MENU

二上山<田中日佐夫>

■学生社20230629

 二上山と、中将姫伝説のある當麻寺、大津皇子について知りたくて購入した。1967年が初版だが、1999年に再版し、解説をくわえている。
 
 二上山の西側、大阪府太子町の「山田」一帯には、敏達天皇、孝徳天皇、小野妹子、推古天皇、用明天皇、蘇我馬子の墓、聖徳太子等の墓を祀る叡福寺……といった、飛鳥時代の6,70年間を形成した天皇・貴族が埋葬されている。
 都の飛鳥地方との距離は16キロから20キロ。遺骸は、日本最古の国道(官道)である二上山の南の竹内街道ではこばれた。
 古代の葬送儀礼はまず「哭く」からはじまり、次に亡き貴人の生前の功績をたたえる「詞」をのべる「誄(しのびごと)儀礼」がはじまる。585年に敏達天皇が死んだときにはじめて登場した。二上山西側墳墓群の時代は「誄儀礼」の第一期にあたる。
 人間の死にはいくつもの時間的段階があり、黄泉の国の食物を食べるまでは「魂呼い(たまよばい)」によって、生き返らすことができると信じられた。冥府の食事をとって、帰らないことがはっきりした死霊には「魂しずめ」の呪術をおこなった。時代が進むにつれて「魂呼い」の儀礼は消えていった。
 大化改新で、葬送儀礼にともなう殉死とともに、呪術的な「誄」も禁じられた(天武天皇の殯宮で一時復活)。天武天皇の妻の持統天皇が702年に死んだときは葬送儀礼は仏教寺院が執行するようになった。誄儀礼は姿を消したが、殯宮で最後にたてまつる誄だけが當麻智徳によっておこなわれた。仏教儀礼としての葬送儀礼は聖武天皇の葬送儀礼で完成された(756年)。

 万葉集における最大の詩人、柿本人麿は「挽歌」の名人である。 「挽歌」の本義は「葬送の時、柩をひく者のうたう歌」だ。
 人麿の先祖は、貴人の柩が飛鳥の地を出発して竹内越えの入口にいたるまで死霊をしずめる挽歌をうたう「行道歌人」としての役目をはたした。そうした葬送儀礼の役割は、人麻呂の祖父か父の代で終わっていたが、葬送儀礼の挽歌うたいという仕事から解放されたあと、先祖から継承してきた歌群を文学の域にまでたかめたのが柿本人麻呂ではないかと筆者は推測する。

 天皇の柩は、飛鳥における「魂呼い」の儀礼、野辺の送りともいうべき柿本氏の「挽歌」と笛吹の「葬送行進曲」、二上山付近における當麻氏による「魂しずめ」の儀礼を通過して竹内峠を越えて埋葬の地に送られた。

 万葉集の挽歌は、天智天皇の殯宮(671年)で女性がうたった挽歌群にはじまり、その後、柿本人麻呂に代表される公的な性格をもつ挽歌群、さらに8世紀以後、山上憶良や大伴家持らが広い層に哀切の情をこめてうたった歌群の3つに分類できる。
 呪術的色彩のこかった誄儀礼が禁じられたとき、はじめてそれを客観視することができた。誄が儀式上の制約から解放され、それが歌の形をとることで万葉の挽歌に組み入れられた。
 「誄儀礼」は707年の文武天皇の火葬で終わる。葬送儀礼は誄儀礼から仏教儀礼へ移行する。
 二上山が特殊機能をはたした時期は大化改新のちょっと後には終わり、天皇の墳墓は越智(斉明天皇)、山科(天智天皇)、檜隈(天武、持統)……と各地に散らばる。
 葬送儀礼をになう當麻氏の一族はどんな経緯をたどって仏教の「寺」になるのか。
 當麻寺に関する文献は、創建当時から平安時代まで、まったく発見されていない。鎌倉時代の複数の文献は「今の地とはちがうところに建てられた」と記している。その場所は、竹内越えの入口であると筆者は考える。
 大化改新後、天皇の陵墓は各地に散在するようになり、二上山山越他界思想にこだわらない観念が生まれる。
 當麻氏は、自分たちの重要な祭場をじょじょに仏教的寺院にしたてていった。だから「仏教寺院」と記されるまでに長い時間を要した。古代の誄儀礼から仏教儀礼へうつり、壮大な仏教芸術の祭祀をおこなうようになる。その象徴が當麻曼荼羅だという。
 當麻寺には平安時代中期以後、伝説も文献も残っていないが、828年に弘法大師が来て真言宗になった。という言い伝えはある。さらに、浄土宗の教義が確立して、當麻曼荼羅の供養法式も儀礼として規定された。

