■地湧社 20211215
梁瀬は、日本で最初に農薬の害を告発した医師だ。彼について書かれた本はいくつか読んだが、本人が書いたこの本がもっともインパクトがあった。
浄土真宗の寺に生まれ、16歳のとき病気になり漢方医にいくと「白砂糖のたべすぎ」と指摘された。お供え物を食べていたからだ。
京大医学部の無医村診療班で瀬戸内の島々を調査したら、裕福な生口島の健康状態は本土と同じだが、甘藷と麦を主食とし、野菜と沿岸の魚と海藻を食べていた佐木島の住民の健康はすばらしかった。
戦争中はフィリピンで軍医をつとめた。
兵隊の食事は、大量の白米とわずかな豚肉の入った塩汁で、砂糖会社の倉庫にあった砂糖とアルコールで、アルコール砂糖水を飲みふけった。
野菜欠乏とアルコール入り砂糖水の危険を説いたが中隊長は聞いてくれなかった。そのうちに歯抜けの兵が増え、ラッパ兵の前歯が抜けラッパが吹けなくなった。マラリアの症状もひどくなった。「芋の葉を食べよ。野性の菊菜を食べよ」と兵隊に説いたが、芋だけを食べていた隊からは全身に浮腫を起こして死亡する兵が続出した。
戦後の昭和23年、尼崎の病院で17歳の少女が結核で死んだのをきっかけに、大半の人が肺に結核菌を持ちながら発病しないことに気づき、生活様式こそが結核の最大の原因ではないかと思った。少女はチョコやバターボール、ハムエッグやチーズを好み、野菜はほとんど食べていなかった。
当時農村では、生活改良普及員が動物食を勧め、裕福な農家はそれに従い、貧しい農家は昔の食生活をつづけた。この差は格好のデータとなった。1万人の生活と健康状態を観察し記録した結果、
①白米を大食して副食の少ない人は、短命であったり大病をしたりする。麦飯は健康によい。
②肉類の過食の人は病気が多い。魚の方が害が少ない。動物性タンパクが多いと体格が大きくなるが、疾病に対する抵抗性は低下する。日本人の健康長寿者には小柄な人が多い。
③大豆や野菜、海藻を多くとる人は健康。
……といった結果を導き出した。明治初期の日本人は、カルシウムやミネラル、ビタミンを豊富に摂取したが、その後、欧米式の食習慣になることで、70年後には世界最強から世界最低の体力に落ちてしまったという。
梁瀬自身も、「健康のため」と、妻から肉や魚、ハム、チーズを食べさせられた結果体調を崩し、肉をやめ、麦飯と大豆、野菜、海藻を食べ、適量の魚や卵を添えるようにしたら健康が回復した。
昭和28年、奈良県五條市でも、稲作にポリドール(パラチオン)が使われるようになった。第二次大戦中ドイツで開発されたサリンと同じものだ。戦時中、毒ガス教育をうけていた梁瀬には衝撃だった。
昭和32年ごろから奇妙な患者が増えてきた。
倦怠感を訴え、肝炎のように肝臓が腫れている。町の医師会では肝炎の流行が話題にあがったが、肝炎にしては、不眠、いらいら、めまい、耳鳴り、記憶力の減退など精神、神経の障害が強い。
幼稚園に通っていた長男も、顔の色が次第にどす黒くなり、肝臓が腫れ、食欲が落ちた。梁瀬も妻も体調が悪化した。小鳥もよく死に、解剖するとすべて肝臓が腫れ、腹水がたまっていた。
