■未来社240825
熊野古道を取材しているとき、旧大塔村に戦後まで「正月に餅をつかない」里があったきいてたずねた。小川という20軒ほどの集落だった。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(もりよし)親王の一行が鎌倉幕府に追われ、山伏姿で落ちのびてきた。農家の軒先にあった粟餅(あわもち)を請うたが村人はことわった。後に大塔宮の一行だったと知って村人は深く悔い、その後は正月に餅をつくのをやめてしまった……という話だった。正月には餅のかわりにボーリと呼ぶ里芋を食べていた。
そのときはそのまま記事にしたが、それに似た集落が全国にあると後に知った。
正月にイモを供えたり、特定の期間は餅を食べなかったり、逆に、正月だけイモを人目につかぬところはしまいこんだり、いっさい芋を栽培しなかったり……といった風習は全国に点在している。正月の餅をタブーにする家族・同族・村落は、山形県から長崎県まで約100件を数えるという。
正月の餅をタブーにする理由として、先祖が高僧や貴人に餅をあたえなかった、という型のほか、タブーを破って餅を食べようとしたら餅が血の色に染まるというパターン、平家の落人が、平家再興を帰するまでの禁忌として正月には源氏の「白」である餅をつかないというものなどがある。
赤い色は、焼畑耕作にともなう火を象徴している。餅=白色=水=水田稲作農民と、雑穀・根菜食品=赤色=火=畑作(焼畑)民との対立がみられる。
正月のハレの食事として里芋をもちいるのは、里芋それ自体が正月料理に欠かせない食材であったからだ。
愛媛県西条市黒瀬は里芋で元日にデンガクをつくり、年神に供えてきた天竜川流域では、正月の年神に供えるだけでなく、ほかのハレの日にも里芋をつかう。和歌山・奈良には、正月の供物、食べ物として里芋を唯一の対象とするほか、里芋の収穫儀礼や宮座行事が豊富に存在する。
小川と同様、里芋をボーリュウ(ボーリ)とよぶ事例は中国地方にもあり、里芋中心の宮座のあるところでは、座そのものをボーリュウといい、直会のための里芋料理をつくる最長老の男性をボーリュウというところもある。
日本の民俗学では、日本文化の基層は稲作文化であるというのが大前提だった。稲作が不可能な土地でも、正月の供え物は餅という、米をシンボルとする観念が浸透していく。新年が公の暦によって統一され、餅が一般化すると、餅のない新年の儀礼は異風とされる。餅なし正月の集団でも、「もとは餅をもちいていたけど、あるできごとがあって餅をもちいなくなった」という起源説話がつくられていった。
新年に餅を供物、儀礼食とすることが、死、血、火災などによって阻止されるのは、これを支える集団の生産基盤が死や出血、火と深くかかわっていることを示唆している。火=焼畑農耕を軸とした集団である。
稲作に関する儀礼には、男性も女性も祭祀の担い手になることが多いが、焼畑など山の生産儀礼には男性が独占的役割を果たす。山の神は女性神であり、その祠には男根に類似した木の株が供えられていた。
=====
▽42たとえば正月の供え物や晴れの膳などに、餅よりもイモの料理が主体となっている民俗のあること。ある特定の期間は餅を食べない、餅をつかない家や村のあることを指摘。……正月の期間だけイモを人目につかぬところはしまい込む習俗のある反面、芋を栽培せぬといった禁忌を持つ村もある。
米や餅の論理と異なる価値体系をもった民群の存在したことを指摘した。
▽47 正月に餅を食べたり神仏に供えたりすることをタブーにする家族・同族・村落があり、全国で約100件を数える。
▽48 正月の餅をタブーにする集団 先祖が高僧・貴人・宗教者に餅を与えなかった……というもの。
タブーを破って餅を食べようとしたら、餅が赤い色をしたものに変化するというパターン。血の色に染まる、人が死ぬ……。白色に対するタブー。赤い色は、焼畑耕作の基本技術である火の使用と、……火の神を象徴したもの。餅=白色=水=水田稲作農民と、雑穀・根菜食品=赤色=火=畑作(焼畑)民との対立がみられ……
▽54 柳田は、日本人は米を常食とする思想から稲を作ったのではなく、ハレの日の理想が米をもってつくったもので神を祭る思想に発したと説く。
……盆/正月には米を食わねばならぬ、といった心持ちで、米にほかの食物よりも一段高い価値づけをしていたのではないか。……
▽68 里芋は熱帯アジア原産。日本でも北海道をのぞく全域で栽培。
▽74 正月のハレの食事として里芋をもちいる例は、餅の具としてというより、里芋それ自体が正月料理に欠かせない食材であったと考えられる。
▽76 愛媛県西条市黒瀬では、オーイモと呼ばれる里芋で元日にデンガクをつくる。古くから年神に供えている。
……八丈島や青ヶ島も。
▽84 熱帯性の里芋は、10度以下の気温では発芽生育が不可能とされ……
天竜川流域 正月の年神への供え物、ほかのハレの日にもしばしば里芋があらわれる。
