■ちくまプリマー新書 20220420
旧石器時代から現代まで、建築のあり方がどう変化したかを俯瞰する。
旧石器時代は世界どこでも円形の家に住み、柱を立てて祈った。2歩目の青銅器時代の四大文明と、3歩目の四大宗教の時代で地域による差異が最大となり、世界各地で多様な建築が生まれた。4歩目の大航海時代に入るとアフリカとアメリカの固有な建築が滅び、5歩目の産業革命時代はそれがさらにすすみ、6歩目の20世紀モダニズムによってヨーロッパも固有性を失い、世界はひとつになった。
細長い飴玉を紙で包んで両端をねじったように、人類の建物の歴史は約1万年して振り出しにもどった、という。
なるほどなあ、といちいちうなずきながら読み進めた。
以下それぞれの時代をもう少しくわしく眺めていく。
旧石器時代の打製石器では木を伐採できないから、細い枯れ枝をさしかけてその上に草や木の皮や動物の皮をかぶせた。シベリアにはマンモスの牙を柱にした家もあった。
新石器時代に登場する磨製石器は木を伐るために発明された。比較的やわらかい石でつくった石斧は、刃こぼれしたときの研磨の手間を考えると、硬い石よりも早く木を伐ることができた。その性能は鉄の斧の1/4だった。磨製石器によって木を加工できるようになったから、おわんや柄杓が生まれ、舟が誕生して広い範囲の交流ができるようになった。
磨製石器によって森が切り開かれ農業が広まった。農業によって強く安定した社会が生まれてはじめて、人類は仮小屋ではない家らしい「家」をつくることができた。木を切り出し、柱や梁に加工して組み立てた。
新石器時代でも早い時期は、旧石器時代の仮小屋時代と同じ円形だったが、平面が広がるにしたがって四方形に変わり、面積拡大とともに柱と梁が出現した。
持続的な「家」や集落が存在することで、久しぶりに帰ると「懐かしい」と思う。「自分というものの時間的な連続性を、建物や集落の光景で無意識で確認しているのではないか」という指摘は、レヴィ・ストロースが紹介した、家の配置によって伝統を持続させたアマゾンの少数民族の例を思わせる。
旧石器時代の大地を意識した地母信仰だったが、ストーンサークルなどの巨石文化は太陽とかかわる。農耕によって気候の変化に敏感になることで太陽信仰が生まれた。地母信仰の上に太陽信仰が重なった。
地母信仰がやさしく包みこむ建物の「内部」をもたらし、太陽信仰は眼前にそびえる父のような外観をもたらし、ファザードを出現させた。人の住まいは、心を高揚させる内部のしつらいも外部の飾りもいらないが、神の家は、神の存在を知らしめる表現として意識的につくりだされた。内と外がそろうことで人類は「建築」を手に入れた。
日本の新石器時代にあたる縄文時代は竪穴式住居だった。柱や梁がクリの木を使ったのは、磨製石器の石斧ではクリが一番切りやすいからだ。やわらかい針葉樹は弾力性で石斧をはね返してしまうが、硬い広葉樹の肌なら石斧の刃先でも切り込むことができた。
竪穴式で掘り下げたのは、寒さから逃れるためだった。屋根の上には土をのせ、雨で流れないように草を植えて土を固定した。山間部や東日本ではこうした「土ぶき」だったと考えられるという。
縄文時代は、水が近い台地上が好まれたが、弥生時代の集落は水田の広がる低地へ移る。縄文の家は寒さ対策が主で土間を掘り下げていた。弥生時代も大半は竪穴式だったが、地域の首長の住む高床式の住宅も出現した。
縄文時代の材は丸太だが、弥生時代になると鉄器によって角材がつくれるようになった。鉄の刃先のおかげで、木質がやわらかくて軽い針葉樹を加工できるようになった。鉄器のおかげで日本の木造建築の基本が固まった。
縄文人は、日の出・日の入りの見える丘の上を拓き、掃き清め、中央に石や木の柱を立てた。王が亡くなるとサークルの一角に殯屋をつくり、骨になると洗骨し、骨は立柱のもとに摘み、魂を柱の先から太陽に向けて放った。
清められ囲まれたサークルの中央に柱が立つというところから日本の建築表現は出発する。
沖縄の御嶽は森の奥にぽっかり空地があって、そこだけ明るい。森のなかにぽっかりあいた明るい空間こそが日本の神社の基本という。諏訪大社の御柱も縄文時代の巨木文化を伝えるものだ。
伊勢の唯一神明造りは、本殿の高い床の下に、建物の作りとは切れた御柱が立っている。出雲大社本殿の中央の柱は、地面から天井裏まで伸びるが、上端の棟木を支えず、途中で止まっている。磐音柱とか宇豆柱と呼ばれる。
伊勢と出雲の社殿は、もとは柱だけが立ち、後に建物が持ちこまれたと考えられる。
太陽をめざして高く伸びる新石器時代のスタンディング・ストーンは、青銅器時代にはピラミッドに進化する。スタンディング・ストーンによって建築の「外観」が発生し、ピラミッドによってはじめて高さだけでなく外観全体を得ることができた。そのため、建築史の本のほとんどはピラミッドからはじまるという。
青銅器時代に四大文明が生まれ、紀元前5世紀以降、仏教・儒教・キリスト教・イスラム教の4大宗教ができるころには世界の建築に共通性がとぼしくなる。