 仏教伝来以前の「哭儀礼」のつぎに、敏達天皇のころから「誄儀礼」が記録される。「哭」の要素を残していた第一期の「誄儀礼」が批判されて終わったとき、哭の要素を残していた「女性の挽歌」が記録される。「誄儀礼第2期」がおわり、「仏教儀礼」に移行しようとするとき、第1期において葬送の行列を荘厳化していた柿本氏の挽歌が、堂々と記録される。そしてさらに仏教儀礼の完成がみられたとき、はじめて「誄の詞」は、亡き人の伝記である「傳」として記載されるようになった……と結論づける。

======
【大津皇子についての記述。
 大津の母である大田皇女(天智の娘)が早く死に、大田皇女の妹である鸕野讃良皇女(持統天皇)が天武とのあいだにもうけた草壁皇子を皇太子とした。
 686年9月に天武が死ぬ。その直後、大津皇子は皇太子の草壁皇子を倒そうとはかった容疑で捕らえられ、翌日には処刑された。
 あとにのこった愛妃、妃皇女山辺(みめひめみこやまのべ)は「髪(みくし)を被(くた)し徒跣(すあし)にして、はしりゆきて」という悲惨な姿で殉死した。】
=======

▽當麻曼荼羅 ほぼ4メートル四方
▽二上山の西側、太子町の「山田」一帯に群集する陵墓群。飛鳥時代の天皇たちのほとんど全部ならんでいる。敏達、用明、推古…当時の都の飛鳥地方との距離は少なくとも16キロから20キロはある。この長い道のりをはこばれ、當麻南方の竹内街道を西に越えた。飛鳥の都からみてほぼ西方。西方の墳墓の地。
▽15 二上山雄岳山頂にある大津皇子の墓
▽16 大津皇子 「懐風藻」「すがたかたちはたくましく、気位は峻遠である。おさなくして学をこのみ、力がつよく、よく剣をつかった。性質はすこぶる不羈奔放、法度に束縛されず、士には礼を尽して接したので人々は多く、かれに将来を附託したのである」
…大津の母である大田皇女(天智の娘で鸕野讃良皇女=持統の姉)が早く死に、天武と鸕野讃良皇女が自分の生んだ草壁皇子を皇太子とした。
▽19 686年9月、天武天皇が死に、遺体を埋葬の時までおさめまつっておく殯宮が建てられた。このとき以後、葬送儀礼のうち重要な部分をしめている殯宮の儀礼が2年3カ月の長きにわたっておこなわれた。
…天武が死んでわずかに15日、殯宮の儀礼もようやくはじまろうとするとき、大津皇子は、この時期をねらって皇太子を倒そうとはかった、という。しかしそれは、わずか8日目に発覚してしまった。…「皇子大津のために、あざむかれた者ら(三〇余人)も捕らえた」さらに翌日には、「皇子大津を訳語田(おさた)の舎で賜死(みまか)らした」電光石火の逮捕と断罪である。
…あとにのこった愛妃、妃皇女山辺(みめひめみこやまのべ)は「日本書紀」の描写によれば「髪(みくし)を被(くた)し徒跣(すあし)にして、はしりゆきて」という悲惨な姿で殉死した。「見るものはみななげく」という。皇子の遺体は殯宮にはいることもなく、二上山山頂に埋葬された。(〓移葬されたのでは?)
 伊勢から都へ召喚された同腹の姉大来皇女(おほくのひめみこ)は
うつそみの人なるわれや明日よりは 二上山を兄弟(いろせ)とわが見む
▽25 大和側から竹内峠を越えて、平野がようやく姿をあらわしはじめたころ、…小山はすべて墳墓である。孝徳天皇陵の南に小野妹子、推古天皇陵、用明天皇陵、伝蘇我馬子の墓などがつづく。その北に見えるのが聖徳太子等の墓を祀る叡福寺…この墳墓の集まりは圧巻である。
