人文書院 20081224
四国遍路と西国、坂東、秩父の巡礼の歴史を紹介し、アンケートなどをつかって比較分析している。
アンケートの結果は社会学だけあって、あたりまえ、と言えば、あたりまえの結論がならんでいる。だからどうしたの? という理由の部分までのつっこみがほしいところではある。が、歴史的変遷や現状を記録に残すという意味は大きいだろう。
歴史は勉強になる。西国・坂東・秩父は観音信仰から生まれ、「西国」と名づけられたのは、江戸時代になって東から訪れるようになってからだという。秩父が栄えたのは、江戸から関所を越えることなしに手軽にでかけられたからだ。
四国遍路は、観音巡礼と異なって昔から修行の意味合いが強かった。札所は山の上や岬の突端といった厳しい場所にあり、川が氾濫すれば何日も渡れない。だから今も、信仰心で巡拝する人が多いし、2度3度と繰り返す人の割合もほかの巡礼に比べて高い。
明治の廃仏毀釈の影響はいずこでも大きく、四国の札所でも多くの寺が荒廃し、無住寺だらけになった。廃仏毀釈は日本の文化大革命とも言えるほど猛威をふるったことがわかる。
秩父も、その打撃から回復するのは昭和40年代になってからだったという。
四国遍路は、昭和39年は年間7147人、54年に3万を突破、平成2年に5万人台、平成10年に大幅に増え、11年に7万人を超え、14年には8万人台……。
昭和後期から平成期はバブル。昭和63年には瀬戸大橋ができ、2、3年後の平成2,3年ごろに増える。昭和60年から63年のNHKの「花へんろ」。平成10年に再び増えるのは、明石海峡大橋の開通。関西圏の業者の格安バス遍路も10年以降の急増の要因となった。
============メモ・抜粋================
▽11 遍路関連の先行研究。社会科学的な研究は少ない。
新城常三「社寺参詣の社会経済史的研究」「新稿 社寺参詣の社会経済史的研究」 前田卓「巡礼の社会学」 星野英紀「巡礼 聖と俗の現象学」……
▽17 我が国の巡礼の起こりは、平安時代末期に畿内を中心として起こった観音巡礼が始まりとされる。
鎌倉期に坂東巡礼、室町期に秩父巡礼が西国巡礼を移植する形で起こった。
▽27 「西国」という名称は、平安時代末期には付記されていない。東国から来るようになって、順路も変更。
▽57 遍路 僧侶が修行として巡歴した原型。今昔物語(1030-1040年代)や梁塵秘抄(1179)にも僧侶が「四国の辺地」をまわっている。平安末期には、あった。「辺地」「辺土」。鎌倉から室町になると「辺(旧字)路」という文字が見出される。
▽62 八八カ所の原型は室町から江戸時代にかけて成立したのではないか。
▽68 阿波の鳴門を1番としたのは、摂津や紀州から船で四国に渡るとき、地理と潮流の関係から阿波が近いから、その便宜を考慮して変更された可能性が高い。
▽73 江戸時代になると、農民たちが経済的に向上し、先駆者による巡拝記、案内図が出版された。江戸中期には巡礼者の階層が庶民まで広がり、行楽の要素もでてきた。だが、四国遍路だけは近世にはいっても、苦行的性格が濃厚だった。
▽85 西国巡礼のついでに京見物をし、盆行事としての禁裏の灯籠見物に日程を調整する。祇園祭を含むこともあった。
▽103 千葉市誉田町平山地区では女性が四〇歳以上になっても秩父巡礼をすませていないと一人前の女とみなされなかった。秩父巡礼が女性の通過儀礼であり、昭和40年代までつづいていた。
▽105 四国遍路は、江戸時代の初期は、札所寺院の荒廃が激しく、住職不在の寺も多かった。阿波と伊予の札所寺院の大半は荒廃し、住職もおらず、寺院としての機能を失っていた。一方、土佐、讃岐では藩の援助を受けて寺院が整備されていた。32番禅峯寺付近の浦戸というところの河?や、種間寺付近の河でも、渡船をもうけていた。
標石や宿泊施設が徐々に整い、遍路絵図が出版される江戸中期以降に遍路が増えるようになった。年間平均2万人前後の遍路があった。
▽113
▽118 四国遍路は、女性や社会の下層の人々が比較的多かった。伊予小松藩の「会所日記」の40年分の記録を分析した新城によると、男女比率は67%と33%。女性が多かったのは、大師講の議中として信仰心に篤かったことや、女性の通過儀礼と結びついていたことなどがあげられる。宇和島、松山などの四国各地や瀬戸内島嶼などには嫁入り前に遍路をする習慣があった。
中務茂兵衛は、1866年から1922年まで、国元に一度も帰らず、遍路をつづけ、279度の巡拝を重ねた。
一方、物乞いや職業遍路も横行する。元禄以降は15000から2万人の遍路がいたとみられるが、1割強が物乞いをする遍路だったのではないかといわれる。土佐藩は遍路の行動を厳しく規制した。
明治期になってからも、治安面から警察が厳しく取り締まる状態がつづき、大正時代の高群逸枝も警察の遍路狩りに連行されるところを同行の老人の機転で難を逃れている。