長男のふくれあがった腹をさすっているとき、ポリドールに汚染された草を食べて死んでいった牛を思いだし、「農薬ではないか」とひらめいた。
青汁を飲む人やお好み焼きをたべる人にこの症状が多かった。梁瀬の家族で唯一野菜嫌いだった次女だけが健康だった。
「真冬に農薬が使われるはずがない」と思ったが、友人の農家に尋ねると、昭和32年ごろから、ポリドールの千倍溶液を出荷前に野菜に散布するようになっていた。そうすると野菜の日持ちがよくなり光沢を増すのだという。
当時は、ポリドールは散布後2週間すれば無害になり、有機リン系の農薬は微量をつづけて摂取しても蓄積作用がないというのが定説だった。実際、散布後2週間をへた農作物の残留検査成績は陰性だったし、微量のポリドールを連続摂取しても、有機燐剤中毒の有無の決め手とされていた血中のコリンエストラーゼという酵素の減少は現れなかった。
梁瀬は、自分の体でためすことにした。
畑のキャベツに1、2、3……14とナンバーをつけ、1から毎日ポリドールの千倍液を散布する。14に散布し終わった翌日から1、2と順番にその葉をすりつぶし、しぼり汁を飲んだ。葉をとったあと、そのナンバーのキャベツにポリドールを散布した。
4,5日は、濃いコーヒーを飲んだ時のような興奮した気分があり、青汁の効果だと思った。15日をすぎるころ下痢がはじまり、真夜中に目が覚めるようになり、体がだるく、診療することがおっくうになってきた。めったに子どもに怒ったことがなかったのに、些細なことで怒鳴りつけるようになった。
中止後も回復まで3カ月もかかった。
この実験によって、ポリドールは2週間では無毒にならないことや、微量でも連続摂取すると、慢性中毒になることが確かめられた。
だが昭和28年から昭和44年まで16年の長きにわたって、猛毒性や残留性のゆえに現在では禁止されている農薬を、当時の農業指導者は、梁瀬らの反対にもかかわらず農民に使用させた。被害の責任はだれも取らなかった。
有機燐剤を使う蚊取り線香やスプレー式の殺虫剤も低毒性農薬だ。彼は「安全なものは蚊帳以外にない」と記す。私が子どものころ、農村では農薬や殺虫剤を多用していた。自然が豊かなはずなのに、精神疾患や病気が多かった。それは農薬の被害だったのかもしれない。
梁瀬はポリドールの問題を昭和34年に新聞記者に語り、ニュースになった。大阪の中央市場は五條の野菜を拒んだ。梁瀬は五條の市場関係者からつるし上げられた。 関心が薄れ、沈滞ムードが支配していた昭和38年、レーチェル・カーソンの「サイレント・スプリング」が出版され反響を呼んだ。政府も「農薬の害」について研究すると発表した。
梁瀬は無農薬有機栽培を実践する。
昭和45年。財団法人慈光会を設立、昭和46年には東京で有機農業研究会が発足し、慈光会も入会した。昭和49年、有吉佐和子の「複合汚染」の連載がはじまり、公害の世論は一気に高まった。
(1993年に逝去。97年の再販)
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▽9 昭和23年、尼崎での17歳の桂子さんの死。生命力!