▽27 多数の天皇、貴族たちの遺体が、飛鳥の都から二上山の西側まで、直線距離にして約17,8キロ、半日行程以上の道のりを運ばれ埋葬されたという事実。
▽28 天皇系図
▽38 崇峻天皇は馬子に殺される。…欽明天皇の娘であり、用明天皇と同母の妹にあたり、敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が即位して、初の女帝・推古天皇に。おいにあたる厩戸皇子を皇太子にたて、摂政とした。
▽46 二上山西側の墳墓群には、仏教公伝の直後から大化改新ののちまで、6,70年間の、飛鳥時代を形成した天皇、貴族たちが埋葬されている。
▽47 葬送儀礼はまず「哭く」からはじまる。
▽59 585年、二上山西側の墳墓第一代目の天皇にあたる敏達天皇が死んだ。このときはじめて「誄(しのびごと)」が登場する。…ただ泣くこと哭くこととはちがって、その死んだ人のことを伝える「詞」を申し述べる儀礼、または「詞」自体の呼び名。
 敏達天皇の殯宮のあと、歴代の天皇、貴族の葬送儀礼でおこなわれている。
▽68 人間の死にはいくつもの時間的段階。…黄泉の国のかまどでにた食物を食べるまでは「魂呼い(たまよばい)」によって、この世に生き返らすことができると信じていた。
…冥府の食事をとって、帰らないことがはっきりした死霊には「魂しずめ」の力をもった呪術をおこなう。
…社会がひらけてゆくにしたがって、「魂呼い」の儀礼はしだいに後退。
▽71 誄儀礼 大化改新で、葬送儀礼にともなう殉死などを禁じた。呪術的な「誄」も禁じた。(…天武天皇の殯宮で復活。)
▽80 702年、天武天皇をつぎ、5年前に文武天皇に位をゆずった持統女帝が死んだ。
…葬送儀礼は大幅に、仏教寺院の手に移ったようである。誄儀礼は姿を消して、…ただ殯宮で最後にたてまつる誄だけが當麻智徳によっておこなわれるのである。仏教的色彩はいよいよ濃くなる。
▽84 仏教儀礼としての葬送儀礼は聖武天皇の葬送儀礼によって完成される。(756年)
▽88 二上山西側墳墓群の時代は「誄儀礼第一期」にあたっていた。
▽93 挽歌 「葬送の時、柩をひく者のうたう歌」と理解すれば…
 万葉集の挽歌 1)挽歌の出現 天智天皇の殯宮671で女性のつくった挽歌群。2)柿本人麻呂に代表される公的な性格をもつ挽歌群 3)8世紀以後、山上憶良や大伴家持らが広い層に哀切の情をこめてうたった歌の形成期。
▽100 呪術的色彩のこかった誄儀礼が禁じられたとき、はじめてそれを客観視することができた。そういうものの系譜のなかから生まれたものを、儀礼に参加している自分から切り離して、ようやく、推敲をくりかえしなあら書きとめることができた。……誄が、きびしい儀式上の制約から解放され、それが歌の形をとる場合、万葉の挽歌にも組み入れられたのだろう。
 挽歌にうたわれる主人公が天智天皇という古い誄を禁じた人。
▽104 実姉の子、大津皇子を処断してまで、皇太子の地位を安んじようとした草壁皇子が死んだ。
▽111 近鉄新庄駅の西側に柿本神社と柿本山影現寺。…
 万葉集における最大の詩人、柿本人麿 「万葉集」にはかれの歌を典型的な基準例として「挽歌」という語が使用され、さらにかれのつくった歌のなかで挽歌がもっとも大きなウェイトをしめていることもたしかである。
