■青春出版社(20030415)
▽73 巨大な墓 風葬・洗骨は1955年ごろまでつづいた。棺ごと墓室に入れて風化するのを待って洗骨する。そのスペースが必要だ。洗骨後は厨子がめに入れて安置するが、火葬よりも骨の量が圧倒的に多くなる。
▽亀甲墓と破風墓がある。破風墓は本島に多い。はじめの破風墓は1501年につくられた玉陵。王国時代は庶民は禁じられていて士族だけのものだった。明治に入って庶民もつくるようになった。
亀甲墓は戦前まで盛んだったが、最近は破風墓が多くなった。
▽132 1985年までは男女とも平均寿命が1位だった。平成に入ると男性の順位が落ちる。1995年は4位、2000年には26位に。コンビニ食やファストフードが原因ではないか。
▽136 サツマ揚げは沖縄のチキアギーというかまぼこが原型で、それが全国に広まった。
▽141 野国総官が1605年に鉢に植えて中国から持ち帰った。儀間真常は野国からゆずりうけ普及に取り組んだ。甘藷の導入で人口が著しく増加した。また、甘藷によって、人間の食べ残しや葉の部分が豚の飼料に利用されるようになった。豚以前は牛肉が食卓にのぼっていたが中国料理の影響で食用肉は牛から豚に移っていった。
「豚に始まり豚に終わる」食生活。
▽143 島豆腐 1丁1~1.2キロと本土の豆腐の3倍はある。水分含有量は82%(本土のもめんは86%)
できたてのあつあつの豆腐が売られる。本土ではあたたかいままでの販売は禁止されている。豆腐摂取量は全国平均の3割増。
「生しぼり法」で作られる。大豆をひいて皮をとったあと、ひと晩水につける。
▽145 昆布 18世紀後半になると、薩摩商人が昆布を琉球で黒糖にかえて、進貢貿易を利用して中国へ輸出した。1820年代には琉球から中国への積荷の8割を昆布が占めていた。
▽昭和初期の庶民の基本食は「ンム」(甘藷)。
▽150 そば 本島は、紅ショウガやコーレグースを使うが、八重山はピパーチ(ヒハツモドキという実を粉砕した香辛料)を使う。ソーキソバが登場するのは1975年。
▽151 ポーク 終戦後、一部の米軍が引き揚げたあと数年間、兵食用として集積されていた軍需物資が無償配布された。
▽158 泡盛 タイの「ラオ・ロン」という酒を起源とする「シャムルート」説が近年まで有力だったが……
中国福建省から伝来したという「北ルート」説の可能性が高い。
泡盛の名は、1671年の薩摩藩の「江戸上がり」の際の献上品目録にはじめて登場する。
その名の由来は3つの説がある。
①かつて粟をつかったから
②蒸留管から流れでる泡盛が受け壺に落ちるとき、泡が盛り上がるので「泡盛る」となった。
③「江戸上がり」の献上品目録で、九州の焼酎と区別するため島津氏が命名したという説
有力なのは②。品質鑑定のとき、泡のたち具合で判定下とされる。アルコール分が高いほど泡立ちがよく、きめ細かく消えにくかったという。
▽明治になると、首里王府の独占状態だった泡盛の醸造が民間でも許可されるようになった。明治26年には県内に業者は447戸まで増えるが、うち102戸は首里地区だった。
現在は47醸造所。
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