▽85 那智勝浦町二河では、新正月には里芋の親をまるごとゆでて、海老、鯛、干し柿とともに、米を敷いた三宝に供える。……和歌山・奈良には、正月の供物、食べ物として里芋を唯一の対象とするほか、里芋の収穫儀礼や宮座行事が豊富に存在する……
▽96 たとえその土地で稲作が不可能であっても、正月の正式の供え物、食べ物が餅であるという観念が浸透するにおよんで、里芋の価値が餅へ移行するという変化がおこってくる。米を生活のシンボルとする観念が、稲作以外の社会におよぶとき、米への価値志向という画一化がはじまってくる。
▽97 ……米の価値へ志向する過程、やがて統一されていく過程を示す民俗が数多く伝承しているのである。
▽108 「餅なし正月」「餅つかぬ家」 全国的に例があって……
……山形県を北限として西は長崎県までとなっている……多くの場合共通しているのは、ある時代における先祖の行動の結果が子孫に及んでいるという点にある。
……平家の落人……平家再興を帰するまでの禁忌として、正月に餅をつかないことを守り……
▽117 日高郡切目荘……では、正月の餅をつかないで寒食をする。昔、大塔宮が大歳の日に通過したとき、里人に餅を所望されたが、春は餅をつかないと答えたので、その後に餅をつけば祟りがあるという。
……大塔村鮎川では、正月にはボーリュウと呼ぶ里芋を食べる。大塔宮に餅を与えなかった。村人は非礼をはじて正月に餅をつくことをやめ、里芋を食べることにした。
……里芋をボーリュウ(ボーリ)という事例は中国地方にもあり、……里芋中心の宮座のあるところでは、座そのものをボーリュウといい、直会のための里芋料理をつくる最長老の男性をボーリュウというところもある。
▽156 日本人・日本文化を基層的に同質とする仮定は、日本民俗学のとってきた大前提であった。
▽164 新年が公の暦によって統一され餅をもちいることが一般化されると、餅のない新年の儀礼は異風とされる。餅なし正月の集団も、もとは餅をもちいていたのだが、あるできごとがあって餅をもちいなくなった、という起源説話がつくられたと折口。
……餅なし正月は、局地的民俗事象ではなく、各地に分布しており、その構成要素に共通性がみられる。
▽170 保内町平ヶ谷部落では餅をつかない。源氏に敗れたため白色を忌むから。氏神の幣も白色をもちいない。
▽183 餅によって象徴される白色と、血=赤との葛藤が成立。餅をつけば火災がふりかかるという火を象徴とする集団の存在も知り得た。
……正月に里芋をひとめにふれないところに隠したり、……は、かつて餅以外のものが新年の正常な供物、儀礼食とされていた背景を考慮する必要がある。
……新年の供物、儀礼食を軸とした等質的儀礼体系が複数存在していることを確認できる。
▽195 餅の採用が社会的秩序を壊すということは、餅が単純に供物、儀礼食としてでなく、文化体系にかかわるものとして認識されたことを意味し、秩序維持には餅の採用を儀礼的に禁止する必要がある。そこで、民間伝承としての餅正月から餅なし正月への移行は認められないが、逆の移行は認められるという一元的な移行の論理が重要な意味をもってくる。
▽201 新年に餅を供物、儀礼食とすることが、死、血、火災などによって阻止されるのは、これを支える集団の生産基盤や新年儀礼が死や出血、火と深くかかわっていることを示唆している。餅なし正月をささえる集団において、白色の禁忌や餅そのものを禁忌とするのは、集団の守護霊信仰が赤色や火を媒介としていることを示唆する。
……火=焼畑農耕を軸とした文化の存在の可能性を示唆する。
▽233 岡山県阿哲郡と新見市北部地域一帯のトウヤマツリでは、伝統的におこなってきた焼畑の栽培作物が儀礼食として位置づけられている。里芋、大根、大豆、稗。
……水田稲作が優越してくると、トウヤマツリの儀礼食や供物は稲が主体となり、焼畑作物は周辺に押しやられて……焼畑作物と稲との間に価値の移行ないし転換が起こった。
▽237 稲作に関する儀礼には、男性も女性も祭祀の担い手になる選択性がみとめられ、女性の祭祀的役割が強調されるのに対して、焼畑など山の生産儀礼には男性が独占的役割を果たしている。……代城においても山の神は女性神であり、その祠には男根に類似した木の株がいくつか供えられている。
▽280 中尾佐助によると、照葉樹林文化の発達にともなって、栽培化された段階を時代順に、ワラビ→ヤマノイモ→サトイモ→コンニャク→雑穀→イネ→オームギ→コムギ→ソバなどとみている。熱帯降雨林の根菜文化から、わずかばかりの作物品種ータロイモの一部のサトイモーを受けとめることができ、またヤムイモでは温帯性のナガイモをたぶん雲南省あたりで栽培化し、それを日本まで伝播させたが、それら以外に野生の芋類の栽培化にはあまり成功していない。日本に稲以前に栽培されたイモは、稲の渡来をうけ、次第に稲と接触しながら、東北日本に山芋、西南日本に里芋といった気候条件に応じた分布をとったものと思う。
コメント