▽116 柿本の地を根拠地として、人麿の先祖は、貴人の柩が飛鳥の地を出発して竹内越えの入口にいたるまで、それを守りながら挽歌をうたう「行道歌人」としての役目をになっていたと考えられるのである。
…「柿本」は、「宮廷領の境界、股は底を守ることを意味していると思われる」「垣下」ではないかという折口信夫の説がある。
▽118 おそらく敏達天皇の時代に、葬送儀礼の整備の一環として、大和の東北に位置して勢力をふるっていた大春日氏の族民から、特殊な呪術力をもっていた一支族をいまの新庄町に移し、その名を春日氏から区分するためにカキの下氏とし、柿本氏となしたのであろう…それ以後、柿本氏は飛鳥の殯宮を出発する葬送にしたがって道をはらい、死霊をしずめる挽歌をうたう仕事に専従するようになったのであろう。
▽119 人麻呂の挽歌は、「誄儀礼第一期」の時期に、実際にうたわれてきた挽歌の伝統の上に形成されたものであった。ただ、飛鳥から二上山にむかう葬送儀礼のなかではたした役割は、彼の祖父、あるいは父の代で終わっていたのである。
…葬送儀礼の挽歌うたいという仕事から解放されると同時に、…柿本氏が、古代宮廷社会で活躍する場が狭められた。
…先祖から継承してきた伝統的な歌群を文学の域にまでたからしめ、さらに彼自身の歌として定着させた…
 かれの挽歌のなかに、かつて飛鳥から二上山にむかってすすんだ葬送儀礼を、荘重な調べでつつんでいた歌の面影を見出すことができるのである。
▽136 葬送の列がにしへすすみ、柿本氏や笛吹氏のかなでる葬送行進曲にまもられながら、竹内越えの入口に到着する。
 柿本から西へ、葛城の山地にかかるあたりに「寺口」という村があり、その北のやまあいに「當麻坂」という道がある…現在の當麻寺の前身は、この竹内の入口あたりにあったともつたえられている。…葬送の列をむかえ、柩に対する儀礼をおこなったのが當麻氏であったと考える
▽139 當麻蹶速は野見宿禰に「脇骨をふみさかれて」惨敗を喫した。
▽140 當麻真人智徳が、火葬直前の誄を専従的におこなっている。…かれの一族は、特殊な力をもつ詞を使う特技をそなえていたと同時に、死者のゆくべき世界にたいしても明確なイメージをもっていたものとおもわれる。
▽144 「誄儀礼第3期」以後は「泊瀬の山(初瀬町あたり)が埋葬の地であり…。
 飛鳥地方から見た二上山は、この世とあの世(墳墓の地)を決定的にへだてるめじるしとして適当なものであった。二上山こそ、彼岸をへだてる「墻(かき)」だった。
▽145 柩は、飛鳥における「魂呼い」の儀礼、野辺の送りともいうべき途中における柿本氏の「挽歌」と笛吹の「葬送行進曲」、二上山付近における當麻氏による最後の「魂しずめ」の儀礼。これらを通過して山にはいり、竹内峠を越えて埋葬の地でまつ他の族民にひきつがれるのである。
▽161 「続日本紀」において、はっきりと「傳」が記載された最初は700年の道照和尚の死の時。…彼の葬送は「天下の火葬これより始まれり」
▽165 天皇の誄儀礼は707年の文武天皇の火葬の時を最後としておわる。
…天皇家はじめ大官の葬送儀礼が、誄儀礼から仏教儀礼へ移行した。それが完成するのが、天平末期、聖武天皇の葬送儀礼をターニングポイントとしていたと考えられる。そのころから正史上の「傳」がぞくぞくと記載されるようになる。