ほとんどすべての人が肺に結核菌を持ちながら発病しない。発病するのは1パーセント前後。……人体のある特殊な状態においてのみ人体内での繁殖が可能になる。その状態をもたらす生活様式こそ結核の第一原因。
▽18 カロリー、動物性タンパク質偏重の栄養概念。その誤りが日本人の多病の最大原因。
現代医学には応急措置的なすばらしい長所と共に、「病気を治して病人をつくる」という重大な欠点がある。
▽20 父は浄土真宗の僧侶。16歳のとき病気に。漢方医にいくと「白砂糖のたべすぎで命が弱っているのだよ」お供え物を食べていた。当時は甘い物は疲労回復の効があり、体によいものと宣伝されていた。
▽23 昭和18年、京大医学部無医村診療班 生口島は裕福。健康状態は本土と変わらない。隣の佐木島は主食は甘藷と麦で、野菜と沿岸の魚と海藻を添えていた。この島は健康状態はすばらしく、徴兵検査の甲種合格率も抜群だった。
▽27 フィリピン 大量の白米とわずかな豚肉とウリの入った塩汁が主で、時々鶏肉や味噌が加わる程度。土着人にたずねまわって食べられる野草を探した。カンコンやタリナムを知って、兵食に加えることを熱心に提唱した。
……だが若い兵を魅了したのは、砂糖会社の倉庫にあった砂糖とアルコール。濃い砂糖水にアルコールを加えて朝から飲みふけった。
中隊長に野菜欠乏食とアルコール入り砂糖水の乱用の危険を説いたが、聞いてくれない。……若い元気な兵隊の歯がかけはじめ、歯抜けの兵が多くなってしまった。ラッパ兵の前歯が抜け落ちて、ラッパが吹けなくなった。マラリアの発熱も多くなり、その症状は激甚。
▽28 機械化連隊に所属。「藷の葉を食べよ。野性の菊菜を食べよ。食べないと死ぬぞ」と兵隊に言った。……藷だけを食べていた隊からは全身に浮腫を起こして死亡する兵が続出した。
……右足を負傷した私は27キロまで痩せ衰え、餓死寸前であったが、イゴロット族に救われて生きていた。
▽32 農村は闇景気で裕福。そこに生活改良普及員が出張して、盛んに動物食を進めた。裕福な一部の家庭はそれに従った。貧しい農家は昔のままの食生活をつづけた。この食生活の差はよいデータとなった。
▽36 1万人の生活と健康状態を見ることが目的。昭和27年夏、1万人に達した。
①白米を大食して副食の少ない人は、頑健に見えても短命であったり大病をしたりする。半つき米にすべきであり、副食を多くする必要がある。麦飯は大変健康によい。
②肉類の過食の人は病気が多い。野菜を併用してもこの害は除けない。魚の方が害が少ない。卵は1日2個以内がよい。動物性タンパクが多いと体格が大きくなるが、疾病に対する抵抗性は低下する。日本人の健康長寿者には小柄な人が多い。
③大豆を多くとる人は健康。
⑤野菜海藻を多く採ることは大切。
カルシウムやミネラル、ビタミンの豊富な食事だった。明治中期以降、欧米式の食習慣にかえ、……その体力は70年にして世界最強から最低に堕した。
▽44 高い理想と信仰のもとに有意義な人生を送る人は、老人になっても生き生きとし、肌に艶があり哀れな老人ボケをしない。少し呆けたとしても、善人すぎるとか円満すぎるとかの呆けようで、怒りボケ、愚痴呆けといったようにはならない。
……徳の高い人や宗教心の篤い人などは、死後硬直が来ない。その顔は円満でふくよかで、尊くすらある。
▽47 妻は私にだけいつも肉や魚を用意し、ハムやチーズも。ところが……体調を崩す。麦飯を食べ、肉を全廃し、大豆、野菜、海藻を食べ、適量の魚や卵を添えた。……健康がよみがえった。
……小林桂子さんの病気は、彼女の裕福な生活に原因があったようだ。枕元にはいつもチョコやバターボールがあった。ハムエッグやチーズを好み、野菜はほとんど食べなかった。
▽48 世界一の長寿国、フンザは医師のいない国。日本一の健康長寿村、棡原村は無医村である。〓