キリスト教の教会は、集中式と呼ばれる円形もしくは多角形で天上界を示すドームが載せられた形式と、ローマ帝国で集会などに使われていたバシリカを転用した長方形の形式がある。横長に使っていたバシリカを縦長に改め、突き当たりに祭壇を設けた。このパシリか式が教会建築の主流になっていった。
安土桃山時代の宣教師ヴァリニアーノは、「横長は悪魔の形式」と呼び、日本の教会は、障子や畳を使ってもいいし、男女別席も許すが、平面だけは縦長にすべきだと記している。日本や韓国、中国の仏教寺院は横長だが、インドやタイは縦長だ。日本では住宅も、時代がすすむにつれ横長が主流になってきた。冬の寒さがきびしく、南に向かった横長が好まれたのではないかと、推測する。
ヨーロッパの建築はゴシック時代から、古代ギリシャとローマのスタイルを手本とするルネッサンス時代へ、それにダイナミックな表現を加えたバロックの時代へと移る。ルネッサンス以後のヨーロッパ建築は、過去の様式を手本とするため「歴史主義」と呼ばれる。ヨーロッパ人が世界に進出することで、アフリカやアメリカ大陸の独自の建築文化は滅ぼされ、「歴史主義」の世界に広まっていく。
18世紀後半、産業革命によって工業化・産業化・科学技術の時代がはじまっても建築表現は歴史主義が主流を占め、日本の明治・大正の西洋館もそのひとつだった。大航海時代にはじまり産業革命の時代によって、世界の建築はヨーロッパ建築一色になってしまった。
ところが20世紀、歴史主義が突如世界中から消えてしまう。
歴史主義の建築は、ゴシックのアーチとか、ローマ風の三角破風といった定型化したルールにしたがってデザインされてきた。 19世紀末に生まれた「アール・ヌーヴォー」はその枠を破り、分節化をやめ、壁面をひとつの面として扱い、装飾もデザイナーの筆の勢いにまかせた。
20世紀になると各国で新しいデザイン運動が起こる。
1919年に美術学校として開校し、1933年にナチスによって閉校されるドイツの「バウハウス」は、科学技術にふさわしい建築を求め、鉄とガラスとコンクリートを材料として使い、合理的で無駄のない四角な箱形とし、そこに大きなガラス窓を開けた。
エジプトにはじまりギリシャ、ローマからつづいたヨーロッパ建築の歴史を自己否定する、無国籍でインターナショナルな建築だった。バウハウスのデザインの背後にあるのは、ヨーロッパの歴史や文化ではなく、幾何学という数学だった。
従来のヨーロッパ建築は、部屋と廊下、外部はそれぞれ厚い壁で仕切られていた。モダニズムが到達した平面は、壁を減らし、壁のかわりに柱を立て、部屋と部屋の境をとりはらって一体化し、内と外の関係も、壁ではなくガラスによって視覚的に連続させた。
こうした平面の成立に日本の伝統建築が寄与した。1892年のシカゴ万博で、日本政府は平等院鳳凰堂を模した建物を出品した。これに刺激を受けたフランク・ロイド・ミラーが、仕切りを少なくして内から外へ向かって伸びてゆく間取りと大きな窓、水平に伸びる外観の作品をつくったという。
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▽21 3万年ほど前、燧石や黒曜石のようなガラス質の石材が使われるようになった。黒曜石は現在の手術用のメスよりもよく切れた。
▽74 縄文土器は、世界の新石器時代のなかで群を抜いて質も量も充実している。
▽82 建築用の木材加工でなにより手間がかかるのは板。製材用の横引きのノコギリが登場するのは鎌倉時代。
▽127 日本の神の空間は次のように成立。
①目立つ樹や岩があり、神々が寄りついていた。依り代としての神木や岩座や榊の起源。
②森の中に正常な囲われた場があり、神々が集まってきた。御嶽の起源。
③森の中の神をおみこしに乗せてムラまで運ぶ。春日造りの起源。
④森の中の清浄な囲いのなかに柱が立っていた。自然の石や樹ではなく、人工的に形を整えた石か木の柱。縄文の立柱、諏訪大社の御柱の起源。
⑤③の立柱にカバーとして神殿がつくられた。伊勢神宮、出雲大社の起源。
▽142 仏教には縦長と横長の問題がある。タイの寺はキリスト教と同じ縦長。
安土桃山時代のヴァリニアーノは、「横長は悪魔の形式」と呼び、日本の教会は、障子や畳を使ってもいいし、男女別席も許すが、平面だけは縦長にすべし、と条文化している。
インドからタイは縦長。中国・韓国・ベトナムは横長。
▽144 住宅も、時代がすすむにつれ、宮殿から普通の住宅まで横長にいきついて今日にいたる。東アジアは時代とともに横長化が進行する。冬の寒さがきびしく、南に向かって横長が気候的に好まれるからではないか。
▽159 従来のヨーロッパ建築は、部屋と部屋、廊下と部屋、部屋と外の境界は厚い壁で仕切られ、個々の空間は分断される。モダニズムが到達した平面は、壁をできるだけ減らし、壁のかわりに柱を立て、部屋と部屋の境をとりはらって一体化し、内と外の関係も、壁ではなくガラスによって視覚的に連続させる。
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