転して、「国や県が積極的に進めるべき」とした。だが県立歴史博物館が大社町に建設されることが平成13年に決まると、再び、町単独で建設することに方針転換された。建築費の半分は町民の寄付だから、町民の目線で展示されている〓。展示会社が展示計画をねり、展示設計をおこない、その上で、建物設計をおこなった。一般と逆のやり方だが、建築美より展示が大事、ということ。
▽155 奈良時代・平安時代前期は、外来種である梅を最も愛でた。「花」が桜を意味するようになったのは古今集以後である。国風文化の台頭によって、美意識が埋めから桜に変わったのだろう。
▽163 出雲のワニ 日本海の生魚を運べたのは出雲中部まで。そこから奥は、焼き魚干物にした。1916年に宍道・木次間にヒカミ鉄道ができるまで、木次や三刀屋などの町には、魚屋が異常なほど多かった。小売魚屋が奥出雲方面へ運ぶ魚の加工業も兼ねていたから。ワニだけが生のまま奥出雲に運べたのは、アンモニアが発生して腐りにくかったからでは。奥出雲の人にとって、ワニは「ぶえん」(無塩)として食べられるほとんど唯一の魚だった。
▽168 小泉八雲は、大和朝廷の日本とはちがう心豊かな世界を出雲に感じたのでは。ハーンが生まれたギリシャも多神教的だから、愛着を持ったのでは。彼にはアイリッシュの血もあり、アイルランドも多神教的な世界。キリスト教を強制されるなど民俗の悲哀がある。
▽172 出雲人は自分を卑下する。山間部では、平野部から来た客に刺身などを出すのが最高のもてなしだと思ってしまう。自分たちの山の食べ物や足場を否定する。
▽180
▽219 石見銀山 排気や排水の技術や機械がないから技術的に行き詰まって衰えていく。大森銀山が、実質的には銅だったが、閉山するのは1923年。かつては100の寺があり、20万人の人口を抱えたのに。
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