▽121 江戸時代までの神仏混淆政策を明治政府は改め、神仏判然令をだし、さらに、僧籍を棄てて浄衣を着れば神官として認めた。修験道の解散命令、廻国修行の六六部の禁止令を断行する。神道を国教化し、伊勢神宮を頂点とした官幣神社を全国各地に設置した。これら一連の廃仏毀釈運動によって、札所寺院も大きな打撃を受けた。特に、四国と秩父の混乱と荒廃が著しかった。
一三番、三〇番、六二番札所の「一の宮」をはじめ、12の神社は明治維新期に札所を廃止し、近くの縁故の寺院が札所になった。なかでも30番は平成期まで混乱がつづいた。
江戸時代までは、土佐一の宮の別当寺として善楽寺と神宮寺が建立され、札所三〇番として並立していた。一の宮は別名高嶋神社と呼ばれたが、明治に善楽寺、神宮寺から分離され、土佐神社と改称された。その後、神宮寺は善楽寺に合併され、明治3年に廃仏毀釈で善楽寺も廃寺となった。そのたえ、本尊などは29番国分寺に移されたが、明治9年に廃寺となっていた安楽寺が復興すると、そこに移され、安楽寺が三〇番札所になった。昭和4年に一の宮地区の人々が善楽寺を復興させた。長らく両寺間は紛争がつづき、昭和17年に一応決着したが、昭和62年には、安楽寺から派遣された住職の配転問題で訴訟になる。安楽寺住職が善楽寺住職をかねるという最高裁判決をふまえ、平成6年、三〇番札所は善楽寺に統一し、安楽寺h三〇番札所奥の院とすることが両寺の檀家総代の話し合いで解決した。
第六二番の伊予・一の宮は廃寺になり、納経は六一番・香園寺が代行することに。第六〇番・横峯寺は明治4年に廃寺となり、石鎚神社横峰社と改められた。そこで横峰寺の納経は近くの清楽寺が代行したが、明治12年に横峰寺近くに大峰寺を建立し、札所を再開した。清楽寺と大峰寺との間に紛争がおこった。明治42年に石鎚神社横峰社が廃止され、翌年大峰寺の寺号を横峰寺と改称して、名実ともに復興することになった。
三七番岩本寺も、一事廃寺となったが、明治23年に復興されている。
▽124 明治25年ごろの遍路は3月から5月までに多く、時には1日500人ほどあったと言われる。大正時代には1日千人近い遍路もあったという話もある。
夏や冬にはハンセン病患者や足の不自由な人に限られていた。
昭和に入って変化がでてくる。交通機関の発達や体験記の出版、「出開帳」の開催。
▽126 高群は、「娘巡礼記」で大反響を呼び、昭和12年に「お遍路」(厚生閣)を翌年には「遍路と人生」を出版。大正後期から昭和初期にかけて、鉄道やハイヤーなどを利用する観光を兼ねた遍路もではじめる。
昭和12年、大阪・南海沿線で43日間に及ぶ出開帳。
▽135 秩父 昭和41年に午歳総開帳にあわせて、整備に力を注いだ。それ以前は、寺院の建物は朽ちて荒廃していた。昭和43年に出版された本では、「納経は寺の留守居人が扱っている」「堂前の民家で扱う」など、住職がいないで住民が代行する寺が14カ寺もある。
▽168 昭和に入っての遍路の人数の動き。昭和39年は年間7147人、44年には1万4257人、54年に3万を突破。……平成2年に5万人台に。平成10年には大幅増加、11年に7万人を超え、14年には8万人台。
昭和後期から平成期はバブル。昭和63年には瀬戸大橋。調査地の愛媛県の札所に影響を与えるのは2、3年後の平成2,3年。昭和60年から63年のNHKの「花へんろ」。平成2年には左幸子を使って「聖路」。朝日新聞は自社などが主催する「空海のみちウォーク」に関する記事を平成2年から断続的に掲載。
平成7年から9年が停滞したのは、阪神大震災の影響と、バブル崩壊後の不況。
平成10年に再び増えるのは、明石海峡大橋の開通。愛媛の札所では、開通2,3年後に大幅に増えた。平成11年には「しまなみ海道」。また、関西圏の業者の格安バス遍路の募集も10年以降の急増の要因となった。
▽183 巡礼の回数。四国遍路は初めての遍路は50%台、秩父では72.5、坂東では74.3、西国は90.2(昭和62年)。
▽198
▽217 四国遍路は外国人も注目。四国から海外に移民した2世3世が里帰りしたときに巡拝する例も。
男女比率は女性が57.1%。嫁入り前に遍路を体験する「娘遍路」が盛んだった。さらに、お接待が盛んで、経済負担が軽減されるから女性もでかけやすかった。昭和40年代に、母娘2人が家財道具をリヤカーにのせて歩き、通夜堂で炊事する遍路もあった。平成に入っても、人生に失敗した72歳の老婆が、乳母車に一式を積んで43回遍路を重ねている。
▽222 遍路の動機。「信仰心にもとづいて」の割合が減少したのは、かつて遍路の中核を占めた各地の大師講の講中たちが高齢化した。遍路の絶対数が4倍になり、中高年層の目的に多様性がではじめた。平成2年からはじまった「空海のみちウォーク」につどった高齢者たちは、健康増進や楽しみを兼ねた遍路の様相が強い。それでも「信仰」をあげる人の数は多い。
▽229 昭和28年、伊予鉄バスが団体遍路をはじめる。……西国では、徒歩による巡拝はほとんど姿を消したが、四国は未だに堅持されている。歩くことによる精神の安らぎ……癒し。
〓印南敏秀「戦前の女四国遍路」
田中慶秀「癒された遍路」朝日カルチャーセンター
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