■季刊カラカラ別冊
1906年4月、奥集落で雑貨商を営んでいた糸満盛邦は、利益を人々に還元する方法を模索した結果、店を提供してむらの共同事業として経営することを思いついた。「奥共同店」発足。
山原船3隻を所有して経営をつづけ、1911年、薪・炭・材木などの林産物を共同店が収集・出荷し、生産者から15%の税(手数料)を徴収することをはじめた。
沖縄戦で灰燼に帰して解散。1947年に「奥生産組合」という名で復活。奥では終戦翌年には製材所を設置、その翌年には製茶工場の復旧、さらに翌年には輸送船「おく丸」の建造と発電所の設置、1950年に酒工場を建設し、奥の泡盛を生産。与論島沖で座礁した米軍の船からエンジンを運び出し発電所や製材所の動力として使ったというエピソードも。それらの施設は1953年に共同店に統合された。
大正期には近隣の集落でも「共同店」が開設される。本島中南部や離島までにおよび……1980年ごろには本島北部86、中部7、南部10、宮古3、八重山10、計116共同店があった。
戦後石垣島開拓で移住していった大宜見村の人たちが、伊野田、星野、大里、明石、久宇良において郷里と同じ形で「共同店」を開設した。
本土復帰以後、過疎化・超高齢化が進み、奥集落の現在の人口は200人、戦後最大の時期の6分の1、共同店創設時の4分の1以下でしかない。
道路整備などによって名護市の量販店まで1時間ほどで買い物に行けるようになった。そのため多くの共同店が廃止されていった。
ところが、奥をはじめ、国頭村、東村、大宜味村、名護市旧久志村・尾我地村地域、恩納村、伊平屋島、伊是名島、宮古島、石垣島東北部、西表島、波照間島では存続している。
お年寄りの日常品の買い物の場で、ゆんたく=情報交換・社交の場、お互いに助けあって生活する共同体の象徴だから。
▽10年間つくった奥の泡盛 奥では女性も酒をたしなむことがあり、「サトウザキ」(砂糖酒)が好まれた。砂糖を加えた泡盛。
1948年「奥丸」の進水式。それまで材木や木炭、薪を那覇方面に運搬する際は伊平屋、伊是名から船を借りていたが、集落で船を所有することに。めでたい日のため生産組合が準備した1石3斗の酒は進水式の1日で飲み干された。これだけの需要があるなら集落内で酒を賄いたいという声があがりはじめる。1949年、酒造所立ち上げ。
ピーク時の1950年に1300名弱の人口だったが、次第に減り、需要が減って1959年に泡盛の蒸留釜の火も消えた。
▽25 奥共同店、資産家が集落のためにと私財をなげうち設立。その後、集落民が共同出資して株主となり配当も出すという共同店のスタイルを確立させた。さらにやんばる船を所有しての那覇方面との運送業、炭、茶生産、精米、酒造、電力の供給、金融事業という共同事業も。
最近、途絶えていた炭焼きと田んぼも復活。
▽86 2003年12月、宮城県最南端の丸森町に「大張物産センター なんでもや」が開店。大張地区にはかつて2つの店があったが、2001年から相次いで閉店してしまった。民俗学者の結城富雄さんが沖縄の共同店を紹介したことで計画がすすみ、丸森町商工会支部が中心になって出資を呼びかけ、300世帯中200世帯が2000円の出資に応じて開店にこぎつけた。沖縄の共同店の「株」方式を採用。
出資した人は、自分でつくった農産物などを無料で店に置くことができる。売れたら手数料の10%を惹いて口座に振り込む。
■奥共同店創立100周年記念誌
交通の便が悪く「陸の孤島」と呼ばれた
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