■福武書店20220503
気鋭の文化人類学が「暮らしと文化人類学」のつながりについて1980年代に新聞に連載したもの。
ふだんは貧しい食事なのに冠婚葬祭にどんちゃん騒ぎをする。数年に一度の行事のために豪華な食器をそろえる……そうした「因習」をやめることで合理的な生活を実現してきた、と一般に思われている。
でも、食料やカネを均等に消費するのではなく、「ハレとケ」を交互に混ぜ合わせ、ハレの日にさまざまな信仰上の意味づけを与えることは、貧しい生活に「豊かな意味」を与える最高の知恵だったという。
伝統的農村では、ハレの日に人並みの消費ができないことは恥ずかしいことである一方、ケの日に浪費することも恥ずかしい行為とされた。
現代の都市生活者はハレの出費がなくなったかわりに耐久消費財を買うために貯金をはたくようになった。かつて、ハレの日のための衣服や食器をととのえたのが優れた工芸技術を発達させた。昭和30年代以降の日常生活の「ハレ化」は大量の耐久消費財の購入につながり、工業生産の水準を引き上げ、高度成長経済を支えた。ただ、ハレの場での消費は社会的な関係を補強する意味があったが、家族単位の物品購入には人間関係がつなぐ効果はない。
さまざまな通過儀礼は、その儀礼を境として、資質や能力が画然と異なることが期待され、新たな権利や義務が与えられた。今は七五三も成人式も形だけになってしまった。人間の成長にけじめがなくなった結果、モラトリアム人間などが生じたと考えられるという。
昔は女性の地位が低かった、という「常識」にも異を唱える。
たとえば壱岐島の勝本浦は妻が夫を「○○ちゃん」と呼び、発言力も強かった。むしろ工業生産社会で、家庭から生産要素が消え暮らしの実体がぼやけてきたことで、女性の地位が落ちたと考えられるらしい。
家庭での料理を一人の女性が担うというのも、2人も3人もが自分の裁量でやると、食料の消費量が多くなりがちだからだそうだ。
農村には、家族の監視から離れながら行動の逸脱を防いでくれる「若者宿」のような親密な人間関係があった。思春期の男の子を親から切り離す「共同の子ども部屋」であり、若者たちが夢中になる「非行」もそこで覚えた。
たとえばヨバイにも、結婚前提でなければ3度しか同じ娘のところへは行かないといったルールがあった。若者の性は、制限されつつも社会のなかで「市民権」が与えられていた。祭りの日には好きな子を抱けるといった習慣や、性行為を戯画化したような踊りなどにその痕跡が見られる。
現代の都市の核家族は、親族関係も地縁関係も孤立し、若者集団も存在しない。中高生の性の状況はかつての若者より文化的にはるかに貧しい。
そういう意味では、ボロ屋を1軒借りてたまり場にしていた学生時代のサークルは僕らにとって「若者宿」だった。社会人には許されない「悪いこと」をいろいろやらかした経験は大きかった。
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▽11 文化人類学と日本民俗学のちがいは、前者が他の民族の文化や社会を研究し、比較し、そうした成果をふまえて日本の文化を論じるのに対して、民俗学は自分自身の文化だけを研究対象とする。……民俗学という学問領域は欧米にも発達しているのに、日本の民俗学では、それら他国の民俗学の方法論や成果に無関心で、まさに「日本民俗学」。
▽28 家族とは 分家ができない場合は、男子がいない家へ「婿養子」に。入り婿を嫌えば、他の土地で働き、自分で家を創設するしかない。入り婿もいや、外で働く場所もない場合は、「オンジ」と言い、跡取りの兄の家に同居して一生を送った。東北地方には昭和30年代までこうしたオンジはかなりいたと思われる。