▽171 二上山が特殊機能をはたした時期は大化改新後、まもなく終わる。天皇の墳墓は越智(斉明天皇)、山科(天智天皇)、檜隈(天武、持統)というように各地に選定されるようになる。
 しかし、ながい習俗につちかわれた山越他界の地ーー二上山に関する感情は、長いあいだうけつがれたのだろう。大津皇子の墓…
 持統天皇は自分の最大の敵、大津の魂を、この世とあの世のあいだにとどめておこうとしたのである。大来皇女は、生きた人間にとっては歌の対象にさえすべきでない神秘の山、二上山を「兄弟とわが見む」とうたっている。…
▽173 當麻寺 當麻寺曼荼羅は、4メートル四方にちかい大浄土変相図である。
▽177 當麻寺の南約1キロのところに竹内越えの道がとおっている。
…當麻寺に関する文献は、創建当時から平安時代まで、その姿をつたえたものはまったく発見されていない。
▽179 鎌倉時代の文献 諸本とも、今の地とはちがうところに建てられたと書かれている。その場所は、、ちょうど竹内越えの入口にあたるとおもわれる。
▽181 當麻寺は、仏教寺院として完備されるまでの長い時期を過ごしたと考えられる。長い時期とは誄儀礼第一期から第三期までの歴史の歩みである。
…東口の場所は、柩をむかえておこなう大和における最後の儀礼の場であると同時に「山越え」出発の儀礼の場であり、山田郷のそれは埋葬にかかわる儀礼の場であったとみられる。
…大化改新後、天皇の陵墓は各地に散在するyおうになった。…誄儀礼第一期に主流をしめていた二上山山越他界思想にこだわらない新しい観念が生まれてきていたとみるべきだろう。
▽186 天皇の火葬の際に誄たてまつるということは、わが国最初の意識的な、古い習俗観念と仏教教理的なものとの習合であったのである。
…當麻氏は、自分たちの重要な祭場の周辺を仏教的寺院にじょじょにしたてていったのであろう。そのような事情があったから、仏教寺院と記されるまでに長い時間を要したのだろう。
…特殊な呪力から脱却した當麻氏の性格変貌と當麻寺の仏教寺院への完成。
▽189 當麻曼荼羅
 古代の誄儀礼から仏教儀礼へ、習俗的な信仰を起点として、ついに仏教の信仰にうつり、壮大な仏教芸術の祭祀をおこなうようになる。
▽211 平安時代中期以後は、文献資料も伝説さえもほとんど残っていない。ただ828年弘法大師が来て、以来この寺は真言宗になった。という言い伝えはある。
▽214 浄土教系統の葬祭儀礼は二上山をまぢかにのぞむ村で生まれた恵真僧都によって確立された。
▽220 浄土宗の教義が確立して、「観経変相図」の正しい意味があきらかにされるにしたがって、當麻曼荼羅の供養法式も改変されて儀礼として規定されたのであろう。當麻寺でおこなわれていた講も改変され、その特殊性も後退したのであろう。
▽224 「哭儀礼」のつぎに、敏達天皇のころから「誄儀礼」が記録される。「哭」の要素を残していた第一期の「誄儀礼」が批判され、終わりをむかえたとき、哭の要素を残していた「女性の挽歌」が記録される。「誄儀礼第2期」がおわり、「仏教儀礼」に移行しようとするとき、第一期において葬送の行列を荘厳化していた柿本氏の挽歌が、堂々と記録される。そしてさらに當麻氏の誄担当が記録され、仏教儀礼の完成がみられたとき、はじめて「誄の詞」は、亡き人の伝記である「傳」のなかにふくみ記載されるようになったのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次