……錠剤投与に私は反対。患者各人の特長を知り、それにかなった薬をつくることが医師の務めで技術。さじ加減が医師の誇り。
▽51 青汁療法 キャベツや白菜の外葉をはじめ、緑の葉ならなんでもよいが、ほうれん草や不断草はシュウ酸が多いから避けるべき。辛い大根菜も適当でない。
青汁を1日に3−4合飲む。遠藤青汁の会(倉敷市)
▽58 硫安をつかって野菜をつくる妻。発育良好。だが、堆肥を使った農家のナスや菜っ葉ははるかにおいしい。「化成(いろいろの化学肥料の混合物)をやれば……金肥(化学肥料)は土が堅くなってだめだね」
……農家の大半は化学肥料の礼讃者。数少ない篤農家は堆肥の重要さを強調。
▽60 ドイツの化学者リービッヒは、植物の灰を分析して窒素と燐とカリの3元素を発見し、肥料の3要素と名づけた。すべて植物は3つでできているから、その化合物さえ与えれば生育すると考えた。「植物無機栄養説」これが化学肥料のはじまり。……第一次大戦中の火薬製造技術が、戦後化学肥料の生産に転用され……
▽61 昭和28年、私たちの地方の稲作にポリドール(パラチオン)が使われるようになった。第二次大戦中ドイツで開発された有機燐性の毒ガス、サリンと同じもので、猛烈な毒性をもっている。戦時中、機械化部隊に属していて毒ガス教育をうけ、、兵隊の起こした毒ガス事故なども数々経験していた私にとって、おおきなショックだった。……必死になって人々に「ポリドールを使うな」と訴えた。
農業改良普及所長のT氏は農水省の指導を信じていた。「マスクをし、ゴム手袋をつけて、長袖を着てやれば大丈夫です」。数年後、若くしてがんで死んだ。
▽67 昭和32年の夏ごろから、外来に奇妙な患者が多く訪れた。
悪心、全身倦怠感などを訴え、しばしば肝臓が腫れていて、一見肝炎の患者である。町の医師会では肝炎の流行が話題に上がった。しかし……単なる肝炎としては余りにも精神、神経の障害が強い。不眠、いらいら、めまい、耳鳴り、記憶力の減退等々。さらに口内炎や皮膚の異常着色をともなうものが多かった。
ふと、昭和30年の森永ヒ素ミルク中毒事件の時の症状と似ているのに気がついた。
……粉ミルクが原因と考え、森永本社に現物に手紙を添えて送った。「誤診だろうから、よくよく注意してものを言ってほしい」……その後8月末、大々的にヒ素混入が発表された。
▽70 昭和33年に入ると奇妙な患者はますます増えた。幼稚園に通っていた長男も、顔の色が次第にどす黒くなり、ごろごろして遊ばなくなった。いつも腹を苦しそうにたたいていた。肝臓は腫れ、食欲はなかった。妻も長女も同じようになってきた。ただ、次女だけはどうもなかった。
私も下痢に苦しみ、労働意欲がまったくなくなって……「死んだ方がましだ」私も家内も口にした。
小鳥がよく死んだ。解剖すると、すべて肝臓が腫れ、腹水がたまっていた。
昭和34年2月11日、腹痛を訴える長男の蝦蟇のようにふくれあがった腹を、ただ祈りながらさすっていた。突然、ポリドールに汚染された草を食べて、苦しみ死んでいった牛の姿が頭に浮かんだ。「農薬ではないだろうか」
私の健康法の共鳴者にこの患者が多いこと、お好み焼きをたべる人に多いこと、私の家族で唯一野菜嫌いで、叱られてばかりいる次女だけがこの病気にならぬこと。私の言うことを一番よく聞いて、野菜をたくさんたべる長男がもっともはげしいこと、小鳥がよく死ぬこと、しかも神経麻痺症状を呈することなどなど。「しかしこの真冬に農薬が使われるはずがない」
農薬への疑いについて友人の農家に尋ねにいった。彼によれば、昭和32年ごろから、野菜づくりの秘訣として、ポリドールの千倍溶液を出荷前に野菜に散布することが全国的に流行っている。そうするとポリドールのホルモン的作用で野菜の日持ちがうんとよくなり光沢を増し、大変よい値で売れるのだ。「この界隈でも皆やっているよ」と彼は言った。