▽48 七五三も成人式も、通過儀礼は単に通過するだけのものになり、その時点を境として、その人の資質や能力が前と後では画然と異なることが期待され、それにともなっての権利・義務に大きなちがいが生じることはない。周囲の人々も少年たちを、通過儀礼の前と後とで異なる取り扱いをすることもないから本人もそれを自覚しない。……モラトリアム人間、ピーターパン/シンドロームなどと呼ばれる状態は、人間の成長にけじめや到達目標がなくなった結果から生じたと考えられる。
(〓通過儀礼、ハレとケの大切さ)
▽59 ハレの日に人並みの消費ができないことが面目を失う恥ずかしいことである一方、日常のケの日に浪費することもまた恥ずかしい行為とされて、消費の促進と抑制のバランスが取れていた。
戦後20年間は農村では盛んに「新生活運動」が叫ばれた。冠婚葬祭などは簡略化し、かわりにそれらの支出分を蓄えて生活と農業経営を近代化するための資金とするようにという運動(カトリックとプロテスタント〓)
数年に一度のために客用の食器や座布団をそろえ、日常は使わない広い続き間をもっともよい場所に間取りするのは不合理であるから、便所や風呂場、台所を明るく広く取るなどしてもっと合理的な生活設計をめざすべきだというのがその主旨であった。
▽63 ハレの出費がなくなった都会の人は、何のために貯蓄をしたのだろうか。耐久消費財だった……かつての日本人が、ケの日に節約する一方で、ハレの日のための特別の衣服や食器や用具をととのえようと努力したことが、優れた工芸技術を発達させたように、昭和30年代以降の日常生活の「ハレ化」は、大量の耐久消費財の購入となってあらわれ、工業生産の水準を引き上げ、高度成長経済を支えた。
……ハレの場での消費と、物品購入とのちがいのひとつは、前者は社会的な関係を確認し補強するのに対し、家族単位での物品購入は需要の拡大をもたらすが、消費を通して具体的な人間関係が形成されることはないという点である。
▽90
▽104 各地に小規模工場ができ、農繁期は開店休業してしまい、冬期にはフルに生産をあげるように運営されている。嫁が外で働くことで姑の関係が変化する。福島西部のメリヤス工場
▽109 瀬川清子は、物の交換のはじまりは農民の農産物と漁民の漁獲物の交換であり、商業の起こりもそこにあるという。農民が漁獲物を手に入れようという要求より、漁民の農産物への要求度が高いから、商いの主役は漁民の方にあると考えたようだ。夫が漁をして、妻がそれを農民に売るという形が基本で、販女こそが商売人の原形であるという。(京都や輪島の振り売り)
▽114 壱岐島の勝本浦 妻が夫を「○○ちゃん」と呼ぶ。夫婦仲が睦まじく……夫婦の間柄は自由で平等であるだけでなく、情報を共有する度合いが大きい。
……スルメ加工をはじまる前は、妻たちが家系の足しになるような稼ぎはしていなかった。……漁業にも船具にも女はいっさい手を出さない。女性は生業から遠ざけられていた。にもかかわらず妻が発言力をもっていたのは、……女性は、陸での生活をしっかりと支えており、陸での支えが強いほど、男は安心して漁に専念できると人々は考えている。……工業生産社会で、女性の地位の劣位が明白になったのは、人間の暮らしというものが、あいまいになり、その実体がぼやけてきたからではなかろうか。
▽110 東北地方の「芋の子」「芋煮会」。肉や里芋、ジャガイモをもって山へ行き、キノコ採りをして、大鍋に入れてみそ汁煮をつくって食べる。
……男の料理は山で、女の料理は里で、家族ごとの食事は里で、家族ノ枠を超えた集団での食事は山で行うという、二元的な対立を読み取ることができる。
「儀礼的な食事「」「家族の枠を超えた集団での食事」の料理では、男が主役であったことは以前はもっと多かったのではないか。
▽127 食事をつくるうえで2人も3人もが自分の裁量でやっていると、消費される食料は多くなりがち。このことが、脱穀やあく抜きなどの下ごしらえは複数の人がかかわっていたのに、料理だけは、かかわる人間が限定される理由となっていたのだろう。料理の責任の所在を明確にしておく必要があったからである。
