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「出雲」という思想–近代日本の抹殺された神々 <原武史>

講談社学術文庫 20090421

出雲の神であるオオクニヌシは、スサノオの系統を継ぎ、アマテラスを奉じる伊勢と対称的な存在だった。本居宣長をはじめとする国学のなかでも、出雲の位置づけをめぐって論争が交わされた。オオクニヌシの国ゆずりは、「伊勢」に対する単なる敗北ではなく、この世のことは天皇に任せるが、幽冥界のことはお任せあれ、という意味だという解釈がある。死後の世界のほうが長いのだから、出雲の位置づけは極めて高い。
それに対して伊勢派は、オオクニヌシ(スサノオ)をアマテラスの下に位置づけようとする。出雲派は自由民権運動と同様に危険視され、明治になって伊勢派に敗れる。出雲という地域の凋落はこのころに決定的になったという。
出雲の国造の家は近代に至るまで綿々とつづき、他の地方の国造とちがって、天皇のような権威を併せ持っていた。明治になって埼玉県知事から東京府知事をつとめた。
埼玉県と東京都の荒川周辺には「氷川神社」が多い。氷川神社はオオクニヌシなどの出雲系の神々をまつっているという。氷川グループの親分は、大宮の武蔵一宮の氷川神社である。明治天皇も行幸した。3つの家が代々神主をつとめてきたが、明治になって神主が中央から派遣されるようになる。伊勢などと同様「神宮」の地位を得ようとしたが、失敗し、「ふつうの神社」とされてしまう。これも、伊勢に対する出雲の敗退ではないか、というのが著者の推理である。伝統のある大宮ではなく、宿場町にすぎなかった浦和に県庁所在地が置かれたのも、そうした背景があるのかもしれない……と、におわせている。

============抜粋・覚え書き============

▽20 近代日本における「国家神道」「国体」の確立を、<出雲>に対する<伊勢>の勝利ととらえ、その裏で抹殺されたもうひとつの神道思想(復古神道)の系譜を描き出すことを試みた
▽51 出雲国造は、宣長が生きていた当時、唯一の国造として残り、出雲国内では藩主の権力を上回る権威だった。
▽68 平田篤胤 人間の霊魂は、死後も永遠に、この地上にある幽冥界に帰属するとした。来世を彼岸や極楽といった遠い世界におくキリスト教や仏教に対して、独自性がある。この思想は、柳田国男にひそかに受け継がれた。(先祖の話)
▽88 「天」(顕)「伊勢」中心の「記紀神話」と宣長の神学を乗り越え、スサノオと子神であるオホクニヌシの系統を重視する「地」(幽)「出雲」中心の神学を確立した。
▽126 伊予の国、とりわけ大洲地方には、出雲系の神々をまつる神社が他と比較しても目立って多い。古代に出雲との間に何らかの交渉があったことを示唆している。
▽158 国造の千家尊福 胤篤-六人部是香-矢野玄道と続いてきたオホクニヌシを幽冥主宰神とする出雲神学の系譜。
国造は、地面に直接足をつけてはならず、常に神火を携行し、その火でたかれた飯以外は食べてはならないとされた。……尊福は、巡教活動を行うにあたり、この戒律を撤廃した。旧出雲国内で、「生き神」として熱狂的歓迎を受けた。
▽164 造化3神を主神とする薩摩派 西郷の参議辞職で、力を失う。真宗勢力と結びついた木戸孝允や伊藤博文。大教院は解散され、教部省は「信教の自由」を保障する旨の口達を出した
▽173 祭神論争は、一般の新聞でもしばしば取り上げられ、この論争を民権運動と結びつけようとする伊勢派の主張と見間違えるような記事が掲載された。
▽179 信教の自由がある限り、出雲派の優勢は明らかだった。伊勢派は、祭神論争の決着を求める上申書を提出。天皇の勅裁をあおぐことに。伊勢派の工作は成功し、勅裁によって、「信教の自由」を無効にすることで出雲派の主張は抹殺された。
▽181 顕幽論そのものが政府に否認され、祭祀と宗教を分離し、神社神道を前者に限定して、非宗教化するための一歩となった。出雲大社教会は、神社神道とは区別された。一宗教団体へと凋落を余儀なくされた。
▽186 千家尊福 明治政府に中世を誓い、政治家に転身する。埼玉・静岡・東京府の知事を歴任し、司法大臣に。……靖国神社は神道が有していた宗教性を一手に引き受けるようになる。国家神道が確立されてからも、靖国だけは例外的に宗教性を保ちつづける。……靖国が出雲大社にかわる国家神道の二大中心のひとつとしての地位を維持し……
▽207 大本教 霊界のアマテラスや現界の天皇よりもスサノオを優位に置く。
□埼玉の謎
▽224 氷川神社はほぼこの地域にしかなく、独自の祭祀圏を形成している。東京に59社、埼玉に162社あるのに対して、ほかの道府県には7社しかない。
大宮氷川神社 いまの斐伊川の上流にあった出雲大社を勧請し、斐伊川にちなんで氷川の社号をつけたという。スサノオ、オオクニヌシ、クシイナダヒメの三神。埼玉は出雲の神々が多く祀られている。その中心が大宮。
▽232 見沼田んぼは、江戸時代に干拓されるまでは沼だった。古代はさらに、大宮公園のボート池などもその一部だった。見沼は氷川神社の「御沼」であり、武蔵の国造が、出雲以来の伝統を守って水の神事をした場所とされている。武蔵の政治的中心は大宮だった。だが8世紀初頭の大宝令の施行で、政治の中心は府中に移った。
▽243 新政府の1社1神構想で、男躰宮が本社、ほかは摂社、末社とされ、神社の祭神も男躰宮のスサノオだけとなりクシイナダヒメとオオクニヌシが除外された。神主は岩井家だけとなり、東角井、西角井はそれより低位の禰宜となった。
▽246 太政官布告で、神社を国家の宗祀と定義づけ、世襲神職制の廃止を宣言。これによって神主の岩井家は完全に神社から撤退し、公家出身者が新任の大宮司として赴任してきた。

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