監督の故郷の岐阜県東白川村は、「ツチノコの村」であり、毎年、ツチノコをさがすイベントが催されてきた。監督も子どものころはツチノコの実在を信じ、捜索イベントに参加した。
ツチノコの村、の存在感は抜群だけど、大人になるにつれてはずかしくなってきた。
そんなふるさとにもう一度相対しようと「ツチノコ」を撮ることにした。
折り込みチラシでツチノコ情報の提供を呼びかけると、「一升瓶ほどで、短い尻尾」「ころころ斜面を転がっていた」「ぴょーんと飛んだ」といった目撃証言が次々にでてきた。目撃者は23人にのぼった。
ツチノコってそもそもなんなの? と、研究者をめぐると、ヤマカガシがガマガエルを丸呑みした姿とか、マムシとか、1970年ごろに海外からもちこまれたトカゲに似ているとか……さまざまな説がでてくる。
歴史をひもとくと、かつては「妖怪」であり、目撃したことを口にしてはいけないと信じられていた。
ツチノコを追っても追ってもその姿をあらわしてくれない。
でも、故郷のじいちゃんやばあちゃんたちは「みた」と言って具体的な姿を描写する。存在しないわけがない……。
内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」を思いだした。
伝統的なムラでは、生命とは全体の結びつきのなかでそのひとつの役割を演じているという生命観があった。通過儀礼や年中行事を通して、人々は、自然や神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれていることをかんじてきた。キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力だった。人々が、自然や神々とのつながりを感じる精神を衰弱させ、経済中心の精神をつくりだすようになって、キツネにだまされなくなってしまった。キツネにだまされなくなったのは進歩ではなくて退化なのだ。
ツチノコもまた、そんな存在なのかもしれない。ツチノコの存在を頭から否定する大半の人びとよりも、ツチノコを実在のものとかんじる人びとのほうが実は豊かな生命観をもっているのではないか。だから監督はこれからもツチノコをさがしつづけるという。
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