▽75 ポリドールが散布後2週間すれば分解して無害になるということ、ポリドールはじめ、すべての有機リン系の農薬は微量をつづけてとっても蓄積作用がないという当時の定説。
……散布後2週間をへた農作物の残留検査成績はすべて陰性であったし、また、微量のポリドールを連続摂取しても、当時有機燐剤中毒の有無の決め手とされていた血中のコリンエストラーゼという酵素の減少が現れないことは、文献に示されている通りではあったが……
そこで思い切って、自分自身の体でためしてみることに。
畑のたくさんのキャベツに123……14とナンバーをつけ、1から毎日それぞれ1ナンバーずつポリドールの千倍液を散布した。ナンバー14に散布し終わった翌日からナンバー1、2と順番に毎日その葉を5−8枚ずつとってすりつぶし、しぼり汁を飲んだ。葉をとったあと、またそのナンバーのキャベツにポリドールを散布した。
4,5日は異常はなかった。朝早くめざめるのと濃いコーヒーを飲んだ時のような興奮した気分があって、青汁の効果だと考えた。15日をすぎるころ下痢が始まった。毎夜、真夜中に目が覚めるようになった。体がだるく、診療することがおっくうで、かつ診断がなかなかつきにくくなった。一方、妙な発想ばかりが次々と浮かんできた。めったに子どもに怒ったことのない私が、些細なことから怒鳴りつけてあとで後悔したのも、無人踏切で、進行してくる列車のすぐ前を無意識のうちに単車で突っ走ってしまったのもこのころだ。毎日がまるで霧のなかの人生といった感じで、なんだか常に遠くから招かれているような気分になってきた。……中止後もなかなか回復せず、3カ月もしてやっとよくなりはじめた。
この実験によって、ポリドールは散布後2週間ではかならずしも無毒にならないこと、微量のポリドールでも、連続摂取していると、急性中毒とは違った形の中毒症状(慢性中毒)があらわれることを確かめ得たのである。
▽80 昭和28年から昭和44年まで16年の長きにわたって、ポリドール、テップ、エンドリン、フッソール、水銀剤などなど、猛毒性や永い残留性のゆえに現在では製造や使用を禁止されている農薬を、当時の農業指導者は、私たちの必死の反対の叫びにもかかわらず「大丈夫だ」と農民に使用させ、大被害を与えた。……だれひとりその責任をとる者はいない。健康を失った農民は泣き寝入りである。
現在「大丈夫だ」として農民に退寮しようさせているいわゆる低毒性農薬なるものも、将来臍をかむ日のくることを、私は日々の診療を通じてしみじみ感じているのである。
▽99 アブラムシ駆除にスミチオン。有機燐剤中毒であるとして蚊取り線香をやめさせ、市販の果物を禁止した。……
スプレー式の殺虫剤は、いずれも低毒性農薬である。……安全なものは蚊帳以外にないと信じる。
▽104 米は、昭和44年以来、残留性の強い塩素系や水銀系の農薬が使用禁止になったのと脱穀するのとで、まず大丈夫。麦を混ぜることをおすすめしたい。……果物は食べない方がよい。乳児には市販の果物の果汁はなるべく避ける。
……庭にケールを植えて、その青汁をのむっことは野菜不足を補うためよい。
▽111 昭和34年、患者のほとんど全員が農薬の慢性中毒の症状を呈していることに気がついた。……昭和34年4月中旬、毎日新聞と読売新聞の記者が私の家を訪れた。両新聞の地方版トップに記事が報道された。町は蜂の巣を突いたような大騒ぎに。「大阪の中央市場は五條の野菜を買ってくれなくなった」と農民は叫んだ。
6月中旬「市場に来い」120か130人入る。「やってしまえ」、野次が飛んだ。……
▽117 昭和34年6月、私が迫害をうけたことが新聞に報道された。町の有志50数人が集まって私の後援会「健康を守る会」を組織してくれた。
▽131 エンドリンについても実験を試みた。当時「人畜無害」とされていた。エンドリン中毒で寝込んでいた昭和35年の秋……全身の力がすっかり脱けてしまったような、いうにいわれぬだるさ。