▽139 死は「不浄」だから祭りに参加しない……という習慣は一般的。しかし、お産が「不浄」であるから神ごとをはばかるという心持ちはきわめてうすい。生誕30日目前後の「お宮参り」が、実はお産の「忌み」が開けたことを示す儀礼であり、それ以降は太陽に直接赤児も産婦もさらされてよいのだというようなことを、ほとんどの人は知らない。……お産は、産婦だけでなく赤児にも不浄がかかっているという信仰がかつては存在したのである。
伝統的には「忌引き」は出産についても存在した。
▽158 都市の核家族は、親族関係においても地縁関係においても、孤立性が強い。……家族生活が他に向かって閉ざされていて……。親や家族から離れ、しかも家族と同じような親密な人間関係が与えられ、一方、親の監視からは離れているが、何らかの若者の行動を規制する力を持ち、無軌道な行為は処罰してくれるような集団は今日の都市生活では存在しない。思春期の少年少女と家族の関係は今後ますます深刻な問題となりそうだ。(かつての若者組、若者宿〓など)
▽163 若者集団や若者宿。宿毛市の若者宿、独立した専用の建物をもつ。天草の下島のある農村では、公民館を若者宿として使っている。日田郡の山村では、氏神の社殿を季候のよい時期だけ共同の宿泊所とした。
……思春期に入った男の子を親から切り離す。「共同の子ども部屋」。親から切り離すが、多くの「兄弟」のなかに子どもを放りこむ役割。(〓下宿生活 ボヘハウスの意味)
▽168 若者宿は若者たちがそろって打ち込めるような「非行」も教えて暮れるが、社会の成員となったときの技術や知識を教えてくれる先輩もいた。しかし、都市の家庭の子ども部屋には、そのような先輩はいない。
▽172 ヨバイ 80人以上の女性と関係をもったおじいさん。結婚後にヨバイをするような男はいなかった、という。
……結婚が前提でなければ、3度までしか同じ娘のところへは行かないもので……この地方では「嫁盗み」もあった。
▽178 昭和60年、各地の県条例によって、たとえ相手の同意があったとしてみ、18歳未満の少女を相手として性行為を行った者を罰する青少年保護育成条例が発足。……18歳未満の少女が売春した場合、通常の取り締まりでは売春相手が処罰の対象とならないため、この条例によって相手を罰し、18歳未満の売春行為を減らすことをめざすものである。
▽185 伝統的な村落社会における若者の性は、制限されたものではあったが、性は結婚生活以外にもきちんと位置づけられ、「市民権」が与えられていた。各地の祭りで今も残る、性行為を戯画化したようなしぐさや……性は日常生活のなかに根ざし、文化全体のなかで高い価値を与えられていた。それだからこそ、性はまた神聖視されてもいた
(〓富来の祭りの例)
……今日の中高生が置かれている性の状況の文化的貧しさからは目をそらしてはならないと考える。
▽190 葬儀 7日目ごとの親しい人を招いての儀礼、49日など、少なくとも49日間は息をつくまもないほど儀礼が目白押し。
……葬式の際の食事のしたくは、一般には遺族は手も出さず口も出さず近隣の人々にまかせきりであった。米や野菜の多くは喪家もちで、その消費量は大変なものであった。
▽194 葬式は家族内の重大事件であるとともに、地縁集団の結束を補強する制度であった。
……死者の供養を遅らせることがあっては死者の霊魂が浮かばれないという信仰が強かったから、現在の都市でも「法事は早めにしても伸ばすものではない」というのが一般的。
▽203 伝統的日本人が、貧しい生活に実に「豊かな意味」を与えながら暮らす方法を発達させていた。食料やカネを均等に消費するのではなく、ハレとケという生活律を発達させ、交互に混ぜ合わせ、しかもハレの日にさまざまな信仰上の意味づけを与えたことなどは、生活を豊かにする最高の知恵だったと考えざるを得ない(マヤ、カトリックとプロテスタント〓)
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