▽135 サンデー毎日(昭和36年2月12日号)の記事によって、全国にたくさんの同志を見出した。
▽138 だがその後、マスコミや市民の関心も次第に薄れてきた。一時盛んであった講演の依頼も次第に少なくなり、有機農法の研究会の出席者は激減。……数人の同志もやめていった。
▽141 沈滞ムードが支配していた昭和38年の冬、「レーチェル・カーソンの「サイレント・スプリング」を読んだことがありますか」と農業評論家から電話。「生と死の妙薬」と題されて出版された。全国に異常な反響を呼び起こした。「残留農薬による慢性中毒」という事実が認められ、人々は恐怖に陥れられた。政府も研究機関を動員して「農薬の害」について研究と処置に努力するよう声明した。私たちはいよいよ悲願の農薬廃止の日が近づいたことを喜んだ。昭和42年春、もうこれ以上一開業医が騒ぐことはあるまいとして「健康を守る会」を解散した。
▽156 屎尿を用いることは、戦後、野蛮かつ不潔な農法として捨て去られた
……そのまま田畑に散布すれば、伝染病や寄生虫病の原因となるが、これを野壺にため、たびたびかき混ぜて空気を入れながら3〜6カ月も放置すれば、バイキンも寄生虫卵も死滅してしまって、清潔で、悪臭もない立派な好気性完熟有機質堆肥に変わる。
下肥の害を農村に起こしたのは近代農法の罪である。明治の終わりごろから化学肥料の理論を盲信して、下肥はアンモニアが効くのだと思い、古くなれば肥効が落ちると錯覚して、腐熟していない生の屎尿を田畑に施した。だから農村は細菌に汚染され、寄生虫の巣となり、作物には病虫害が多発するようになってしまった。
▽167 トマトは元来乾燥地方の植物。ビニールの屋根をつくって、雨が当たらぬようにして、土作りを併用して、無農薬で成功するようになった。
▽175 家庭菜園 有機質肥料でも、生のものは決して土に埋めない。穴を掘って厨芥を捨てるが、水分が多すぎて空気が通わず、しばしば嫌気性堆肥になる怖れがあるので、藁や落葉や枯れ草のようんあがさがさしたものを混ぜる。油かすや鶏糞、石灰などを混ぜる。空気を通わすため、ゴミをすてるたびに鍬でかき回すのがよい。穴にはふたをきっちりして雨が入らぬようにする。時々かき回して半年もすると土になってしまう。
……堆肥をつくれない人は、上記材料を作物から離して畑の土の上に置いておくのがよい。その上へ石灰を散布して犬猫に荒らされないようにする。
……害虫多発期は地上に生の有機物をおかぬこと。とくに乾燥鶏糞は絶対禁物。
▽180 昭和45年3月、私たちの運動が再開された。財団法人慈光会の設立が計画された。
▽196 昭和46年、東京で有機農業研究会が発足。協同組合経営研究所理事長の一楽照雄先生と、主任研究員築地文太郎先生が生みの親。
……私たち慈光会は、会ごと全員入会させていただいた。私はその幹事の一員に加えられた。
……昭和49年10月、朝日新聞に有吉佐和子の「複合汚染」が連載されはじめた。公害の世論は一気に高まった。
……昭和50年1月、有吉先生は慈光会を訪問された。
▽204 素人は肥料を作物の近くへやるので失敗する。ずっと遠く、畝の端の方へ施す。これを「待ちごえ」と言います。根は必要なときに伸びてきます。近くへ施すと否が応でも吸収させてしまって病気になる。
……有機質の一時分解の時のガスや、その他の分解産物は、植物にとって本当の肥料ではなくて毒作用のある刺激剤です。
▽216 除草剤だけは必要という意見があるが……「第1回は田植え機に特殊な装置をつけて機械で除草凍ます。それ以降は稗を取りに田に入ったときに、稲の状態を見ながら大きい草だけを手で抜きます」「(雑草が増えるのは)田の土がやせているからじゃないですか。土が悪いとたちの悪い草が生えます」……根が固くてなかなか厄介なものです」
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